踏んだ瓦礫が下駄の下で呆気なく崩れ、体がよろけた。
 ふと足元に目を落とすと、いつの間にか随分煤と土埃を被っている。またすぐに汚れると分かってはいながらも、少年は腰を屈めて足を払い、また背を伸ばした。
 広々としている。否、寒々としている。
 地平まで望めるほど乱暴に全てが取り払われた大地の上、動いているのは虫と、彼自身と、先を行くもう一人だけだった。
 風も無いのに身がぞくりと震えた。どこまでも白く低い、息の詰まるような空。来し方を振り返ってもやはり、道とは呼べない、瓦礫だらけの地がそこ此処に転がっていた。焼けた地面、死した木々、崩れた家々、そして方々に見える人だったもの。この鼻はいつ慣れてしまったのだろう。煙に、腐臭に。
 みずのえ
 水に恵まれ水を尊ぶ、それがこの国の在りし日の名だった。
 周辺国の中でも歴史は長く、それを反映して文芸水準は他の追随を許さない、雅の国。長い時を経て、国は五つの家によって秩序正しく治められていた。
 水の国の二つ名にふさわしく、主だった街には、地の道とは別に水の道が張り巡らされていた。川は南で三本に合流するまで豊かに流れ、道を知り尽くした櫂持ちたちが悠々と舟を泳がせた。波紋はあくまでもゆったりと、勿体ぶるように岸まで広がったものだ。
 遠い記憶との落差に目を伏せた、少年の足がまた止まる。一歩先にはかつて川底だった窪地がある。
 ほんの八日前まできらめく光を跳ね返す水を湛えていたであろう、そこには今、炭のような草に絡み付かれた黒い骸が転がっている。途中の橋も焼け落ちており、やむなく一旦底へ下りる。彼の足が傍を通り過ぎるとき、骸がわっと膨張したように見えた。ぎょっと目を留めると、ぼやりとした黒い輪郭はまた蠢きながら骸の形へ戻る。
 溜息を吐いて地面へ上る。すだく虫の唸るような音が、彼の耳にも低く届いた。
 かつての姿を知っているだけに、今のこの場所は、同じ壬だと信じるに難い。積み重なった歴史に磨き上げられた雅は、ただの数日で灰燼に帰した。ここは壬の中でも南に位置する豊川領だが、他が全き無事ということはないだろう。きっとこの国が辿る道は彼自身の祖国である東雲しののめと同じ。
かいり
 そう呼ばれた少年は、ふっと前を行くもう一人に目を向けた。年嵩の少年が不機嫌そうに眉を寄せ、鋭い目付きで彼を睨んでいた。
 いかにも、今まで自分が眺めていた場所に何やら価値の高いものが落ちていそうだった、という風を繕って、浬は早足でそちらへ歩んだ。申し訳なく思う素振りを見せてはならない。声をかけた彼、針葉しんようにとってそれは、罵倒と拳を欲しているように映るらしい。少なくとも浬がそうするときは。
「そちらでは何か見付かりましたか」
 加えて、何か言われる前に話し始めねばならない。悪態を吐く暇を与えないこと、これが針葉による理不尽な扱いを避けるための第一歩だ。二年前に「家」に連れられた浬が、安らかに暮らすためにまず学んだ知恵だった。
 針葉はふんと鼻息を吐いて首を振る。
「大抵は持ってかれた後だな。今度はちっとばかり遅かった」顔をぐるりと後ろへ向け、「頼みの綱の国守くにもりもあの様じゃあな」
 彼が顎でしゃくって示した先には、ほとんど崩れ落ちた黒い邸の跡が見えた。
 五家の一つ、豊川家の邸だ。壬南部の領地を治めるとともに、国守として壬の治安維持を担っていた家だった。敷地は中にぐるりと濠が巡らされるほど広かったが、本邸とおぼしき建物は全焼、その他の建物も焼け落ちて人がいられる状態ではなかった。
「最後くらい何かでかいもん分捕ってやりたかったが」
「大火から十日近くが経ちましたし、荒らされた跡も見えますね」
「今うろついてんのなんて俺らくらいだ。あと少し早く入れてりゃな」
 針葉が顔をしかめたので、「そのお陰で無駄な争いは避けられましたよ」と適当に取り成しておく。
「にしても気が滅入るな。人はどこだ。火事泥に会いたいとは言わんが、まさか住んでた奴らが全部焼けたわけでもないだろ」
「ここまですっかり焼けてしまうと、身を寄せる場所にもなりませんからね。ただでさえ見晴らしの良い場所で、邸の近くはそれこそ盗賊も多くなるでしょうから、この辺りで無事だった人は境の域まで逃げたんじゃないですか。番処は関を閉じなかったでしょう」
「じゃああいつら全部そうか。畜生、そのせいで」
 また口調が尖り始めるのを察して浬ははっと頭を働かせる。
「それに国一つが丸々焼けたとも思えませんから、別の領地へ行ったのかもしれません。ここから東にある江田領はやはり被害が大きかったようですが、北へ抜ければ上松領です。どんなに急いでも丸一日はかかりますが、向かってみますか」
「さっさと連れてけ。こんな地獄みたいな場所、長くいるもんじゃねえ」
 そう言う針葉は、浬がこの地獄を見るのは二度目だとは全くもって気付いていない。一度目に見たのは浬自身の国が焦土と化した姿だった。
 あれから二年を経て、風の強い乾いた夜に、突如国を襲った火の手。空まで赤く染まった。東雲のときと同じだ。まだ錯綜するばかりで全貌は見えないが、二年前よりも確実に被害は甚大だった。きっと裏にいる者も同じ。
 北の大国飛鳥によって、舐めるように境界から喰われていく。過去に描かれたどの地図の大きさにも満足せず、事あるごとに体を伸ばし、壬の北から東までをぐるりと覆うまでに広がった、あの国は飽くことなく肥え続けている。
 辺りには既に早い夕闇が忍び寄っていた。ろくに寒さをしのぐ場所も、身を隠す場所すらない国守邸から離れて、二人は歩けるだけ歩き、辛うじて骨組みを残す家に潜んで日が昇るのを待った。

 北上する道すがら、人の姿もそこかしこで見るようになり、大火など知らぬのどかな集落も過ぎた。水流れる川は草がはびこり、雅というより田舎じみていたが、どちらが人の住む地かは比べるべくもない。領地の端に近付くほど緑も残り、それはやはりあの火が領主の邸を狙ったものだということを如実に現していた。
 地平の奥に山の影を捉えて上松領に入ったことを知り、壬入り二日目の夜は落ちた。
 そして三日目の朝。
 天に向けて大きく伸びをする、浬の頭上に広がる空はどこまでも白い。仰ぐと鳥が点々と見えた。針葉は先に外へ出て肩を回している。
 弱い陽の光を頼りに、浬は方角を確かめて歩き出した。後ろから付いてくる足音。集落で調達できる食糧にも限りがある、往路は今日までだ。
「こっちも火の跡があるな。上松の邸はどの辺りだ」
「それほどかからないと思います。三階建てなんてあの家くらいですから、見ればすぐに分かります」
 ふんと気の無い返事、続いて鈍い音。振り向くと針葉が近くの煤けた柱を蹴ったところだった。それだけ見れば領主の邸と見紛うような、大きな家の門の一部だった。
「領主近くにしちゃ無事な家が多いな。つってもその分荒らされてるようだが。豊川とか江田とか、南が中心に狙われたのか」
「さあ……」
 浬は地面に目をやる。煙の臭いが酷いのも足元が悪いのも所々に骸が転がっているのも相変わらずだが、針葉の言うように被害の程度が違う。家々は半壊状態でありながらも骨組みはしっかり残って視界が遮られる、その一方でひと気が無い。大火というより盗賊の仕業か、いや、それにしても。
 黒く煤けた壁を、柱を、地面を、弱々しい陽光が照らす。二人は天を向いた瓦礫に気を付けながら歩いていく。下駄の音はなかなか一定を刻まない。
「そろそろ見えてくるはずです」
「詳しいもんだな。お前は来たことあんのか」
 尋ねられたほうは、少し呼吸を置いてから答える。
「昔、東雲にいた頃に一度だけ。東雲と壬は互いに、坡城さかきや飛鳥より近しい関係にありましたから」
「で、どっちとも斃れたってか。笑い話にもなりゃしねえな」
 針葉の言葉に答える声は無い。黙々と歩く浬の後姿には、哀しみはおろか憤慨すら見えない、ように針葉には思えた。
 少し行くと、他から頭一つ出た邸が家々の影に隠れて見えた。屋根瓦は落ち、壁も無様に崩れて黒く染まっているが、未だに物々しさを醸し出している。上松領主の邸だ。
 浬は足を止めて振り返り、後ろの男にそれを指で示す。腰の柄糸を左の親指で弄っていた針葉は、顔を上げて軽く頷いた。

 先に足を止めたのは、後ろを歩く針葉だった。興味を引くものでもあったのかと、浬は珍しいものでも見るような心持ちで振り返る。
 針葉の顔は右方を向いて止まっていた。何度か瞬きした後、一点に目を向けて口を固く結ぶ。その先にあるのは、やはり大きな家の一部の、所々が煤けて砕けた板壁の残骸だった。折れ目は天を刺すように不揃いで、一人ぶんの丈も無い。何の音もしない。
「何か」
 浬が抑えた声で短く問うと、針葉は眉をひそめて小さく首を傾げた。
「いたと思ったが……気のせいかな」
 そうは言うものの、彼の表情は堅く強ばったままだった。ついにはそちらへ向き直ると、瓦礫を踏んで歩き出す。
 浬の背丈よりも低く見えるあの壁に一体誰が隠れられるのか。浬は自問する。大火から十日経った今、住人が留まっているとは考えにくい。盗賊とも思えない。そもそもあんな壁一枚では安全に身を潜める場所にもなりえない。とすると余程の考えなし、精々が年端行かぬ子供か、骸か、犬か猫か。いたとすればの話だが……。
 針葉の背がまた一歩壁に近付くが、誰が出てくるわけでもない。一歩、そしてまた一歩。
 そのとき、彼の下駄の歯の下でがたりと音がした。不安定に積み重なっていた瓦礫が崩れたのだ。よろけた体を支えるためにもう一歩。それに重ねるようにして、彼の向かう方からも小さな音が聞こえた。
「今」
 浬の言いかけた声も途中で止まる。壁の向こうには今、柄があった。それが地に対して斜めから垂直になるに従い、ゆっくりと、それを掴む白い手の甲も姿を現す。
 ぴんと張り詰めた空気を壊すように、がしゃりともう一度音がする。刀が立てられたらしい。細く汚れた指は柄をしっかりと握り、徐々に骨が浮き上がる。刀に寄りかかるようにして、小さな体が姿を現した。
 紺地の着物に、茶みを帯びた短い髪。浬や針葉の黒とは違う、その色は純粋な壬びとの印だ。
 そこまではよろよろとした動きだったが、両の足で地を踏んだ途端に姿勢が伸び、うつむき加減だった顔が真っ直ぐに正面を向いた。
 小柄な少年だった。
 浬より年下に見える、十三、四だろうか。首の辺りでばらりと切られた髪が揺れ、痩けた頬が覗く。体の大きさに不釣り合いな大刀は滑稽なほどだ。しかし本人はそんなことを微塵も感じさせぬよう、しっかり結ばれた口と、髪より更に薄い色の目で、二人を静かに睨み付ける。
 着ているものの暗い色が、血の気の感じられない肌の白を引き立てていた。袖から覗く手首はか細く、本当に生きているのか疑わしいほどだ。
 彼は目だけを動かして順に二人を眺め、結局は自分から近い位置にいる針葉に視点を定めた。当の針葉はといえば、両腕を力無く下ろして立ち尽くし、少年を見つめるだけだ。
 何の声も聞こえない。風だけが瓦礫や残った家々の間を、びゅうと鳴きながら通り過ぎていく。
「お前それ、どこで手に入れた」
 先に響いたのは針葉の声だった。少年の右手にある刀を指で示す。
 少年は一度刀に視線を落とし、何も言わないままで問うた方を見返した。固く閉ざされていた唇がようやく開く。
「欲しいか」
 高くもなければ低くもない、少年とも少女とも取れそうな声だった。
「訊いたことに答えろ。もしあの邸ん中ってんなら、そりゃ俺のもんになるはずだった刀だ」
 少年は何も言わず表情も変えずに、針葉の吐く無茶な理論を聞いている。
「俺らとお前なら、人数の違いを差し引いたってどっちが勝つかは瞭然だ。お前みたいな痩せっぽちの餓鬼を殺すのもすっきりしない。……分かるな、おとなしく寄越すのが互いの為だ」
「では」
 少年の目が、笑うようなかすかな動きを見せた。視線はぴたりと針葉に合わせたまま、鞘に左手を添えて刀身を抜く。白い空の陽が反射して鈍く輝いた。
「取るといい」
 少年の右手が、抜き身となった刀の柄を二人へ差し出す。
 刀を盗み出しておきながら骸しかいない半壊の街に留まったり、わざわざそれを鞘から抜くといった彼の行動に、浬は不穏なものを感じて歩み寄った。針葉がちらと振り返り、再び少年の方へ向き直る。右腕を差し出した格好から彼が動いた様子は無い。
「物分かりのいい奴は嫌いじゃない。じゃあ貰ってやろうか」
 息を吐いて針葉が歩き始める。言葉とは裏腹に左手は腰に差したものの鯉口を緩め、一歩一歩ゆっくりと、先程より幾分か緊張した足取りで近付いていく。対する少年は微動だにせず、頭一つ違う針葉に怯える様子すら無い。針葉の足が少年まで、あと十歩、九歩、
 ふと少年の表情が変わった。
 ぴくりと二人の体にも緊張が流れる。
 一度瞬きをすると彼は目を伏せ、二人に差し出していた右腕をすっと引いた。足を止めた針葉は、腰を屈めて半身を捻り、右手を柄にかけて鯉口を切る。
「何を……っ」
 浬も柄に手をかけて二人のもとへ走り出す。しかし言葉を続ける間もなく、少年は刀の切っ先を翻して――刃が向かったのは彼自身の喉元だった。
 目を瞠る。
 袖が開いて、女のように滑らかな腕があらわになる。
 色の失せた唇には、恐れでも躊躇いでもなく、解き放たれたような悦びが浮かんでいる。茶色の目はもう何も見ていない。
 滑らかな刃が細い首に食い込む、血がぷつりと溜まってひと筋流れる、なんと呆気ない、あとはひと思いに引くだけで。
 彼の口が小さく開いて息を取り込む。最後の息を。
 間に合わない。
 浬の黒い目の中で、今、彼は刃を滑らせ、
 ひと思いに、
「やめ――
 届かないと分かって手を伸ばした、浬の足が唐突に止まった。
 肩で息をする。
 早かったのは、少年の腕を掴む針葉の手だった。その大きさに対して少年の手首は、あまりに細く頼りない。刃は彼の首から指一本離れたところで止まり、ぶるぶると震えている。茶色の目は焦点を取り戻して、刃を、針葉を見る。その目に燃えるような怒りが宿るのが見えた。
「……同じだろう」
 ずっと静かな表情を崩さなかった彼が、目を剥いて腹の底から低い声を出した。いまだ腕の力は抜いていないらしく、針葉の腕が時折震える。
「あ?」
「欲しいのなら、存分に血を吸わせた後で持ち帰ればいい。骸が一つ増えるだけだ。手間が省けて良いだろう、何の文句がある!」
 彼は渾身の力で、手首を押さえつける腕を振り払おうともがく。しかしそれが敵うわけもなく、針葉はわざと耳元に屈んでがなり立てた。
「馬鹿か、お前一人切っただけでも切れ味が落ちんだよ! 誰が手入れすると思ってんだ。んな死にたいってんなら刀なんぞ使うな、首吊るなり崖から飛び降りるなりしやがれ!」
 少年が騒音を避けるようにぶんと頭を振る、その弾みで刀が滑り落ちた。かん、と瓦礫に跳ね返る。
「あ……っ」
 針葉の腕を振り払って飛び付こうとする、その眼前で、浬が柄を踏んだ。
 地面に手を付いた彼が浬の顔を睨み付ける。
 今にも噛み付かんばかりでありながら、しかし浬が屈んで刀を取り上げるとき、彼の腕は怯えたように縮んだ。
「返せ! それは私のものだ」
「取ればいいとか言ってたのを聞いた気がするけど」
「誰が渡すか! それ以上汚い手で……、っ」
 針葉が後ろから少年の腕を捻り上げて、喚き声が止まった。暴れようにも足元の瓦礫を蹴飛ばすことしかできない。
「ちょっと押さえておいてください、片付けるので」
 刀の血を拭って壁の向こうに落ちていた鞘を拾い、収めると、浬はようやく息をつくことができた。
「厄介な餓鬼拾ったもんだな」
 苦い表情で、針葉が溜息とともに洩らす。両腕を後ろで掴まれて身動きもままならない少年は、それでも目の光を失わずに二人を睨みつけている。
「どうしますか、これから。こうなった以上は放っておくわけにも」
「殺せ、それが何より容易いだろう!」
 顔だけを浬へ目一杯近付け、少年は唾を飛ばして吼える。浬は薄い色の目をじっと見つめ、その頬を一度だけ強く叩いた。ぱしんと乾いた音。少年の後ろで針葉が目を丸くする。
 幼い顔は衝撃で横を向いたが、茶味を帯びた髪の向こうには怒りに輝く目があった。
「ごめんね、痛かった? でも怒るのはおかしいな。命を失うときの痛みはこんなもんじゃないよ。これくらいで騒ぐのは、死ぬ覚悟もできていない証だ。違う?」
 ゆっくりと咎める穏やかな声に、震えた息が重なる。針葉の腕の内で細い肩が上下する。
 突然、少年は固く食いしばっていた歯を開いた。隙間から舌先が覗いたのを見て、浬は咄嗟に腕を、
 間があった。
「……浬」
 少し遅れて、針葉が名を呼んだ。
「大丈夫です」
 上下の白い歯に、赤い舌と浬の指が挟まれている。すんでのところだった。腕は自由にならず、刀も奪われ、自害のための最後の方法だったのか、舌を噛もうとした歯の力は強く、しばらくして彼の唇から血が垂れた。浬の手から流れたものだ。
 信じられないといった目つきで浬を見て、彼は恐る恐る顎の力を弱める。
「こら、いい加減に観念しろ」
 針葉が片手で彼の両手をまとめ、もう一方の手で頭を軽く叩く。今抵抗すれば逃げ出せる見込みはあっただろうが、彼は項垂れたままで何をする素振りを見せなかった。
「おい餓鬼、返事くらいしろ。生きてんだろ」
「お前たちのせいで……」
「当たり前だろ、訳も分からず目の前で死なれちゃ、胸糞悪いことこの上ねぇ」
 浬がしゃがんで顔を覗き込むと、彼はぐったりと目を閉じていた。
「疲れた……」
「そりゃお前、生きてっからだ。飯でも食って熱い湯浴びて一晩眠ってみろ、最高の気分が味わえんぞ。何百回死んだところで到底辿り着けねぇ極楽だ」
 針葉が言い終わらないうちに少年は、力が抜けたようにその場にへたり込んだ。いくら両の腕を引っ張ったところで立ち上がる気配は無い。
「大丈夫?」
 ぐちゃぐちゃと乱れた前髪をかき分けて、どうにか顔を探り当てる。間近で見ると、色の白さと痩けた頬が強調された。肌が冷たい。目が虚ろにしょぼついている。
「何か……食べるものを持っていないか。腹が減っているのを思い出した……」
 さっきまでの威勢が嘘のように、弱々しく彼は言った。

「死ぬっつってた割にゃいい食いっぷりだ」
 昨夜通った集落で引き換えた握り飯を少年に与えて、針葉が満足げに頷く。少年はひと時も飯から目を逸らすことなく、追われているかのように咀嚼を続ける。首の傷を拭ったため握り飯は所々赤く染まってしまっていたが、彼は気にもしていないようだった。
「お前、名と歳は」
 そう問われて少年はやっと視線を上げた。口の端についた飯粒を唇の奥に押し込んで、何度か瞬く。
「……何のためだ」
 相変わらず彼の警戒は解けていなかった。出会ってからの経緯に加え、年嵩の二人を相手にしていることを考えると、それも仕方ないことではあったが。
「お前を家に連れて帰るからだ。盗人で身ぃ立てられそうにもないし、行く当ても無いんだろ。素性の分からん奴を家に上げるつもりは無いからな」
「飛鳥へ行くつもりなど無い」
 彼は眉根を寄せてぴしゃりと言い放ち、慌てて握り飯の残りを全て口の中に押し込む。忙しい咀嚼。ようやく二人は、彼の纏っていたむき出しの敵意の意味を悟ることができた。元より壬と敵対しており、恐らくこの大火を引き起こした飛鳥びとに対するものと考えれば、あの燃えるような目も納得がいく。
「僕たちは飛鳥じゃなく坡城から来たんだよ。分かる、ここより南の豊川領を越えた、更に南の国だ。飛鳥とは反対側にある」
 浬の言葉に彼は目を丸くし、気まずそうにうつむいた。咀嚼を終えた口が躊躇いがちに開く。
「どうしてこんな内地まで坡城びとが……。今、黒髪に黒い目でうろついていたら、誰だって飛鳥びとだと思う」
「お前は素直に謝れねぇのか」
「じゃあ飛鳥びとに見付かって酷い目に遭う前に死んでしまおうって、そう思ったわけ。今までの十日生き延びたんだから、元から自害したかったわけでもないんだろ」
 彼は視線を地面に向けてしばらく黙っていたが、手に残った飯粒まで残すことなく腹に収めると、ようやく上目遣いで二人を見た。獣のように凶暴だった顔に、今は不安が漂っている。
「十と四、名は……あかつきと、」
「暁、ね。十四ってことはお前と紅花こうかの間か。ああ、俺は針葉でこいつは浬、俺らの家には他に四人いて」
「それよりも大丈夫ですか、勝手に連れ帰って」
 浬が口を挟むと、針葉は大仰に顔をしかめた。
「勝手にって、何言うにしたって一旦帰んなきゃなんねぇだろうが。それに二年前だって、奴らが勝手にお前を拾ってきたんだろ。俺が追い出したりしたか、え?」
「むしろ手厚い歓迎はいただきましたけど。酢とか」
「二年前」
 二人の応酬に小さな声が割り込む。浬が頷いた。
「僕は東雲の出でね、二年前の大火で焼け出されたくちだ。暁と同じような境遇だよ」
 それ以上の言葉は無かったが、和らいだ表情が何よりの安心を物語っていた。腹にものを入れたからか、頬や唇にもわずかに赤みが差したようだ。
 天を仰ぐと、明け方の色だった空は今は明るく、青く澄んでいた。

 針葉と浬の握り飯、計四つを腹に入れて、暁はようやく足が立つようになった。
 だが弱った彼を連れて歩き回ることもできず、それ以前に目ぼしい場所などもう残っていなかった。
「あの家は昨日まで寝床にしていた。中に入ったときから随分荒らされていて、見付けたのはこの刀一振りのみだ」
 暁がそう言った上松の邸は、近付くと火に巻かれた危なげな跡がそこかしこに見え、一階を回っただけでも何もかもが持ち去られていることが瞭然だった。
「んな物の良さそうな刀、よく残ってたな」
「……誰からも見付からないように狭いところで眠って……物の陰になるところに落ちていたから」
 折しも日が傾き始めたところだった。二人が持っていた飯は全て暁の腹に収まってしまったから、急いで戻らねば腹の虫と共に一夜を明かすことになる。それからは三人、地を越え水路を越えてひたすら歩き続け、灯りが見えたところで飛び込むように飯を求め、屋根のある場所を探した。
 暁が不平不満を漏らすことは無く、疲れた様子ながらも刀を胸にしっかと抱えて付いて来た。
「坡城に着くのは明後日の夕ってとこだ。路銀も残り少ないからな、とろとろしてんなら置いてくぞ。しっかり眠っとけ」
 ひと気の無い離れ家に身を潜めて、暁はやはり刀を抱いたまま隙間だらけの壁を向いて横になった。反対の壁の傍には針葉が横になり、浬は挟まれる形で目を閉じた。風の音の切れ目にも暁の寝息は一切聞こえなかった。
「眠れないの」
 小さく声を掛ける。細い肩が更に縮まったように見えたが答えは無かった。浬自身が間もなく眠りに落ちるまで、ついぞ寝息は聞こえてこなかった。

 それでも朝が来たとき、彼は壁の傍にいた。疲れは隠しようもなく顔に残っていたが、必死に足を前に出し、更に酷くなった腐臭の中も蛆湧く骸の傍も顔をしかめながら通り過ぎ、ついに二日後、陽のあるうちに関を抜けて坡城へ入ることができた。
「さすがに疲れたな」
 そう言いながらも針葉はすいすいと二人の前を歩いていく。空にはまだ光があるものの、互いの顔が見え辛くなる頃合いだった。暁はうつむき、歯を食いしばるようにして歩いている。
「この道をずっと行くと海が広がってるんだ。家はその手前で坂道を上ったところにある。もう少し頑張りな」
 暁がふっと顔を上げて浬に視線を合わせた。「海」
「そう、海。見たことある」
 暁は一度だけ首を振り、まだまだ続く道を、眩しいものでも見るように仰ぎ見た。
 長屋と長屋の間の細い路地を、影となった子供たちの足音や声に押されるように通り抜け、橋を渡って広い道に入る。そこには右に左にずらりと大小の見世が立ち並び、日も落ちたというのに灯りがそこかしこに見える。
「いやに騒がしい」
「ここは大通りだからね。西の大通りはもっとだよ」
 針葉の背を追ってすぐに左手に折れ、二つ道を横切ると、急な坂道の入口が木々に囲まれてぽっかりと口を開けていた。灯り一つ無く、ぞわりと背筋が寒くなるほどの黒が広がっている。
「覚えとけ、こっから先が家への道だ」
 針葉は早足で道に踏み入り、闇の中に呑み込まれる。続いた浬は足を止めて振り返る。暁の足音が聞こえなかったのだ。彼は坂の入口で刀を強く抱き締めて浬を見上げていた。
「浬、私には分からない。これで良いのかも、どうしてここまでされるのかも……何も」
「好きなようにすればいいよ。居辛いなら出て行けばいいし、居たいなら、働く限りはいくらでも居ればいい。あの家は、居たい者にはこの上なく居心地が良いよ。……今日はもう遅いし、明日どうするかなんてことは、腹を満たして湯浴みでもしてゆっくり眠って、それから考えても遅くないんじゃないかな」
 それだけ言い置いて、浬は細い肩を置き去りにする。しかし彼の耳には、少し離れたところからまた足音が始まるのが届いた。
 ずっと先、木々の途切れたところで針葉の影が立ち止まっている。二人の姿を認めると、遅いぞと声をかけ家へ歩いていった。足の痛みに耐えながら最後の坂を上り切った暁は、そこに場違いのように大きな家が建っているのを見て目を丸くした。左手に厨らしき場所と玄関口、右手には五つ部屋が並び、真中の障子からは灯りが漏れている。
「昔は宿だったらしいよ。こっち」
 二人が来るのを待って、針葉は引き戸に手を掛ける。足音がしている。誰かの声。そして空きっ腹に容赦なく襲いかかる飯の匂い。
 浬はちらと肩越しに暁を振り返る。二年前は自分もこんな顔をしていただろうかと小さく笑いながら。





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