結局俺は部活に行かずに帰った。あの後教室から出て、家に着いてからもずっと耳の中であの声が回っていた。高くも低くもない、ちょうど雑音に混じって聞こえにくいくらいの高さの声。
 その声は淡々と彼女の月日を語った。
「お姉ちゃんは三年前に死んだの。だからこのアドレスもとっくの昔に使えなくなってる。それでも私は毎年この日に、一年分の手紙を出す。何度も保存して、書き直して……今日は特別な日だから」
 それはとても簡潔な、それでいてひどく激しい三年間の吐露だった。
 帰ってこないメールを、帰ってこないと知りながら出し続ける、それは俺が弟を閉じ込め続けているのと似ている気がした。死を死と受け入れて忘れることが出来ず、未練に負ける。
 しかし彼女のまとう空気は俺のものとは違った。今、俺があのノートにある残りの余白のことを考えたり、弟に言葉を伝えたりしたところで、あんなに晴れ晴れとした顔をすることは出来ないだろう。
 三年の月日は、想いを募らせるだけのものではないというのか。俺と彼女は何かが違った。
 その質問は、閉じ込めた弟を解放するために必要なものだった。そしてまた、弟を失った時から持ち続けていたものでもあった。
「教えてくれ、死者の死っていうのは何なんだ」
 分からない制度の解説を求めるような調子で、ひどい質問をしてしまったものだ。それでも彼女の目は真っ直ぐに俺を見た。その目の中に、廊下側の蛍光灯の長方形が映っているのが見えた。それを遮って、道を失った俺が情けない顔で立っている。
 瞼が下りる。ひとつ呼吸をおいてまた開く。「私は」、唇が開いて白い歯がのぞく。
「忘れられることだと思う」
 風のように声が流れた。格言じみたことを言われたとは思わなかった。すでに耳に馴染んだ、ごく当たり前の言葉に聞こえた。
 しかし頭で思うのとは逆に、心はそれを素直に受け止めた。忘れる、死者を忘れる、死者の生を忘れる。
 生きている弟を閉じ込めはしない、その口を強引に塞いで何日も黙らせたりもしない。まだ会話が可能なら、出来る限りの日にちを、昔と同じように過ごすべきだったのだ。たとえ終わりはすぐそこだとしても。
 部屋の扉を開け、制服もそのままに引き出しを開けた。梅雨時に閉じ込めた空気が這い出てくるような気がする。中からノートを取り出して癖のついたページを開けた。
 いつごろ書かれたのだろう、中には弟のぐちゃぐちゃな文字が控えめに並んでいる。

 ――兄ちゃん?

 ペンを掴んだ。キャップを取るのももどかしく、その下に続ける。

 ――ただいま。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。

 途中で文字がかすれ、そこを二重に書く。弟はこれを見ているだろうか。返事をしてくれるだろうか。
 俺が書いたのと同じ行にインクがぽつんと浮かんだ。それは線となって俺の言葉を消していく。弟を弟と確かめた日のことが蘇る。
 最後には「ただいま。」だけが残る。そしてその下に見慣れた癖の文字が一字ずつ続いた。

 ――なんで謝んの。

 漢字の書き順が間違っていた。ひどく苦しく、嬉しくなって、その文字を指でなぞった。
 残りたった数ページの全てを、精一杯使おう。どうか笑って別れられるように。





 向日葵はしゃんと背を伸ばして太陽の方へ、朝顔の蔓は反時計回りで支柱にがっちりと抱きつき、夏の庭は今年も賑やかだった。
 向日葵はもう咲き始めている。朝顔はまだだが、蕾になりかけたものは沢山ある。裏から透けて見える限りでは赤紫色の花が多そうだ。
 夏休みの宿題について母さんにしつこく聞かれ、水やりと蝉退治に逃げる頃、家の中はにわかに騒がしさを増した。
 弟の一周忌が来るのだ。
 事前の墓参りには俺も駆り出された。墓石の側面に刻まれた弟の名はいかめしく、俺がノートに書いたものとはまるで別物に見えた。
 今年は近しい親族を呼んだ。一年ぶりに見る顔もあれば、ちょくちょく出張でうちに泊まっていく伯父さんの姿もあった。みんな去年ほど重い顔ではなく、悲しむというよりも弟を懐かしんでいるようだった。
 きっとそれで良いのだ。悲しみばかりが故人への感情ではない。
 配ったお茶が温くなったところで僧侶が来た。それから一年前と同じように読経があり、焼香をし、会食会場へ向かった。
 最後に向かった弟たちの墓は数日前に来た時と変わっていなかったが、あの時より大勢の人に囲まれて縮こまっているように見えた。
 魂というのは残るものなのだろうか。そんなことを考えるようになっていた。あるとすればどこに、墓に?
 だとすれば墓地はとてつもなく賑やかな場所ということになる。このじっとりとした空気は昔から得意ではないが、実は故人と触れ合える暖かい場所なんじゃないか。
 皆が手を合わせる前で、線香は細い煙をあげて短くなっていく。まだ「どこかへ向かっている」最中の弟がここにいるとは思えなかったが、何年も前からここにいる曾爺ちゃんの笑顔が見えた気がした。
 帰って後片付けをすませると、自分の部屋へ飛んで帰り、ノートを開いた。と言っても裏表紙を開け、一枚をめくるだけだ。残りはあと二ページ足らずになっていた。
 最近は弟も終わりを意識したのか、書く文字の数を減らしているようだった。
 それでも俺たちが会話をしない日は無くなった。それが、死んだ弟が未だ持つ、生の部分への礼儀だった。
 ペンのキャップを取って一周忌の様子を書く。みんなお前のために集まったのだ、みんなお前を思い出していたと。
 少し間があって、うん、とだけ答えが返ってきた。そして俺が次のことを書き始めるよりも早く、弟は次の文を続けた。

 ――兄ちゃん、おれさ、なんか思うんだ。おれってさ、体は無くなったけど、だからこそ皆のそばにいられるんじゃないかって。
 ――だって誰かがおれを思い出したら、おれ、すぐそこに行けるじゃん。
 ――もちろん前に兄ちゃんに言ったとおり、何にも見えないよ。何にも聞こえない。でも何ていうかさ、近くにいられる感じがする。
 ――死ぬっていうのはさ、もしかしたら、今までよりずっと忙しく生きることかなって思ったんだ。

 弟がこれほどの量の文を書くのは、最近では全く無いことだった。
 これは弟の、弟自身に対する答えなのだ。恐らく、この世からいなくなった時から今まで、ずっと持っていた疑問に対する。
 何も書けずにいると、その文は少し続けられた。

 ――もうちょっとで次の場所に行けそうなんだ。このノートを使い終わるころ。だから、

 少し間があった。ペンを握り直す。

 ――だから、ちょっとサトリを開いてみた。どうだ!

 開いた口から反射的に息が洩れた。腹がへこんで口角が上がる。何が、どうだ、だ。
 ペンを持った指を見つめた。部活で突き指をしたせいで白い傷が増えている。残り一ページ弱となった余白を見つめ、恐れ入りました、と書いてみる。
 俺も、そろそろ覚悟を決めなくてはいけなかった。
 名前も知らない彼女のように、弟のように、自分の答えを見つけなければいけなかった。





 向日葵は今日も水を浴びて明るく輝いていた。青い空に鮮やかな黄が映える。
 朝顔も、いくつかはもう咲き、夕方には花びらを皺だらけにしてしぼみ、また新しい蕾が明日を待っていた。
 朝は早くから明け、蝉の声を鼓膜まで運んでくる。畳み掛けるように母さんの目覚ましの音と、カーテンから洩れる眩しい光。
 遠くの方からラジオ体操の陽気な音楽が聞こえるころ、俺の目覚ましも威勢よく鳴り始める。俺は手探りでそれを止め、起き上がって母さんお手製のカーテンを開ける。
 そこからはいつものように朝の庭が見える。朝顔は蕾を伸ばして一斉に花開き、空にその顔を見せる。今日は鮮やかな青、放射状に白と赤の線の入ったもの、ふちだけ白い紫色のもの、紫がかった赤の四種類だ。咲いている数で言うと数えきれないくらい多い。母さんの執念の成果だ。
 炊飯器の音が聞こえなくなってご飯の匂いが漂ってきたら、着替えて部活の用意をし、居間へ出て行く。父さんが先にテーブルにつき、パジャマ姿のままで新聞を読んでいた。
「おはよ」
目で俺を確認して、寝起きの低い声でぼそりと呟く。
 母さんが台所から俺を呼ぶ。立ち上がって三人分のご飯をジャーから茶碗につぎ、テーブルまで運ぶ。その後を、味噌汁の椀を盆に乗せた母さんがついてくる。
 父さんは戸棚からふりかけを出して俺の近くに置き、自分は納豆のパックを開けてタレを垂らす。
「今日は何時まで部活なの」
 母さんがお茶を運んできて、自分も席に着いた。
「予定は四時だけど、午後は合宿のミーティングだから遅くなるかも」
「そう、晩御飯には間に合うのね」
 弁当を受け取って鞄に詰める。それを持って洗面所へ向かい、顔を洗い歯を磨いてそのまま玄関を出た。
 何もかもいつも通りだ。きっと明日からもこうやって日々は続き、俺は歩いていく。
 明日から、弟と何も話せなくなっても。
 昨日、俺が書いた家族の話題とそれに対する弟の反応で、ノートの余白は最後の一行となった。今日家に帰って、俺が書く言葉でノートは終わりを迎える。俺は元の暮らしに戻り、弟は次の場所へと旅立つ。
 空は突き抜けるような青さで道みちを照らしていた。
緑も、雲も、どこかのおばさんが撒いている水も、紺色に染められたアスファルトも、時々吹く風、砂埃のグラウンド、トラックを走っているどこかの部員たち、体育館から聞こえるバッシュの音、ボールが床へ打ち付けられる低い振動、全てのものが眩しかった。
 一年はまだ、パスやドリブルといった基本動作の練習だ。この前の試合で特に活躍した奴は二、三年の練習メニューに混ぜてもらえるらしいが、部活に出なかった俺には当然無理なことだった。ここから這い上がるしかない。
 午後から体育館はバレーボール部のものとなる。弁当を食べた後、部室で顧問とコーチから合宿の詳しい説明があって解散だった。
 汗が乾いて冷たくなったシャツを脱ぐ。替えの服を持ってきて正解だったが、夏休みじゅう母さんから、洗濯物が増えるだのとうるさく言われそうだ。
「ちょい待ち、紅茶買うから」
 帰り道の途中で自動販売機を見付け、財布を取り出す。
「水とか持ってきてねえの?」
「持ってきたよ、ペットボトルの麦茶。でも全部飲んじまった」
 硬貨を投げ入れた後、おしるこを狙っている友人の指を視界の端にとらえ、素早く紅茶のボタンを叩いた。
「つまんねえの」
「お前、他人事だと思いやがって。そんなら自分で飲んでみるか」
「絶対お断り」
 しばらく歩くと交差点に着く。左へ曲がれば駅へ続く道だが、さっきおしるこのボタンを押そうとしていた指が、今度は右を指し示していた。
「この前の終業式の日、先輩に教えてもらったんだよ。向こうの公園の端にバスケットゴールがあるって」
「そんじゃ、明日にでもボール持ってくるかな」
 別れた後に見る駅前の商店街は、夕方の活気に沸いていた。地平線近くの空は赤く焼け、電柱の影が地面に長く伸びている。何もかもがいつもと同じだ。電車に揺られて十五分、汗くさい体を連れて家へ帰る。
 母さんが俺の持っている紅茶を見て顔をしかめた。
「新しく買って中途半端に飲むくらいなら、最初から二リットルボトルでも何でも持っていきなさいよ」
「そんなの持っていくのは一苦労だし、全部飲む頃には温まっちまうよ」
「トレーニングだと思えば出来るでしょ。それより合宿についての説明はどうなの」
半分ほど残った紅茶のペットボトルを冷蔵庫に放り込み、鞄からシャツとプリントを引っ張り出す。
 夕食は夏だというのに煮しめだった。強のスイッチを入れられた扇風機が、居間の暑い空気をどうにか冷やそうとしている。着替える間もなくテーブルにつくと器が置かれた。
「人参も全部食べるのよ」
 それを聞き、ニュースから目を離して父さんが笑った。
「母さんはちゃんと気付いてるんだぞ、お前たちが器を交換してたって」
 目を逸らして、器の中に入っている人参も、そうでないものも全部口の中に放り込む。あんまり好きじゃないっていうだけで、食べられはするんだからな。それにあれは、弟の三度豆を食べてやってただけなんだ。……言い訳も全部放り込む。
 父さんに続いて風呂に入り、バラエティ番組にチャンネルを合わせる。風呂を上がった父さんは自分の部屋に入ってドキュメンタリー番組を見る。母さんが見るドラマの予定さえ無ければ、俺の好きな番組を見られる。
 時間が経つのを待った。
 見たい番組が無くなれば自分の部屋へ戻って、友人に借りたバスケの本を読んだ。ただ時を待っていた。
 俺の出した結論、俺の出した答えはこうだった。弟は死んだ。死んだ弟に体は無い、だから見ることも聞くことも出来ない。
 でも生きている、感じることは出来るし思いを抱くことも出来る。体が無いだけで、立派に生きているのだ。俺たちが思い出すことで成長を続ける。
 それに気付いた時、彼女の言っていた「特別な日」の意味も分かった。
 見つめる透明なプラスチックの向こう側で、かちかちと時を刻む三つの針が十二を指す。日付が変わったのだ。
 ペンのキャップを取った。ノートを開き、取っておいた朝顔と向日葵の花びらを置く。
「ちょっとばかりしおれてるけど我慢しろよ」
最後の白い一行に、最後の文を書き始めた。
 今日は特別な日だった。命日なんかよりもずっと、弟にとっての重要な日だった。弟が持っているのは終わりではなく始まりだ。
 どうか立派な旅立ちを。

 ――祐二、十四歳の誕生日おめでとう。

 インクが乾くのを待って、ノートを閉じた。





          アトガタリ