雨の匂いを含んだ空気はやがて温度を上げ、蒸し暑い夏を運んできた。居間には扇風機が出現して、しきりに首を振り続ける。
 最近になると半袖では飽き足らず、肩まで袖を捲り上げて登校する奴らまで出てきた。日焼けすることを考慮しても、その方が具合が良いらしい。
 期末試験前の、貴重でいてひどく嫌な気分を背負った一週間は、早まることも遅くなることもなく一日一日きっかり過ぎていった。
 一学期の現代国語が終わった。化学が終わった。英語が終わった。調理実習の焦げた匂いと共に家庭科が終わり、選択教科の音楽が終わった。試験終了後の数日は体育祭や文化祭の準備に当てられるから、これで夏休みが明けるまで会わない顔もある。古典なんかは自分のクラスの担任が受け持っているので、嫌でも毎日顔をつき合わせることになるが。
 休み時間にノートや単語帳を眺める奴がちらほら見受けられる。さすがにみんな中間試験よりは真面目だ。
「なに真剣な顔してんだ、お前まで」
 中間試験の前に俺のノートを見ようとした奴まで、頬杖をついてリーディングの和訳プリントを睨んでいた。
「姉ちゃんが、期末は平均点上がるのよーとかって脅すもんだから、母ちゃんが真っ青になって。とりあえず俺は今回、英語に賭けることにする」
 軽く頷いて自分の席へ戻る。教室の空気に順応しようと申し訳程度に教科書をめくるが、勉強に身が入らないのが実の所だった。面倒だというよりやる気が起きない。
窓まで歩いて薄曇りの空を見上げ、近くの机に腰を下ろす。
小難しい文字の羅列は、いくつかの単語に既視感を覚えるだけで、何も頭に流れ込んでこない。少しずつ減っていくノートのことが気掛かりになっているからかもしれなかった。
 それではいけない。弟との会話を理由に、自分の本当の生活をないがしろにしてはいけない。そう決めた瞬間にノートは、在ってはならないものへと変わってしまう。
 焦れば焦るほど時間は無駄に過ぎる。重要事項や、重要かどうか分からないものまで、ただノートに写すだけの勉強を続けた。
 足音を忍ばせ、ついに試験前日がやって来た。その日の時間割はホームルームに数学一、古典、体育A、昼食をはさんで五、六限が情報と選択社会だった。
 ホームルームでは明日からの試験に対する注意などが告げられ、数学はやっぱりちんぷんかんぷんだった。古典では現代語訳と解説のプリントが配られたので、これを読んでおけばどうにかなるかもしれない。体育では最後の授業ということで、好きなチームに分かれてのバレーボールをした。その後の弁当時間はやっぱり色々なものの混じった嫌な匂いで教室が満たされた。情報は特に何も無く自習だったが、大半の生徒もそれを予測して他の科目のプリントを持ち込んでいた。
 六限目の選択社会、つまり俺の場合は日本史も、中間試験の時と同じく自習だった。
「前の授業で配ったプリントを出して。答え合わせと解説をした後は自習にします。期末試験の十点分はここから出題するから集中するように」
 教師は前の席から順に生徒を当てて答えを言わせ、それを黒板に書き写していく。最後の授業だという疲れきった緊張感の中で、ボールペンとチョークの音がカツカツと響く。
 俺は正答を書き写す前に、問題番号と前に座っている人数を数え、自分が当てられないことを確認した。
あれから席替えが行われることは無く、俺の右隣には相変わらずあの女子が座っている。中間試験が終わってからも、彼女のノートまとめに対する情熱は失われていないようだった。他がどうだか知らないが、少なくともこの教科に関しては恐ろしく真面目なのだろう。
 だが今日はいささか様子が違っていた。
 カチカチという音に気付いて右を見ると、彼女の手は机の下に伸びて携帯電話のボタンをいじっていた。いくつか文字を打っては少し待って、画面が一段階暗くなった所で気付いたようにまた続きを打つ、といった具合だ。
 画面の中の文字は見えない。だがそれは友人にメールを打つにしては、言葉を迷いすぎているような気がした。元来そういう性格なのかもしれないが。
 あまり見てもいけないと思い、配られたプリントに目をやるが、いつもとの態度の違いがどうも気になって視線を戻してしまう。
 ふ、と何かに気付いたように彼女がこちらを見た。慌てて教科書に手を伸ばして習ってもいないページを開くと、右の耳に咎めのない笑い声が届いた。それは声というより息に近く、右の耳から左の耳へ、頭の中をその息が通り過ぎていく気がした。
 右を向く。彼女の黒い目はこちらを真っ直ぐに見ていた。机の下に隠していた手はノートの上に置かれ、携帯電話は画面を開けたまま傍に投げ出されている。
 その唇は柔らかく閉じられたままで、何か言おうとする様子は無い。仕方なくこちらから話しかけた。
「そのメール、誰か特別な人に?」
「お姉ちゃん」
それだけ答えて彼女の顔はほころんだ。それを見て初めて、さっきの柔らかだと思われた表情も強ばったものだったのだと気付く。
 姉に打つメールにしては……思いもしたが口には出さなかった。これ以上馬鹿な真似をすることもない。
 肩にかかった彼女の毛先は柔らかにほどけて、少し茶色に染まって見えた。目を逸らして教科書の正しいページを開いた。





 授業が終わり、ホームルームも終わると、いよいよ後戻りは出来ないのだという思いが迫ってくる。さっきまではまだ、残り十分の授業時間で突如として全てを理解してしまう自分、なんてものを夢想できたのだが。
試験勉強に必要な教科書を数冊、机の中から鞄に詰めた。いつもは置いて帰ることがほとんどだ。家に持って帰るのは何ヶ月ぶりだろう。
 手始めに電車の中でも単語帳を眺めてみる。十五分ののち改札を通り抜けた頃には、随分勉強した気がした。手ごたえを感じて最初の単語へ戻ると、もう忘れていた。
 家に帰り、自分の部屋へ入ってネクタイとボタンを外す。脱いだシャツで汗を拭き、窓から四角く光の差し込んでいる机の上を見た。光の四角からは少しずれてノートが横たわっている。触ると一つの角だけが陽光を吸い込んで温まっていた。
 じっと表紙を見つめ、机の引き出しの中に置いて蓋を閉めた。
 勉強の妨げにならないよう。心の表面にその言葉を貼り付ける。今はノートに何を書いている暇も無いのだ。
 しかしその言葉は既に剥がれ始めている。中からは燻りが聞こえる。気付いている、出来ることならあまり文字を書きたくない、会話できなくなるのが嫌だ。そんなことをするくらいなら、会話の頻度を減らしてでも弟をノートの向こうに永くとどめておきたい。
 部屋着に着替え、鞄の中から持ち帰った教科書とノートを出した。明日の教科はそう身構えなくてもいい、今やるべきは明後日の数学だ。
 落書きする気力も無く眠りに屈したらしい涎の跡と、無限の可能性すら感じさせる真っ白なノート。
 シャープペンシルを持とうとしてペンを持っている自分に気付いた。いつの間にかキャップも外されている。息を吐いて、左手の中にあったキャップをきっちりとはめた。
 今度こそシャープペンシルを右手に机と向かい合った。
 どうしてあの時日本史のノートに名前を書いてしまったのだろう。数学なら十ページほど余分に使えたのに。
 首を振り頭の中を一旦空っぽにして、教科書にある問題だけを見る。例題からきちんと見ていけば案外分かるものだ、と自分に言い聞かせ、類題、基本問題と進めていく。
 同じような解法を繰り返しているうちに解き方を覚え、自分の力で解けるようになってくる。そうなると、授業で教師の言っていた言葉の意味が分かるようになる。
取り付かれたように問題を解き続けた。数学に対する苦手意識は変わらなかったし、新しい例題にぶつかるたびに挫けそうになったが、やる気だけでも大分変わるものだ。何ページ進んだか、もう覚えていられなくなった。
 後ろの扉から流れてくる匂いで夜になったことに気付いた。窓の向こうは未だに明るい。今は夏至を過ぎていくらも経たないうちだから、なかなか陽が沈まないのだろう。
 そういえば雨の降る日も減った。そろそろ本格的に夏なのだ。
 ノートを見返すと、思っていたより数をこなせたようだった。やれば出来るものだ。
 席を立って扉へ歩き出す。扉に手を伸ばした時、引き出しの中のノートが自分の背中を見ているような錯覚を感じた。
 振り切って部屋を後にする。試験終了までは触らない、その代わり試験に力を注ぐんだ。まるで償いのようにそう唱えた。
 弟と長く話していたいという当然の願いなのに、どこか後ろめたかった。奴に話せばきっと同意してくれたはずなのに、何故か居たたまれない気持ちだった。
 生から死へと流れていくのを両手でせき止める、それが今俺のしていることだった。引き戻そうとは思わない、でもせめて爪の先が届くようにと必死で腕を伸ばしている。――弟の顔も見えないままに。





 期末試験が始まった。受けるのは一日に二教科から三教科、朝はいつもより遅くていいので電車の人ごみに揉まれることも無い。
 思っていたよりも落ち着いて本番に臨むことが出来た。三日目が終われば日曜日をはさんで四日目、そして終了だ。
 最終日は、二限目が現代国語、三限目が英語だった。二限目が終わった後は最終試験直前ということもあってか、皆ひどく疲れた顔をしていた。俺はというと最終日云々は関係なく、単純に英語が苦手なので肩が重かった。それでも最後のあがきにと単語帳を開いて頭の中へと貼り付ける。
 ベルが鳴り終わって次に鳴り始めるまで、一瞬のように感じた。外側の音が耳の中へなだれ込んでくる。それはため息の音だったり椅子を引く音だったり、解答用紙を表返す音だったり終わった歓声だったりした。
「もう鉛筆は持つなよ。後ろから解答集めて。こら、まだ教室から出るんじゃない」
 古典担当である担任教諭が注意をする中、後ろの席の奴が解答用紙を集めていく。机の上に残るのはシャープペンシルに消しゴム、問題用紙だけだ。それらは魂が抜けたばかりの体のように、熱を持ったまま力なく転がっている。
「これでもう当分、勉強ともおさらばだな」
「俺、教科書とか全部ロッカーの中に置いてくつもり。こんなもん見たくもねえ」
脱力し、机の上に頭を置いたままで会話をつなぐ。明日からは短縮授業が数日続いて、それが終われば夏休みだ。
 次の日からは体育祭の応援練習や打ち合わせが一・二限目に、文化祭についての色々な取り決めが三・四限目に行われた。部活も始まり、毎日は元通りのペースを取り戻して動き始めていた。
 しかしあのノートに触れることは出来ないままだった。あの引き出しに弟を閉じ込めて、もう何日になるだろう。それでも良かった。少なくともあのノートに余りがある限り、弟はそこにいるのだから。
 俺の五十メートル走への出場が決まり、クラスから模擬店を出すことを仮決定したところで一学期の終業式が来た。大掃除の後の講堂の学年集会にて、顔も覚えていない校長や教頭の挨拶を聞く。その後、学年主任から夏休みの注意が告げられたところで散会となった。
 教室に戻ってからは担任からお決まりの話があって、試験返却と憎き通知表さまの授与が行われた。一学期の恐怖の凝縮だ。一度開け、すぐに目を背けて閉じた。呪いか何かをかけて封印してしまいたい。
「校長先生のお話にもあったが、くれぐれも羽目ははずさず、日々を有意義に過ごすように。日直!」
 起立、礼、そしてその瞬間から夏は勢いを増す。夏休みだ。
 とはいえ俺は今日も部活だ。今日、正式な部活動はどの部でも行われていないが、うちの部では一年生が集まって小さな試合をすることになっている。スタメンを目指す身としては、早いうちに自分の実力を知っておきたいのだ。
 鞄から弁当を取り出す頃には皆、帰路についた後だった。閑散とした教室にカーテンを通した柔らかな陽光が差し込み、その中を埃が泳いでいる。遠くの方で廊下を走る足音が長く響き、階段を降りて遠くへ消えていく。
 弁当を食べる手を休めて椅子にもたれ、後ろの机に頭をのせる。そこで初めて、教室に電気が点いていたのだと気付いた。この明るさの中では特に意味の無いものに思える。
 弁当箱に蓋をしてトイレに行こうと教室を出た。廊下の壁には開いた教室の扉がずらっと並んでいる。どこからも人の気配はしない。
 こんな真っ昼間から誰もいない校舎というのも面白いものだった。こっそり忍び込んだような気分になり、誰にも会わないかときょろきょろ辺りを見回す。
 自分の教室から二つ教室を過ぎて階段へ近付いたところで、耳に誰かの声が触った。どきりとしたのを隠してそちらを向くと、教室の中に逆光の影が見えた。
 あ、と俺の口からも馬鹿みたいな声が洩れる。日本史の時間に隣になるあの女子だった。その姿は物音一つしない教室にあまりに溶け込んでいて、少し見ただけでは気付かなかった。
 近寄って見ると、彼女は机に腰をのせ足を組んで、いつかのように携帯電話をいじっていた。
「あの時のメール、まだ作ってんの」
「あれ、よく分かったね」
 からかうつもりで言った言葉にそう返される。彼女はまた画面に目を戻して指を動かし始めた。
「勘いいんだね」
それは返答を求める調子ではなかった。何か会話になることは無いかと考え、彼女と日常会話をするのはこれが初めてなのだと気付いた。
「……俺、今日は部活があるから」
 あまりに沈黙が続いたので、口が勝手に聞かれてもいないことを話す。彼女は小さく頷き、親指を小さく動かして携帯電話のボタンを押した。メール送信。
俺が静けさに耐えかねて教室を出るより先に、この場にはそぐわない明るい着信メロディーが流れた。
「今のメールの返信?」
「うん、そう」
「随分早いな」
 俺の不思議そうな顔を見て、その顔が少しだけ笑った。ふわりと頭の形から浮いた髪の毛が、光に染まってちらちら揺れる。
 親指を滑らせて何か操作すると、彼女の手が画面を俺の方へ向けた。
 受信ボックスだ。一番新しい受信メールの件名が反転されている、「送信メールエラー」。何が言いたいのかつかめず彼女の顔を見る。
「お姉ちゃん」
 彼女の口はいつかと同じようにそれだけ答えた。
 姉に出したというなら、どうしてエラーという返信が返ってくるんだ。俺の見つめる前で彼女は黙って目を伏せ、ゆっくり携帯電話を閉じた。