次の日の二限は社会の選択科目だった。数クラスとの合同授業のため、休み時間中に教材一式を持って教室を移動する必要がある。
地理や世界史の授業を取っている友人とは、中央階段を三階へ上ったところで別れる。そこから廊下を少し歩いて教室に入り、自分の席である前から六列目の左端に座った。
まだ教室に生徒は少ない。息を落ち着けてノートを開いたが、あのページには変わらない二行の文が見えた。上の一つは俺が書いた弟の名前、下の一つは知らない奴がいつの間にか書いたものだ。
 あんなはっきりした夢なんて無いとは思っていたが、やはり夢ではなかったのだ。夢になってはくれなかった。
「さっき俺が夕飯食べてる間に、俺の部屋に入ったり、ノートに何か書いたりした?」
 昨晩、風呂を上がってから一応父さんと母さんに尋ねたが、二人の反応は予想通りで、この字を書いた奴は未だに分からないままだった。
「ちょっとお前の写させてくれよ」
 友人が近寄ってきて、そのノートをぶん取った。そして中に目を通すとすぐにつき返す。
「俺のノートに、写すだけのことが書いてあるもんか」
 何故か得意げな笑みが浮かんできた。さて、俺は誰に写させてもらおう。
 チャイムが鳴り、教師がプリントの束を片手に入ってきた。
「はい、早く自分の席に座って。今日は資料プリントを配って自習にするから、分からないことがあったら訊くように。はいはい静かにする」
回ってきたプリントを一枚取って後ろへ回し、ろくに見ずに折ってノートの一番前にはさむ。そしてあのページを広げてじっと見た。
 これを書いた奴は、偶然昨日このノートを手に取ったのか。気まぐれで、何故か知っていた漫画の在り処を書き捨てたのだろうか。それとも今こいつに向けて何か書いたとして、またいつの間にか答えを書いているのだろうか。
 もしも後者なら、こいつはいつでも俺の部屋に入り、このノートを見られるということだ。これほど恐ろしいことはない。
 筆箱からペンを取り出して少し悩み、三行目の文を書く。

 ――おかげで探してたマンガが見付かった。ありがと。

 最初から高圧的に書いては良くなさそうだと思った結果、こうなった。部屋に忍び込むような奴に感謝文を書くなんて、我ながらふざけているが仕方がない。
 帰ったらこのノートを机の上に広げておこう。いつ答えが返ってくるのか、そしてそれを書いている奴は誰なのか、確かめなくてはならない。答えが無いなら無いで、それは一向に構わない。
「この教科書のさ、儀式みたいなのって何してるか分かる?」
 前の席の奴が振り向いて教科書の絵の一つを指したが、俺に分かるはずもない。
「って言ってるけど、分かる?」
あまり話したことは無かったが、右隣の席の女子に助けを求めると、そいつは何か書いていた右手を止めた。
「それは確か吉凶を占うためのもので、こっちは裁判の一種なの。有罪無罪を判断するのに使ってたらしいよ。無傷なら無罪ってことになったんだって」
プリントを見返すこともなく、すらすらと答えていく。ちらと見たノートも、赤青緑と様々な線で色分けしてあったり、図が書き込まれていたりと様々な技が使われていた。俺みたいなのがいれば、こういう奴もいるものだ。
 質問してきた奴が前に向き直った後も、質問があるとその女子に訊いた。隣からはその度にちゃんとした答えが返ってきた。
 そうしているうちにチャイムが鳴り、友人と合流して自分の教室へ帰る。そこでさっきの女子を探したがその姿は無かった。あまり見ない顔だと思ったが、違うクラスの生徒だったらしい。選択科目が同じだけなのだろう。
 弁当を食べ、午後の授業を受ける。五限が体育でバレーボール、六限が数学Aでやっぱり自習だった。数学は俺の最も苦手とする教科で、ノートは真っ白に近い。日本史の方が、十ページ程度であっても埋めてあるだけましだ。
 チャイムが鳴り、帰りのホームルームも終わって家へ向かった。今日、あの文字を書いた奴は現れるのか。期待とも恐れともつかない思いが終始、頭の中にあった。



 自分の部屋に入り、制服のネクタイを緩めるより早く鞄からノートを取り出す。そしてあのページを開くと、そこには既に四つ目の文が書かれていた。

 ――ううん、こっちこそごめん。

 ぞっと背中を怖気が走り、ページを開けた手が凍りつく。自分の目が信じられなかった。
 昨日の文章は、その前に書いた俺の文字とは何の関連も無かった。漫画の在り処を示す文章が最初から書かれていたというのも、もしかすると有り得ることだった。俺がただぼうっとしていてそれに気付かなかっただけかもしれないのだから。
 しかしこれは違う。明らかに俺の書いた文章を読んでそれに答えたものだ。四限が始まる前に俺が感謝の文を書いてから、今家に帰ってくるまでの間に。
 その間、俺は片時たりともこのノートを誰かに託したりはしなかったはずだ。友人にノートを取られた時、隣の女子に質問していた時……俺に気付かれないようにこんな事を書くのは無理だ。
 唯一有り得るのは体育の時間だが、休んだ奴なんていなかったし教室には鍵がかかっていた。それに、女子は更衣室で着替えるのに対して男子は教室で着替えるのだ。
 何より、俺の部屋へ忍び込む奴がどうして学校にいるんだ。いや、学校にいる奴がこの部屋に忍び込んだのか。
 ノートに書かれた四つ目の文を眺める。まだカーテンは開いているし空だって明るいのに、この部屋はひどく静まり返って暗く澱んでいるようだった。
 がた、という音に肩がびくりと動く。自分が出した音だと気付いて歯を食いしばった。
 手を伸ばしてボールペンを取る。その勢いでペン立てが倒れて定規やハサミが雪崩れたが、構わずペンのキャップを取って五行目の文を書き殴った。

 ――お前は誰だ

 そのままじっとそこに座り続けた。キャップを閉めるのも忘れて自分の書いた文字を睨み続けた。
 得体の知れない誰かは、今俺が新しい文章を書いたのを知っているのだろうか。知っていて、どこかで俺をうかがい、ノートがひとりぼっちになる時を待っているのだろうか。
 見えない影の足音が近付いてくるのが聞こえるようだった。それは俺の心臓の音だったのかもしれない。
 その誰かはもうこの部屋にいるのだろうか。黒い影が俺のブレザーの背を見つめているさまを思い浮かべた。もしくはすぐ後ろに? 俺の頭の上からノートの中身をのぞき見ているのではないのか。
 しかし振り返ることも上を向くことも出来ず、ただ五つ目の黒い線を眺めた。殴り書きのそれは、いつもに増して判読が難しい。
 突然その下に黒い点が打たれた。目の錯覚かと瞬きをするが、その点はすっと伸びて線になり、ぐるりと弧を描いて曲線となり、一行目の文字へ辿り着いた。そして線の最後に鋭角の矢を付ける。
 鉛筆の黒鉛もペンのインクも触れていない紙に黒い矢印が浮かび上がった。それは魔法のようで、一瞬恐怖を忘れそうになる。しかし次の瞬間には更なる恐怖に襲われた。
 起こりえない。どうして何も無いところから線が生まれるんだ、どうして。
 そして気付く。この矢印の意味するものは何だ。当然さっき俺が問うた、誰だという疑問に対する答えだろう。
 そしてそれに答えるように差したものは一行目、俺が最初に書いた文字。俺の弟の名前だった。
 混乱と怒りが頭を駆けめぐる。かっと体が熱くなり、腋に汗が滲むのを感じた。ボールペンを握り直して矢印の始点の下に走らせる。

 ――バカ言うな。祐二がいくつまでオネショしてたか知ってんのか?

 書いた後で細かく息を吐く。このノートに返事を返してくる奴が人外のものだというのは分かった。幽霊だろうが妖怪だろうが何でもいい、だが弟を騙ることだけは許さない。正体だけははっきりさせなくてはならなかった。
 次に書かれる文字をじっと待った。今や背中からも汗が滲み始めており、シャツがじっとりと張りつくのが不快だった。
 黒い点が現れた。今度の線はページの左から右へ大きくふれて、俺の書いた文を真上から塗りつぶしていった。手も触れていないノートに勝手に線が浮かび上がる様子を呆然と見つめる。五往復ほどして線は動きを止め、その下から新たに文字が始まった。

 ――それは言わない約束だろ!

 今のは俺が弟をからかう常套句、そしてそれに対する弟の常套句だった。低い鼻に丸い目、可愛げの無いふくれっ面が鮮明に浮かんだ。
 この文字を書いているのは去年の夏死んだはずの弟だ。俺は今、文字を通して弟と会話をしているのだ。そんなことは有り得ないと分かっている、しかしこれが弟以外の誰だというのか。
 震える指からボールペンが滑り落ちた。視界が滲みそうになり、懸命に晴らそうと努力する。
 俺と同じく汚い文字、その一つ一つが弟に思えてきてひどく愛しかった。弟の書いた数少ない文字が全部、声変わりもしていない幼い声となって耳の中に流れてくるのを感じた。





 それから俺と弟は色々な話をした。
 父さんや母さんの様子、俺の高校受験の結果、そして弟は今どこにいるのか。

 ――お前、死んでなかったのか?
 ――兄ちゃんも知ってるとおり、死んだんだと思うよ。
 ――そこはどこなんだ。何か見えるか? 音聞こえる?
 ――ううん。何も分かんない。真っ白で真っ暗なんだ。目をつぶったみたいに。
 ――じゃあどうやってこのノートに文字を書いてるんだ。どうしてこのノートに?
 ――分かんないよ。気が付いたら手元にこれがあって、おれの名前が書いてあったんだ。あれ書いたの兄ちゃんだろ。

 ペンを止めて考える。弟を強く想いながら名前を書いたから、奇跡でも起こったというのか。馬鹿げている。
 しかし今俺が会話しているこいつは、姿は見えなくとも弟に間違いないのだ。天国や地獄なんて信じない、幽霊なんていない、でも弟は確かにこのノートの向こうにいるのだ。

 ――兄ちゃん? ノート閉じた?

 しばらく手を止めていたからか、俺の様子をうかがうような弟の文字が書き込まれた。慌てて次の行にペンを走らせる。

 ――見てるよ、何。
 ――だから、ずっと兄ちゃんに言いたかったこと書いたんだ。ごめん。
 ――そうだ、なんでお前、あのマンガの場所知ってた?
 ――だっておれがかくしたもん。
 ――隠した?
 ――前の日にあれ買ってさ、でも兄ちゃんしばらく見せてくれないじゃん。だからむかついてさ、夕めしの時にこっそり読んでかくしたんだ。

 休むことなく文字は続く。

 ――父さん母さんとか友達とかいっぱい言いたいことあったけどさ、でも一番にこれが思い浮かんだんだ。いつからこんな何も無いとこにいたのか分かんないけど、多分ずーっと言わなきゃって思ってたと思う。

 もう九ヶ月も前のことで、すぐには思い出せない。
 しかしそんなことを、弟はずっと覚えていたというのか。小学生の頃、入院した友人を見舞いに行ったとき、随分昔のことを事細かに話してくれたものだが、それと同じようなものだろうか。
 弟の文字がぴたりと止まった。ノートの向こうから何を考えているのかが伝わってくる。安心させるように、できるだけゆっくりと文字を書く。

 ――怒ってないって。本当のこと言うと、マンガが無くなってたのなんて忘れてた。
 ――ほんと?
 ――うん。ところでお前って今、オバケみたいな感じ? うちに帰ってきたりできない?
 ――できない。どうやってやんのか分かんない。
 ――おれが今何やってるかは見えない?
 ――全く。なんかさ、完全に死ぬ途中なんじゃないかって思うんだ。よく分かんないけど、どっかに向かってるような感じがする。
 ――向かってる?
 ――うん。別にまわりの景色とかは見えないんだけどさ、なんかふわふわしてる感じ。

 弟自身に関する話は要領を得ていなかった。周りがどんな様子なのか、死んだ時のことは覚えているか、今自分がどんな状態なのか、これから何をしようとしているのか。
 しかしそれは弟に限ったことではないだろう。いつか俺が死んだとして、そこにあるのは弟の言うようなひどく曖昧な世界かもしれないのだ。そもそも、その場所を表すぴったりの言葉が見付かったところで、普通はそれを伝える方法など無いのだから。
 弟は今も、自分の死の実感が無いのかもしれなかった。だからか「生き返りたい」という文字がノートに書かれることはなく、それについて俺はひどく救われていたのだった。