俺の弟には体が無い。
 産まれた時に持っていた体は今やどこにも残っていない。父さん似の低い鼻も、母さん似の丸く優しい目も、もう触れることが出来ない。
 その日、鼓膜に悪そうなミンミン音とうだるような暑さの中で、俺は庭に水を撒いていた。涼しいうちに宿題しなさいという母さんのお説教を逃れるため、さらには手伝いをしたということで、母さんの態度が柔らかくなるのを知っていたからだ。
 小学生の頃からの惰性で母さんが育て続けている朝顔や向日葵は、その夏も元気に花開いていた。時々蝉を追い払おうと、名前も知らない広葉樹にホースの先を向けたりもする。しかし夏の王者である奴らに勝てたためしは無い。
「母さん、麦茶ある? キンキンに冷えたやつ」
 額の汗を拭ってそう怒鳴ると、それに重なるように後ろから電話の音が響いた。続いて聞こえた母さんの足音は、ぺたぺたと汗ばんでいる。俺の背中を汗が滑り落ち、腰のところでズボンに吸い込まれた。
 何と言っているのかは聞き取れなかった。ただ母さんの声が悲鳴のように届いた。
 それは弟の死の合図だった。
 友達の家へ向かう途中での交通事故だったのだと聞いた。それはちょうど夏休みが始まって十日ほど経った頃で、庭では水を浴びた向日葵がきらきらと眩しく輝いていた。蝉の声が汗に溶けて、やけにじっとりと耳を覆った。
 次の晩には受け入れる間もなく通夜があり、葬式と告別式が続いた。
 数日前タンスにしまい込んだはずの制服を着ている自分が、どこか不思議だった。
「最後の挨拶をしなさい」
 式の後に見知らぬおじさんがそう言ったが、弟に向かって馬鹿丁寧にこんにちは、さようなら、だなんて考えただけで寒気がした。あいつは、そんなに遠い存在じゃないはずだ。
足取り重く向かった棺の所には目を赤く腫らした両親がいた。弟の入った棺は頭の部分が開くようになっていて、そこから顔をのぞくことが出来た。
 それは今までに見たことが無いほど静かで穏やかで、自分が今どうなっていて、これからどうなるのかなんて全く気付いていないかのようだった。
 俺が先に起きた朝のように、鼻をつまんでやれば起きるんじゃないかと思った。最初の数十秒は我慢して狸寝入りを続けるが、そのうち苦しくなり、顔を真っ赤にして殴りかかってくるのだ。しかし結局は俺に敵わず、ぶすくれた顔で朝食を食べ、でも家を出る頃には昨日発売された漫画の話でもしながら学校へ向かう。いつものように。
 いつものように。……強く唇を噛んだ。
 起きなさい、と毎朝聞く母さんの声が、頭の中でこだましていた。どうして母さんは今何も言わないんだ、じゃあ俺が代わりに言ってやるべきじゃないのか。それでなきゃあいつは、もうすぐ。
 今起こせばまだ間に合うんじゃないかと思った。まだどこかで、これは俺を騙すための大掛かりな芝居ではと期待していた。だがその目が覚めることはなく、また蓋は閉じて俺と弟とを隔てた。
 やがて弟は足から先に車へ詰め込まれ、火葬場へと連れて行かれた。滲んだ向日葵は機嫌よく天を目指していた。
 最後に見た弟は、焼かれてばらばらの姿だった。鉄板の上では骨の白さが際立ち、水泳で真っ黒に日焼けしていたのなんて嘘みたいだった。
「これが祐二の喉仏だよ」
父さんと母さんが最後に残った一つを箸で拾って、小さく呟いたのを覚えている。俺はそれをちらと見ただけで何も答えなかった。
 二人の目はひどく疲れてはいたが、赤みはいくらか引いていた。
 葬式が始まった時点で弟の生は過去のものとなっていたのだ。焼かれて骨だけになった時には、死すらも過去のものだった。
 俺の弟には体が無い。中学校に入って最初の誕生日を迎える数日前に、弟はその時間を止めてしまった。馬鹿みたいな理由で喧嘩ばかりしていた「俺たち」は、秋が過ぎ冬を越えてゆっくりと、ただの「俺」になった。
 しかし受験を終えて高校へ入学し、俺は知ることとなる。弟の体は確かに骨になったが、それと弟の存在が無になることは同じではないのだ、と。





 俺の高校では一年から数学や体育がAやB、一や二に分かれる。国語の古文も古典という新教科に変わったし、社会も理科も複雑に分かれた。
 数学や体育、国語は、分野が違うだけで全ての授業を受けなくてはならないが、社会や理科は、必修分野以外なら自分の興味のあるものを選んでいい。それについては合格発表の時の書類と共に説明のプリントを貰い、制服の寸法測定の日、他の書類と共に分野選択のプリントを事務所に提出することになっていた。
 同じ中学校から進む奴と示し合わせて同じ分野を選ぶこともあった。まだ特に興味のある分野なんて無かったし、それなら少しでも楽しく授業を受けられる方がいい。
 結局、理科は化学、社会は日本史を選んだ。
 その帰りに宿題を手渡されたのは予想外で、罠にはまった気分だった。
 四月になってからすぐに入学式があった。中学の頃からの友人が似合わない制服に身を包んでいるのを、指差して笑った。笑われた。
 息をつく間もなく様々な説明が行われ、それぞれの自己紹介なんかをして教科書を受け取りに行った。数日経つと余裕が出てきて、校内で迷うことも、自分の学生番号をわざわざ学生証で確かめることも無くなる。
担任の良さを隣のクラスと比べてみたり、クラスの代表委員に友人を推薦して後で殴られたり、可愛い女子は誰なのかと話し合ったり、部活の見学に放課後を費やしたり、時には真面目に授業を受けてみたりと、弟のいない生活は、俺の生活に目立った影響を及ぼすこともなく過ぎていくようだった。
 影響というのはきっと、現れるものなのだ。いくら変化が起ころうとも、生活の中の消えていく部分を影響とは呼ばない。
 今まで当たり前のようにあったものがそこに無い。それは生活が変わるというより、自分の送ってきた生活そのものが崩れ落ちるような感覚だった。
 無いはずのものがあるのと、あるはずのものが無いのとは違う。心に穴が空く、なんて昔の人はうまいことを言ったものだ。そんな詩的な表現が自分に当てはまるとも思わないが、俺の胸にも穴が空いているのだろうか。
 いつの間にかひと月が過ぎて、俺はきちんと高校という枠に収まり始めていた。違う中学から来た奴らとも打ち解け、バスケ部にも入り、毎日は忙しく動いていた。この前までは不安が勝っていた気がするが、いつの間に成長したのだろう。
 特に勉強したという気もしないまま、中間試験の日取りと科目が発表された。こんなに習ったはずがないと今更あせる。頼みの綱のノートを見返しても落書きや涎の跡ばかりで、いよいよ誰のノートをコピーさせてもらうか悩む。
 部活を引退していたここ半年とは比べ物にならないほど、日々は早く、騒がしく過ぎていった。
 しかしどこか内側で、焦れるほどゆったりとした時間が周っているのも事実だった。外側とは逆に、止まっているかのごとく静かで、ひどく冷たい。
 普段は気付かずに過ごすことも出来た。しかしそれは試験を一週間後に控えた日曜日で、部活も無ければ宿題も無い時だった。
「試験前でしょ、あんたが机の前に座ってるの見たことないわよ。今日くらい勉強しなさい」
 そんな言葉と共に部屋に押し込められ、ぼんやりと机の前に座っていた。ゆるやかな小川の水を掬うように、内側を流れる時間に触れてみる。……とうとう自分をごまかすことも出来なくなり、弟のことを思い出す。
「なんか、あっちの方が夢みたいだ」
 それは何も考えずに零れた言葉だった。
 うちに家族が、しかも生意気でやかましい奴がもう一人いたなんて嘘にしか思えないのだ。弟というのはもう過去を生きた幻でしかなかった。だからこそ今、奴のことを思い出しているのだろう。
 ぎゅっと目を閉じて開く。側にあったノートを開いて白紙のページをめくった。そこに弟の名前を書く。
 見慣れた名前だ。あいつは確かにいたのだ。今は俺だけの部屋となったここに、九ヶ月前までは弟の机があった。その頃ここは四人家族の暮らす家だったはずだ。
 息を大きく吐いた。消しゴムを取ってその文字を消そうとした所で、ボールペンで書いてしまったことに気付く。さらにはそのノートが日本史のものだったことにも。
「しまった、ノート提出ってあったっけな……」
 修正テープに手を伸ばすが、すぐに思い止まった。どうせ貰ったプリントは落書きだらけ、聖徳太子や仏像の写真は例外なく別のものと化している。名前の一つや二つ、どうってことはないだろう。
 試験勉強でもしてみるかと最初のページへ戻り、昔の土器やら農具やらの変遷を眺めた。
 写真に写ったものの特徴を覚えるでもなく文字の意味を解するでもなく、ただ目を左から右へ、上から下へと滑らせる。そのうち日が暮れ、台所の方からいい匂いが漂ってきた。誘われるように、ノートを置き去りにして部屋を出た。



 夕飯は肉じゃがだった。具材は肉にじゃがいも、かぼちゃ、玉ねぎ、糸こんにゃくに三度豆に人参。
母さんはいつも、うちの肉じゃがは栄養満点なのよと自慢する。しかし弟は必ず三度豆を残し、器の底に残った汁からは深い緑色がのぞいていた。俺は人参が苦手なので、それ以外を全部食べた後で母さんに見付からないよう弟と器を交換したものだ。
 食卓には父さんが先に座り、器の中身を半分に減らしている。
 テレビからはニュースが流れていた。チャンネルを回してバラエティに変えると、父さんはつまらなそうに新聞を広げて読み始めた。
「あんた、ちゃんと勉強したの」
 母さんの問いと共に器が出てくる。生返事をして箸をつけた。
 母さんが自分の分を持ってきた時、父さんはもう食べ終わったらしく、タンスからパジャマを出して風呂場へ向かうところだった。父さんの分の器を片付け新聞を綺麗に折ると、母さんはテレビをちらりと眺めてドラマに変えた。今度は俺がつまらない顔をする番だ。
 風呂場からは湯を入れる豪快な音が響いてくる。
 箸を速めて肉じゃがを全部たいらげ、器を流しへ運んで自分の部屋へ向かった。
「お父さんが上がったらすぐ入るのよ」
声が追ってくる。その声の向こうから聞こえるのはドラマのテーマソングだ。やっぱり生返事を返して扉を閉めた。
 パチンと電気を点けると、ひと呼吸おいて部屋が明るくなり、机の上のノートが開いていることに気付く。その場に立ち止まって思い出すが、さっきはちゃんと閉じたはずだ。窓は開いているが風は無い。
 思い違いだろうと自分を納得させて椅子に座った。その反動で椅子はくるりと力なく回る。
 もう勉強しようなんて気は無かった。ノートを閉じる。――すぐに同じページを開け直し、そこに書かれた文字を凝視する。
 白紙の真ん中に、ボールペンで書かれた弟の名前がある。「もっと丁寧に書きましょう」と試験で毎回注意される、下手くそな俺の字だ。そしてその下にはやはり下手くそな字で、

 ――机の一番下の引き出しを取り出して、すぐ奥。

 そう書かれている。
 もちろん俺の字じゃない、字の汚さでは俺とどっこいどっこいだが。しかし今問題なのはそんなことじゃない。
「いつ書いたんだ、これ……」
 さっき見た時にはこんな文字なんて無かった、白紙だったのだから。
 つまり俺が夕飯でこの席を立っている間に書かれたことになる。母さんには無理だ、俺の肉じゃがの準備をしてくれていたのだから。食べ終わってすぐに洗面所へ向かったから、父さんにだって無理に決まっている。
 じゃあこれは誰が書いたんだ。いつ、どうやって。
ふと視線を窓へ向けた。唯一可能性があるのはここから入ってきた場合だが、わざわざ窓から入ってきて、ノートにこんな文字を書いただけで出て行った? まさか。
 ノートに視線を戻す。机の一番下の引き出しを……。机というのは当然、俺が今向かっているこれだろう。弟のいない今、この部屋には俺の机しか無い。
 引き出しを取り出してすぐ奥に何があるというのだろう。これを書いた奴が潜んでいるのを想像して、その滑稽さに小さく笑う。そんな馬鹿みたいな展開なら歓迎してやりたいくらいだ。奇妙な文字に興奮し、しかし気味の悪さも覚えながら引き出しに手を伸ばす。
 一体この文字を書いた奴は、俺の机の奥にある何を知っているというのか。そして何故それを伝えようとしている。
 思い切って引き出しを全部出してしまい、その奥にあるものをのぞき見た。
 そこにあったのは埃と薄い四角形のもの、取り出してみると、集めている漫画の一冊だった。表紙と中身を確認するが、最新刊より三巻ほど古い。確か去年の初夏に買って、すぐにどこかへ行ってしまった物だ。こんな所に隠れていたのかと、拍子抜けするように思う。
しかしどうして今見付かるのか、それも得体の知れない奴の字によって。
 漫画の埃をはらい、もう一度ノートに書かれた文字を見る。俺のと同じボールペンで書かれているようだ。じっと見ていると白紙の部分へ滲み、溶け出して無くなってしまいそうな気さえする。
 ぱたんとページを閉じてタンスからパジャマを取り出し、洗面所へ向かった。忘れた方がいい、きっと何かの間違いだ、きっと、きっと。
 頭から湯気を上げバスタオルを肩にかけて、父さんが風呂から上がってきたところだった。俺の顔を見て怪訝げにしていたが、きっと俺はそれ以上に強ばった表情をしていたのだろう。





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