目の前に広がるのは明るい空。それが自分が見ている光景だと気付くまで、少し時間を要した。
 すぐそこにある岩壁に手を伸ばすと、すぐに届く。体がちゃんと動く。生きているのだと強く実感した。
 しかしどこか違和感があった。体が軽い。どうして……。
 起き上がり、どこか懐かしい感覚に自分の両手を見た。レミアのものじゃない。
 胸の重みは無い、服も違う。髪を一本引き抜いてみると、懐かしい茶金の色だった。胸に込み上がってくるものを感じた。
 それは自分だった。二年間レミアを見つめて、やっと自分に戻ったのだ。二年ぶりの自分と、この世界。泣きそうだった。
 なんという奇跡だろう。
 俺は母さんと逢ってきたんだ。父さんもいた。二人とも素晴らしい人だった。――この話を聞いた時、詩歌はどんな顔をするだろう。元気でいるだろうか。
 思ったほどに傷はひどくなくて、起き上がることもできそうだ。
 慎重に立ち上がってみると、俺の視点はレミアよりも低かった。喉から間抜けな声が洩れる。
 服がだぶついていた。身長も低い。俺が崖に落ちたときより頭一つ、いやそれ以上低いんじゃないだろうか。
「……あー……」
 声も高い。とすると、また時がずれたのだろうか。この体なら、やっと二桁になったくらいか。
 とにかく家に帰らなきゃ。詩歌なら助けてくれる、俺の言うことを理解してくれる。
「誰かあぁぁーッ」
 そうだ、この世界には詩歌がいるんだ。たった一人の兄であり家族であり、もう一人の俺。やっと逢えるんだ。だから大丈夫。
「助けてくれーッ」
 草を踏む音が近付いたかと思うと、ひょこ、と顔がのぞいた。詩歌だった。俺と同じくらい、やっと二桁になったくらいの年だった。
 懐かしさで何も喋れなくなる。俺の片割れ。
 やばい、泣くかも。後でからかわれるや。
 でもいい。そんなことより今は、また逢えたことが嬉しい――

「詩歌だろ、お前!」
 突然、詩歌は言った。紫苑であるこの俺に。
「え……?」
「街から戻ってきたんだな」
 詩歌は、顔をくしゃくしゃにしてはしゃぎ続ける。驚きと混乱で俺は何も言えなくなってしまう。
「あ、俺分かるか? って当たり前か、同じ顔だもんな。紫苑。弟だよ、お前の!」
 紫苑だって?
 馬鹿を言うな、紫苑は俺だ。頭の中で必死に反論するが声にはならない。俺が詩歌だと? 俺が――
「ったく、何やってんだよ。街から帰って早々落ちんなって。ほら」
 そいつが手を伸ばした。
(街から帰って早々――
 俺の手が、紫苑の手をつかんだ。

 もう八年前か、詩歌が街から帰ってきた。帰ってきて早々、崖から落ちやがった。そこで初めて俺達は出会った。
 落ち着いていて思慮深い。まるで先が見えているようだ。
 そりゃそうさ。それはあいつにとっちゃ、既に体験したことだったんだから。
 六年間、詩歌と呼び兄ちゃんと呼び、いつも隣にいた片割れ。いつも傍にいて、何か困ったことがあるとすぐに助けてくれた。誰よりも頼りになる存在。
 あれは、俺だったのか。

 じゃあ本物の詩歌はどこに?
 全てを明らかにするため、崖の下に降りてみた。あの煙、あの日俺が落ちた原因。その正体なら予測がついていた。
 何度も迂回しながら崖を降りる。水の音が大きくなる。どこで煙を見た、思い出しながら歩いていく。
 花が見えた。数輪の萎れた白い花と、白く灰になって崩れた線香。線香は二つ立っていた。
 側には大小の石が置いてあった。大きい石にはれみあと、小さい石には詩歌と、そう彫ってあった。
 その側の岩の窪みには一通の手紙が、風雨に晒されないよう置かれていた。
 婆ちゃんの字だった。相変わらずの下手な字だった。

 ――見つけてしまったんだね、紫苑。一人で崖下に降りてこられるほど、あんたは大人なんだね。婆ちゃんはもう、そんなあんたを見られはしないだろうけど。
 ――街に詩歌を預けている、なんてのは嘘です。あんたの母さんが死んだ日、また歩けやしなかった詩歌も、崖を落ちてしまった。
 ――子供のあんたにそれを言うのは酷すぎて、嘘をついていた。

 手紙を閉じて目をつむる。酷すぎるじゃん。
 それなら最初から、詩歌なんていない方が良かった。六年間信じ続けた存在。俺の片割れ。誰よりも大切な奴。
 それは俺自身、八年後の俺だったなんてさ。あまりにも酷すぎるじゃん……。
 まず最初にヒースを失い、次にはレミアを失い、そして最後の拠り所だった詩歌さえ失ったんだ、俺は。
「酷すぎるよ……」
 俺が見ていた詩歌、八年後の俺。お前もそうだったのか?
 詩歌が戻ってきたとはしゃぐ八年前の自分に、哀しくなったりしてたんだな。全てを知りながら、幸せなままにしといてくれたんだな。
 必死で頼れる兄ちゃんを演じてたんだよな。
 そして俺も……演じていくんだな。



 もし俺が崖に落ちた日、お前が、崖に行くなと言っていたら?
 そしたら、レミアは崖から落ちなかったに違いない。俺がその内側で生きるということも無かった。それどころかウィルと結婚して、お前自身、俺自身までもが消えちまってたに違いない。
 全部消えちまうのか片割れだけが消え去るのか、どっちがより哀しいんだろうな。どっちが苦しいんだろう。

 俺が崖から落ちた後、詩歌はどうしたんだろう。この村で生きた? 街に出た?
 それは俺がこれからすることなんだ。俺がこれから通る道は全て、あの時詩歌が通った道に違いないんだ。





 それは言わない約束だろ。それより紫苑。お前明日、森に行くのか。
「そうだけど。何、またお得意の予知?」
 いや、だから予知とかそういうのじゃ。
「じゃあ何だよ。何か取ってきてほしい物でもあるか?」
 いいや、大丈夫だよ。気にしなくていい。
「分かった。街の彼女が家に来るから、帰ってきてほしくないんだ。六年ぶりの再会だろ。紫苑くん大正解!」
 だから、……もういいよ。第一俺、彼女なんていないしさ。
「嘘だろ。俺にも誰か紹介してもらおうと思ってたのに。これだから詩歌は困るよ。真面目すぎてさ」
 俺は真面目なんかじゃないさ。お前と同じだよ。
「同じなんて見てくれだけだろ」

 違うよ。お前と同じだよ。だって、俺はお前なんだから。
 やっぱり止められなかった。崖には近づくなと言えなかった。俺は馬鹿だから。
 自分が消えるのは嫌だから? 違う、紫苑に消えてほしくない。自分の父と母と、全てを見てほしい。その結末が絶望だとしても。
 どれだけ辛いだろう。俺が一番分かることだ。
 俺が消えるのは、もう構わない。消えたい。終わりたい。
 きっと詩歌もこうしたんだろう。
 俺が出て行って、あの墓に近い岸へ歩いて、俺自身が昨日換えた花と線香の煙に誘われて、崖に落ちて、その後へ続く。

 この崖には母さんも兄ちゃんもいる。俺も、みんなのいる方へ行くだけさ。
 もう一度、母さんの顔が見てみたいんだ。



 ――煙の匂いがして、全身に痛みが走った。