「……あー」
 ほんの少しの期待も空しく、その声はレミアのものだった。自分の身体ではないというのが悲しかった。しかしレミアも生きているのだ。
 ハッと体を起こす。双子はどうした?
 脇に抱えたファニアとチェリア。恐る恐る手をかざすが、どちらもちゃんと息をしていた。ほっと息をつく。
 その途端、体中が痛いことに気付いた。二年前と同じだ。上を見上げて思わず目をつむる。ひどく目が痛い。いや、痛いというよりも開けられないのだ。
 異常なほどの眩しさだった。蝶が多いのかと考え、ふとある可能性に気付く。心臓が高鳴る。
 太陽だ。
 目を開ける。しっかり眩しかった。目を閉じても残る強い光、眩しい視界、ここは俺の世界なのだ。
 目を開けたい。目に太陽を焼き付けたくってしょうがない。暖かくて明るい世界は懐かしすぎた。
 でもレミアはどうなる。暗い気持ちになった。俺でさえあんなに戸惑った。怖くて、心細くて仕方がなかった。レミアは耐え切れるのか。
 頭をぶんぶんと振った。何を考えるのも、助かってからで遅くはない。
「詩歌ーッ。紫苑ちゃんを助けてくれーッ!」
 さあ、詩歌はなんて言うだろう。この完璧すぎる変装を見破れるかな?
「詩歌ーッ。ここにいるんだ、助けてくれーッ」
 ――しかし聞こえたのは、詩歌じゃない、なにか別の足音だった。誰だ、乃波……いや斜向かいん家のおばちゃんか、それとも。
「どこだい、あぁ崖の下か」
 懐かしい言葉。……懐かしい声。
 ひょいと顔がのぞいた。それは婆ちゃんだった。どこか若くてしわも少なかったが、紛れもなく俺を育ててくれた人だったのだ。
「まあまあ子連れで。ちょっと待っといで、若い者を連れてくるから」
 婆ちゃんは死んだはずだった。生き返ったという可能性が浮かび、すぐ消える。
 もしかすると今は、俺が暮らした時ではないのか。
 濡れた体が太陽の中で暖まっていく。暖まっていくはずなのに、体に感じられるのは寒気ばかりだった。ある考えが浮き上がってきて、どう沈めようにもうまくいかなかった。
 双子を連れた女。俺くらい口の悪い女。それは、一体誰だった?
 ざわざわと声がして、人の顔がのぞいた。みんな知っている顔だった。青年と呼ばれる年齢の、みんな、俺がおっちゃんと呼んでいた人々だった。



「本っ当に馬鹿な娘だねえ。上の方から流されたのかい。ん?」
 婆ちゃんは俺と双子を自分の、やがて俺と詩歌のものとなる家まで連れてきてくれた。てきぱきと怪我を治療してくれる姿は、俺の知っているそのままの姿だ。
 俺は今レミアで、双子を連れた女で、婆ちゃんの家にいて。
「どうしたんだい、さっきは大声張り上げてたくせに。ほら、これでも飲んで落ち着きな」
 手渡されたカップにも、茶から香る花の匂いにも覚えがある。
 婆ちゃんが向かいの椅子に座った。婆ちゃんの趣味の刺繍が施された座布団。婆ちゃんが愛用してたやつだ。
「喋れないわけじゃないだろ、なんか答えなよ。上から流されたんだろう? 天辺の村かい、それとも」
「違……っ、そんなとこじゃねぇよっ」
 言い終わって気が付き、口を押さえる。
「なんだい、随分と気の強い娘じゃないか。じゃあどこだっていうのさ」
 しまった、こうして俺は口の悪い女と伝えられていくのか。目を閉じて考えるが、俺が昔聞いていたものが一番、ここを追い出されないために相応しい答えだった。
「住んでいた村を追い出されました。ここに置いて頂けませんか」
 そして、こう言ってしまったことで確実になる。俺は、レミアは話に聞いていたあの女なのだと。
「ん、まあ怪我もしてることだし、追い出そうとは思わないけどねぇ。しかし、怪我が治ったらちゃんと働いてもらうよ」
 うなずく。これからは俺がしっかりしなきゃいけない。
 レミアに支配が移ったら、錯乱してどうなるか分からない。だから意識を手放さないように、気を張っておかなくちゃ。



「あれ?」
 レミアの声が聞こえて、俺も目を覚ました。そして歯を食いしばる。しまった。
 レミアの体はレミアの意志で周りを見る。ここは二階の客室、後に俺の部屋になる場所だった。
 しかしレミアは、ここがどこかを考えているんじゃない。ヒースはどこにいるのかと探している。彼女の意識はヒースが死んだあの夜から止まっていた。
 そしてやっと気付いたようだった。あれは夢じゃなかった。
「ヒース……」
 涙がぽろぽろこぼれ落ちる。レミアは改めて、ヒースの死の意味するものを感じたようだった。それは彼のいない生活、朝起きても隣には誰もおらず、いくら待っても誰も帰ってこない生活だ。
 嗚咽がもれる。しばらくそうしていた彼女は、突然涙をぬぐって頭を振った。大きく息を吸って言葉を吐き出す。
「悲しんでばっかりいられない。私には――
 言い終わらないうちに彼女は口を押さえて固まった。
 今のは俺のせいだろう。あっちの世界に行った、いや、戻ったばかりの頃の俺と同じ。聞いたこともない妙な言葉を喋っているのに、意味は分かる。
 俺のときはレミアが言葉を仲介してくれた。今は俺が仲介している。出来る限りのことはしてやるからな、そう囁く。
「おや、もう起きたのかい」
 婆ちゃんの声がして戸が開いた。レミアははっと身構えたが、入ってきたのが老婆だったこと、そして手当ての道具を持っていたことで警戒を緩めた。
「あの」
 言葉を発してレミアが口を押さえる。耳が感じる違和感に耐えられないのか。
「……ここはどこですか」
「なんだい、自分で来たくせに忘れてんじゃないよ。別に名も無いちっぽけな村さ」
「崖から落ちたはずなんですが……」
「あんたも大概あまのじゃくが過ぎるね。やっぱり上から流されたんじゃないかい。ほら、足を出してごらん。もう薬を取り替える時間だよ」
 レミアは困った表情のまま布団から起き上がる。
「この薬草は効くだろう。すぐに傷なんか消えちまうからね」
「はい……」
 婆ちゃんは薬の粉を水で溶いて傷口に塗り、その上から包帯をぐるぐると手際よく巻いていく。
「そういえばあんた、名前はなんて言うんだい?」
「レミアです」
「れみあ? どっから来たのか知らないけど、上の村の人は変わった名前を付けるんだね」
「あの、子供達は大丈夫でしたか」
 包帯を止め終わって婆ちゃんは顔を上げた。
「そうだ、あの子達どうにかしてくれないかい。まだ何を食べるにも早いみたいなんだ」
 婆ちゃんに支えられて一階へ降りると、双子がわんわん泣いているのが聞こえてきた。二倍の威力だ。
 レミアはそれを聞いて、足の痛みも気にせずに駆け寄った。

「その子達の名前は?」
 婆ちゃんがぽつりと言ったのを、俺は聞いた。しかしレミアの耳には入っていなかったようで、ただ二人を抱き締めた。
 俺はぼうっとしながら俺と詩歌を眺めていた。だからかもしれない、次に聞こえたレミアの言葉はレミア自身のものだった。
 俺の言葉に直せば、あなたたちの楽園を見つけなさい、とでもなるだろうか。
「私の楽園は過ぎ去ってしまったのだわ」「今は生きるだけ。私にはそれだけ」「だから」
「Seek your “ZION"」
 それは俺の言葉で聞く限りでは、どうしても「シイカ」「シオン」としか聞こえなかった。
「へえ、その二人はちゃんとした名前じゃないか。そっちの子がシイカ、それでこっちがシオンだって? ジオン?」
 レミアがきょとんとしているそばで名前は決められ、今も俺が使っている……。
 俺の名前はチェリアだった。



 レミアはいつ死んだんだろう。物心がついたころ、俺の周りには婆ちゃんしかいなかった。レミアが死んだと同時に、二人も育てられなくなった婆ちゃんは詩歌を街に預けたんだろうか。
 双子は、もう少しで歩けそうだった。
 死ぬな、祈るようにそう思った。不可能なことだとは知りながら、しかし祈る以外の何が出来ただろう。
 死んでほしくない。死んでくれるな。レミア。母さん。母さん。
 どうか生きて、一分一秒でも長く傍にいたかった。





 その日は突然に訪れる。
 久々の晴天に、レミアは洗濯物を干していた。洗ったばかりの衣類を固く編まれた籠から取り、水気を払って紐に通していく。
「ここは眩しいわね。青い空なんて初めて見たわ、ね、ファニア」
 草の中を詩歌が駆け回っている。ただし、手と足で。まだ歩けはしない。
「風が気持ちいい。こんな日には、決まって鱗粉が飛んでくるのよ」
 わずかに声が悲しみを帯びる。ヒースを死に追いやった鱗粉は、人々に光を、蝶使いに早すぎる死をもたらす存在だった。
「ここ辺りでは、ブライトフライを見かけないけれど。でもそれもそうよね、こんなに眩しいんだから」
 あまりの晴天。暖かい日差しと乾いた風に、最初に干したものなどもう乾き始めているほどだった。
 そのうちの一つが軽やかにはためき、風に飛ばされる。
「あっ」
 慌てて追いかける。それは、昨日までの雨で湿った草に着地した。
「あー。また洗わなきゃ」
 そして水の音に気付く。自分達の村と同じだと、つい川を探す。
 草を分けてレミアが辿り着いたそこは大きな崖だった。俺が落ちた場所だ。レミアがここに来た時に落ちていた場所でもあるが、彼女にその時の記憶は無いのだ。
 膝を付いて下を覗き込むが、むき出しの岩と水の音が流れるばかりで、俺が落ちた日に見た煙はどこにも無い。――唐突に思い当たった、あの煙の正体はまさか。
 詩歌の、きゃっきゃっという声が聞こえる。母親を追いかけてきているようだった。
「ファニア、こっちに来ちゃ――
 振り返って、雨に濡れた地面に膝がすべる。
 俺は静かに目を閉じた。心の中で手を合わせ、レミアという母親がいたことに感謝した。今まで共に過ごした数年間、ヒースとの思い出、そしてヒースという父親を、静かに心の中にたたんだ。
 レミアの視界から流れてくるのは赤茶の髪と太陽。空は眩しい。蝶はいない。
 俺も一緒に死ぬのかな、ぼんやりとそう思った。





 老婆は、女とその長男がいないことに気付いた。窓の向こうでは洗濯物が揺れるだけだ。
「ったく、どこに行ったんだか」
 女の次男は、笑いながら毛玉を転がしている。くるくると転がっていくのが面白いようだ。珍しい色の髪を撫でた。
「ちょっと待っときな、紫苑。あんたの母さんを探してくるから」
 家の前の物干し場に出てみるが、辺りを見ても二人の姿は無い。籠の中にはまだ少し干すものが残っているが、途中で放り出すとは珍しい。
「一緒になって遊んでるのかねぇ」
 ふと草の折れた跡に気付く。まだ歩けない、女の長男のものだろう。
 それを辿っていく。それは所々道草をしながらも、確実に崖の方へ向かっていた。嫌な予感を抱きつつ、崖へ急ぐ。
 崖のところには、女の長男に着せていたものが落ちていた。これは今朝洗ったばかりのものだ。いよいよ警鐘の音はひどくなる。
 老婆は用心深く手をついて崖を覗き込む。――目を背けた。
 崖の底には、女とその長男が、変わり果てた姿で横たわっていた。