ヒースとの生活が始まって、もう少しで一年になるか。
 俺はなるべく顔を出さないようにした。なるべくレミアの中で大人しく、しかし消えはしないように。見るのが憚れる部分も多くあったので、必然的に眠る時間が多くなった。
 レミアの情動の安定もあってか、唐突に俺に切り替わることもなく、平穏に日々は続いていた。
 ヒースは医師の診断により、レミアと一緒になる少し前に旅芸師を辞めた。やはり肺の調子は思わしくないようだった。おじさんの紹介を受けて普通に働き始め、細々と静かだが幸せな生活を送っていた。
 そして九ヶ月前、レミアが身籠っていることが分かった。
 それからは一つ一つの行動に気を使う日々だった。幸い吐き気はそれほど無かったが、五ヶ月目あたりからは腹の重さが増す毎日だった。
 腹を見つめて笑っているレミアを心底強いと思った。
 そして三月くらい前、俺は――精神に性別なんて無いのかもしれないが――元々の体は男でありながら子供を生むという体験をしてしまった。正直なところ、ほとんど気絶していたと思う。
 ふっと目が覚めたら、ころころした真っ赤な肌の子供が二人、傍らで眠っていた。双子で、どっちも男だった。俺はどうしようもなく俺自身と詩歌を重ね合わせた。髪の色もよく似ていた。
 かと言ったって、こいつらはファニアとチェリア。どう頑張ったって詩歌と紫苑にはなれやしない。
 レミアは本当に幸せだった。幸せそう、どころじゃない。俺には一番分かっている、今がこいつにとって一番幸せな時なんだ。
 長く伸びていた赤茶の髪を、肩のあたりで切った。
 夜にはヒースが帰ってくる。昼間のどんなことを話そうか。夕方にはそればかり考えている。もうちょっと料理に集中したら、黒焦げにする失敗も無くなるだろうに。

 詩歌のいるあの世界に帰りたいって気持ちは強い。確かに強いけれど、何かが俺に焦りを無くさせた。レミアの中に居たかったわけじゃなく、何かが俺を安心させていた。
 こんなレミアを道連れにして一か八か崖の下へ、なんてできるはずがなかった。
 こいつにはヒースや双子がいる。レミアは今までで一番幸せな時なんだ。

「ただいま」
 扉の音とヒースの声。少し疲れを含んだこげ茶の目がにっこりと笑う。
「お帰りなさい。あのね、今日チェリアが喋ったのよ」
「えぇ?」
 生まれて三ヶ月と経たない赤ん坊が喋るもんか、そんなの俺にだって分かる。ヒースはレミアの大袈裟な話に笑って応じている。
「あ、嘘だと思ってるでしょ。本当よ」
 レミアは赤ん坊を寝かせた部屋へ行ってチェリアだけを抱いた。こちらへ手を伸ばしたファニアの頬を撫で、部屋へ戻る。
「ほらチェリア、もう一回喋ってごらん」
 チェリアは何も言わない。うとうとしていた所を起こされて不機嫌なようだった。
「どうしたの? 父さんに聞かせてあげてよ」
 耳元でゴチャゴチャと言われ、チェリアはとうとう泣き出した。悲鳴のような泣き声が響き渡り、ヒースが慌てる。
「よしよし。もぉ、ヒースがちゃんと聞いてあげないから」
「僕のせい? 眠いんじゃないの」
 どうにかチェリアをなだめる。やがてチェリアは眠りに落ちてしまった。俺は、母親に抱かれて眠るチェリアが羨ましかった。



 しばらくぼーっとしていたが、ようやく気付いた。俺に支配が移ったんだ。
「って言ってもすることなんてねぇよなぁ。な、ファニア」
 寝付いたばかりのファニアは、頬が真っ赤だ。口元がよだれで光っている。俺にもこんな時があったのか。
「あんまり可愛いもんじゃねぇな。お、お前は起きてんのか」
 手足をゆっくり動かしているチェリア。抱えるとキャッキャッと笑う。単純だ。
「可愛いもんじゃないけど、なんか、やっぱり可愛いか?」
 俺を産んだ母親ってヤツは、どんな人だったのか。婆ちゃんは、他の村から追い出されてきた女だと言った。性格に関しては、お前と同じで口の悪い女だったと。いついなくなったのか。いつ……
 ふと気付いた。聞いた覚えが無いのだ。いつ俺の母さんはいなくなったんだ。死んだのか、それともどっかに逃げ出したのか?
「どっちにしろ性格の悪い奴だな。二人も子供抱えてんのに追い出されるなんて、普通じゃねぇもんな」
 でも、と思った。あの婆ちゃんだ、逃げ出した女の子供なら愚痴の一つでもこぼすはず。だとすると死んだのだろうか。
 死んだんだとしたら、子供にそんなことは話せない。
 手を下ろす。チェリアは笑うのをやめる。
 死んだのか。今初めて行き当たった答えに、自分で戸惑っていた。胸が冷えていくようだった。
 初めて、顔も見ない母親を愛しいと思った。例えそれが、どんなにひどい奴だったとしても。口がとんでもなく悪かったとしても。俺らを置いて、勝手に死んだんだとしても。
 チェリアがぐずり出した。
 ――絶対に好きになるもんかって思ってたくせに、あんたに逢いたいよ。なぁ、母さん。
 チェリアに自分を重ねてみた。いいじゃん、お前すっげー幸せじゃん。そのままファニアの隣に横たえた。
「レミア。あんたの愛息子は、まだ喋んないみたいだぜ」





 レミアの苦しみが嫌なくらい伝わった。
 ヒースの具合が悪いのか、医師にもかかっているからそのうち良くなるだろう、としか考えていなかった。よく押し殺すような咳が聞こえたが、レミアにそれ以外の何ができただろう。
 そして昨日のことだった。ヒースの職場から見知った少年が訪ねてきた。雨の中に来るなんて珍しいなとか、ヒースが遅くなるのかしらとか、レミアはそんなことを考えていた。他愛もなく。
 そしてその少年は言った。ヒースさんが倒れました、咳がひどいんです。
 レミアも俺も嫌な予感は一緒だった。ファニアを少年が、チェリアをレミアが抱えて、職場づきの病院へ駆け込んだ。
 ヒースのあの優しさとか柔らかさとか、そういうのって全部、あいつの愚かさになってったんじゃないか。あまりに愚かすぎて悲しすぎて、俺はもう軽々しく真似したいなんて思えなくなっていた。
 ヒースは言った、「子供たちにブライトフライを見せたかった」。本当に馬鹿な奴だった。
「ちゃんとマスクはしていたんだけどね」
 それでも、あれだけの蝶に包まれて完全に鱗粉を断つことはできない。分かっていながら森中の蝶を集めたのだ。馬鹿だから。
 レミアは泣き崩れた。それを聞いて双子もぐずり出す。
「レミアが泣いてくれるのが嬉しいよ」
 本当に馬鹿で、愚かで、考えもなくって、滑稽で……そのくせ嫌になるくらい暖かく、優しく、やわらかい存在だった。
「あの帽子の裏にはね、僕の村に伝わる、蝶の刺繍がしてあるんだ。裏布をはずして売ってごらん、まとまったお金になると思うよ」
「最南の村の長を訪ねてごらん。預けておいたものがあるから」
 最後までそんなことばかり言っていた。
「ヒース……ヒース!」
 最後まで。



「肺がやられていました」
 そりゃそうだろう。マスクが無いのに、初対面の俺の前で芸をしたんだ。あれが最初だとは思えない。きっと今までにだって何回もしていたに違いない。その度に肺を悪くし、咳をしながら歩いてきたんだ。
 そして終わりを確信した時、最後の客に自分の子供を選んだ。
 雨の中を歩く。双子を抱えたまま。傘こそ持っていないが、双子だけは濡らさないようにしている。
 今はレミアから、何も聞こえない。悲しみも苦しみも、ヒースへの想いも、双子への慈しみも。何も。ただ足を動かしていると、そんな感じだった。
 広場を過ぎて森の中に入る。
 レミアの頬を伝ったのは、涙か雨か。
 ここはヒースと初めて出会った場所なのだ。それから何度も会って、話をして、夫となって十五ヶ月。あまりに早い終わりだった。
 レミアが立ち止まり、しゃがみ込む。口の中で叫ぶ言葉はただ、感情しか持っていなかった。背中から雨に濡れていく。
「…………っ」
 今度のは確かに涙だった。こんなに温かい雨があるもんか。目頭が熱くなる。
 どうしてこんなに感情移入できてしまうのか、自分でも不思議だった。婆ちゃんが死んだときでさえ泣かなかったのに。
 体をもたない俺の頬にも涙が伝うのが分かった。
「もう帰らなきゃ、ね」
 その言葉は双子に向けたものだった。これ以上濡れて、自分まで体を悪くしてはいけない。森を抜ければすぐに家だ。
 レミアは立ち上がった。その途端、視界が滑った。
「きゃあッ」
 雨でぬかるんだ地面に足を滑らせたのだ。その時、雨の音の向こうに、川の流れる音がはっきりと聞こえた。
 俺の叫んだ声は音とならない、レミアを救う腕にもならない。
 森のすぐ脇には川が通っていた。川が流れるのは谷の底の底、そしてそこへと続くのは急な崖。
 それは二年前に俺とレミアが落ちた場所だった。俺の記憶とレミアの記憶が頭の中でぐるぐる回り、レミアの腕はただ子供を強く抱いていた。