次の日は思っていた通り、朝からレミアに体を支配された。
「あれ?」
 眠そうな声だ。レミアには俺の間の記憶は無いようで、包帯の増えた足を不思議そうに見ていた。
 つまり昨日のことはこいつが、訳も分からず一方的に責められるんだ。悪いことをしたものだ。
 でも、それなら俺はどうしたらいい? 見知らぬ女の体の中で、男と結婚し、子供を産んで一生を終わるのか? そんな理不尽なことってあるか。
 レミアは寝着のまま階段を降りていく。階下に下りたところで、廊下に寄りかかった青年がこちらを見ていた。
「ウィル、おはよ」
「ん」
 ウィルは不安げな顔でこちらを見る。レミアは何も気付かずに彼を通り過ぎた。
「父さん。珍しく早いじゃない」
 居間にいたのはおじさんだった。相変わらず目に布を巻いている。これが彼の普通の姿なんだろうか。
「レミア、昨日のことを覚えているか?」
「もぉ、父さんまで。そう何度も繰り返さなくてもいいじゃない。どうせ崖から転落しましたよ」
 台所から聞こえていた、規則正しい包丁の音が止まった。おじさんは軽くうなずいた。
「昨日お前は、家から飛び出したんだ」
「……そうだっけ? 飛び出した? いつ」
「夜中だ。そして言った、ウィルと結婚するのは嫌だと」
 レミアは絶句した。居間と廊下とを繋ぐ扉から、ウィルがゆっくりと歩いてくる。その表情を見て、おじさんの言った内容が嘘でないと分かったようだった。
「私、私がそう言ったの? 違う、私……」
 レミアの考えていることが嫌なほどしっかり流れ込んできた。喉が締め付けられたようで、息がほとんどできないでいる。
 おじさんの方へ向き直った。
「知らない! 私、そんな覚えなんて無い。本当よ、本当に本当なの」
「レミア、落ち着こう」
 肩におじさんの手が置かれる。思ったよりも若い手だ。掌にある傷痕は、崖の下に落ちて、おばさんと初めて会ったという時に付いたものだろうか。
「落ち着く……落ち着いてるわ」
 レミアは座り直す。自分の膝を見つめる。指の付け根から骨が浮き出る。
「それでね、話し合った結果、婚約を解消しようということになったんだ」
「私のせいなの?」
「俺の意見でもある」
 後ろからの声に振り向くレミア。
「やっぱり考え直した方が、と思うよ。昨日おばさんに言ってただろ、許婚だと好きも嫌いも無いって」
 レミアの考えが全て、鮮やかに見える。「そうだけど。確かに、特別好きだからっていうのじゃなかったけど、でも」。
「俺もそれは感じていたことだし、少し距離をおいてみよう」
「な、レミア。またお互いに結婚したいと思った時、その時でいいじゃないか」
 おじさんは、やっぱり詩歌を連想させる声で言った。



 いつの間にか体の支配は俺に移っていた。
 開け放たれた窓からは相変わらずの暗い空が見える。頭が痛い。
 目に疲れを感じた。ずっと泣いていたからだろうか。布団に自分の頬を押し付けて、ずっと頭に響いてた言葉があった。
 ――そうよ。好きだったわけじゃないわ、でも悲しいじゃない。
 ――どうしたって苦しいの。ずっと決まってた人なのに。
 レミアの声だ。俺に話しかけてるんじゃないのは分かっていても、聞こえてしまうんだからしょうがない。
 ――好きじゃなくても、二十年意識してたのに。
 ――ウィルには私以外に、そういう人がいたのかな。ううん、その方がいいわ。他に好きな人がいたから、あんなこと言ったの。きっとそう。
 ――だって覚えてもいない言葉がきっかけだなんて、絶対に嫌じゃない。
 その声が段々と小さくなって、レミアは眠りについた。
「……まぁ、とりあえずこれで、レミアが二十だってのは分かったわけだ」
 それだけでは大した収穫でもない。窓枠に肘をつく。
「しかし、ここはどこなんだろうな」
 見渡す限り、空に明るいところは無い。ただ曇っているだけというより、湿気を含まない霧が、そこらじゅうに立ち込めているかのような感じだ。森との境界が分からない。
 雲が多いわけでもないのに太陽が見えない。
 それでも弱い明かりはある。ちらちらと空中を動き回っている。
「虫か?」
 蛍が飛んでいるのか。いや、蛍のような明かりより煌めきといった感じだ。ちらちら、時折薄暗い中から浮かび上がる。
 ふと下を見る。戸の閉まる音がして、家から出てきたのはおじさんだった。頭に巻いた布を見れば一目瞭然だ。
 あのおじさんも変な人だ。父親だったら普通、娘には安全な結婚、安定した生活を送ってほしいはずだ。そのための許婚だったんだろう、なのに。そりゃ俺は助かった訳だけど。
 早くレミアから出て行かないといけない。ここに俺がいちゃ、レミアは一生幸せになれない。
「詩歌も心配してるだろうな」
 詩歌の声を、自分の声を思い出そうとした。しかし甦ったのはおじさんの声だった。
 おじさんの背中を見る。森へと飲み込まれていくようだ。もう少し離れれば、薄暗さに飲まれてしまいそうだ。
 追いかけてみよう。俺のことだって理解してくれるかもしれない、そんな幻想を抱いた。

「おじさん!」
 おじさんが振り向く。俺の姿を認め、布の下で微笑したように見えた。
「もう一人のレミアさん、か」
 その落ち着きぶりに驚いた。走っていた足が止まり、そこからは歩いて近付く。
「おじさんってちょっと変だよ。その格好もだしさ、俺のことだって普通、おばさんとかウィルの奴みたいな反応するんじゃない?」
「まぁそうだな」
 おじさんは笑うと、素早くさっきの虫を捕まえた。
「ところで君はこの虫を知っているかな?」
「蛍みたいだよな。でも蛍とは違うんだろ。あ、蛍って分かる?」
「そう、蛍ではない。ブライトフライというんだ。蝶の一種だよ、見てごらん」
 おじさんの手が蝶の羽を開いた。間近で見ると、煌めきはこの蝶の鱗粉ということが分かった。おじさんの指には鱗粉が移り、きらきらと輝いている。
「君は、ここに太陽が無いことに気付いているだろう」
「見えないけど……無いの?」
 おじさんを見て歩いていて、木の根につまづいた。
「無いんだよ。太陽があるのは遥か遠き国、遥か上にある国のみだ。太陽が無くて困った先人達は、この蝶を積極的に育て、わずかな光でも反射し反射しあって、安心して生きられるほどの明るさを手に入れたのさ」
 面白いお話だった。けれど、遥か上にある国、太陽が無い?
 思い当たる話があった。俺も知っている話だった。遥か下にある国、魔物うろつく別世界、太陽の無い暗闇の世界。
「それと同時に、こんな話もあるんだ。この国の者は元は蝶で、それが進化して我々になったと。夜に髪がちらちら輝くだろう、それは鱗粉の名残なんだって」
「ここは、どこなんだ」
 声がわずかに上ずった。あまりに馬鹿げた話を聞かされ、そしてそれが現実であることほど恐ろしいものはない。ちょうど、母親を殺したのは父親だと言われるようなものだ。
「どこって、スィミアと呼ばれる世界だよ。太陽の存在する世界はディフィアと呼ばれるが」
 表情は相変わらず見えないのだが、声が笑った気がした。顔を覆った布が少し歪んで笑みを作る。
「君は、どうやらディフィアからの来訪者のようだね」
 おじさんは、驚くような仮説をいとも簡単に立ててみせた。



「どこに向かってるんだ?」
 おじさんの話を信じたわけじゃない。でも自分で仮説を立てるにしても、おじさんの言ったこと以外に辿り着けなかった。ほどほどに落ち込み、やがて彼がただ森を散策しているだけじゃないと気が付いた頃だった。
「街との境だ。旅芸師や商人がいて、あんな辺境の村の住人には都合がいいんだよ」
「旅芸師か」
 旅芸師はいつも街のことを教えてくれた。彼らの話を聞くのは楽しかったし、所持品も面白い物ばかりだった。会えるのは嬉しいはず、なのに心は浮かない。
 ディフィアにスィミア。嘘のような話ではないか。まるで絵本か伝説ではないか。
 第一、どうしておじさんはそんなものを信じているんだ。無い太陽の存在を知っているなんて。そんなこと教えてくれなければ良かったのに。馬鹿みたいにおじさんを恨んだ。
 二つの世界が本当にあるんだとして、何故世界を移り変わってしまったのか。それが謎になる。
 崖から落ちて、気が付いたら空は暗かった。気絶とかの時間のずれが無いとしたら、落ちた瞬間にこっちへ?
 それに、レミアという女の中に移ってしまったこと。体から心が抜けるなんて子供だましな話があったが、実話だったのだろうか。
「ほら、見えてきた」
 おじさんに言われて視線を上げると、一際明るくなっている広場のような所があった。
 数十人くらいの旅芸師・商人に、それを上回る数のお客。旅芸師は大抵が、五、六人で一団体になっているようだ。
 商人は商人でお客の取り合いをしている。旅芸師を雇って客引きをしている者や、子供に狙いを定めた商売をしている者もいる。時には言い争う声も聞こえた。
「必要な物資をあさってくる。この広場内なら自由に歩き回っていいよ」
 おじさんはそう言い残して行ってしまった。あてもなく自分の周りに広がる景色を眺める。
 今の自分は、喧噪とはほど遠い場所にいるように思われた。逃げる気も起こらない。逃げる理由さえ失ってしまった。薄暗い空を見ると、いくつもの風船が漂っている。
 声がする。逃がしてしまった風船を捕まえてくれとねだる声だ。子供の手を離れた風船はふわふわと力なく風に流され、そのまま空高くに見えなくなった。
「ずるい、それあたしの飴だよ」
「返してほしけりゃ取りにおいで!」
 子供が駆けてくる。ぶつかって、よろけたのはこっちだ。ごめん姉ちゃんとだけ言ってどこかへ逃げていく。その後を追いかけるのは妹だろうか。
「こら、ちゃんと謝りなさい」
 母親らしき人がこっちへ歩いてくる。
 嫌だ、面倒だ。ごめんなさいねと言われ、あの子もいい子なのよと言われ、どちらの村の方と言われ、分かり切っている。
 この広場は、今の俺にはうるさすぎた。どうしようもなくなって、広場を駆け抜けて森に入った。