来た時とは反対の方向に広がる森。きらきらと輝く、美しく不気味な場所。こっちの方が蝶が多いようだ。 広場を向いておじさんの姿を探す。騒々しい輪の中に取り込まれてしまったかのようだ。 おじさんがこっちの方に来るまでここにいようか。森の方が落ち着く。蝶ばかりではあるが、人間ばかりの広場よりましだ。 こっちの道は、よりぬかるんでいて通りにくい。根も、つまずくと厄介なものが多そうだ。 一匹の蝶、ブライトフライとかいうあれが顔の前を通り過ぎた。光に惑わされて分からなかったが、結構ゆっくりとした動きだ。ぱっと羽を押さえる。 「うわぁ……」 ばたばたと無駄な羽ばたきを繰り返すたび鱗粉が散る。わずかな木漏れ日に当たって、きらきらと幾重にもはね返る。 しっとりとした湿気につかまって、鱗粉はふわりと舞い、落ちていく。地面に落ちても光が当たるたびに煌めく。……綺麗だった。 ふと見ると腕が煌めいている。鱗粉が積もったらしい。蝶を放した。腕の鱗粉に指を走らせてふっと吹くと、目の前に煌めきが広がる。 「綺麗でしょう」 不意に近くで声がした。辺りを見回す。 「珍しいものでも見るようなお顔ですよ。ブライトフライを見るのは初めてですか?」 声の主を見つけた。森の木立の中、旅芸師らしい男が座り込んでいる。 レミアの村では見ない服装だ。かぶっている帽子からは、長いこげ茶の髪が出ている。鱗粉避けなんだろうが、帽子の天辺がきらきら輝いていて、逆に滑稽だった。 「あんた旅芸師?」 「はい」 「どうしてこんな場所に? もう広場には人が集まってるぜ」 旅芸師は息を吹くように静かに笑った。この口調だ、気付き慌てて口を押さえる。またレミアに悪いことをした。 「どうも今日は人が集まり過ぎていて。旅芸師なんて流れ者のくせに、僕は人込みが嫌いなんですよ。困ったものですね」 「ううん、なんか分かるよ。こっちだって広場から逃げ出してきたんだし」 俺、とだけは自称しないように気をつけ、男の隣に座る。 「それにお嬢さん、あなたにお会いできたことの方が嬉しいですよ」 そう言われて笑い返す。 実際、全く嬉しくはなかったが、その言葉や笑顔には嫌らしさがなかった。この男に対しては良い印象を抱いた。 「あんた、名前は」 「ヒースといいます。お嬢さんは?」 「……レミア」 レミア。あのウィルとかいう男より、こいつの方がいいと思うぜ。単に俺の好みの問題かもしれないけど、でも断然お前に合ってるよ。 「あんた、何ができんの?」 「ブライトフライを使った芸です。ほら、集まっておいで」 ヒースが手を広げると、蝶がそこら中から集まってきた。一辺に森の明るさが変わる。 「すっげぇなぁ。どうやってんの?」 「まだまだ、ここからですよ」 指を広げると、奴らは鱗粉をまき散らしながら、その一本一本に群がるようにして止まった。 ヒースは立ち上がる。指を少しずつ閉じていく。両手が蝶に埋もれた。 ぱちんと指を鳴らす。途端、蝶はヒースの体に螺旋状に止まっていった。もう一度ぱちん。螺旋の上から逆向きの螺旋に止まる。 今度は、両手を軽く合わせる――ぱちん。蝶はぶわっと上に舞い上がった。きらきらと風が吹く。 「さあ、お客様の手に」 何かと思って手を差し出した。そこに蝶がとまり、上を飛び、鱗粉が落ちてくる。決して顔の周りを飛ばないのが印象的だった。 ぱちんと掌が鳴り、蝶はまた舞い上がってヒースの後ろへ集まった。二手に分かれて空中で飛び続ける。まるでヒースそのものがブライトフライになったようだった。 自然と俺の表情も緩む。旅芸師というのは、なんて人を楽しくさせる人達だろう。 俺の顔を見てヒースはにっこりと笑い、もう一度指を鳴らした。蝶がヒースの前へ移動する。一瞬、ヒースの顔に緊張が走ったのを見た。それを見てこちらもどきりとする。 蝶は、足元からヒースを覆い隠していく。足が包まれ……腰から、肩、頭まで、全て包まれてしまった。 「ヒース、大丈夫か」 ヒースは何も答えない。 「ヒース? ……おい!」 駆け寄ると蝶はパアッと散ってしまう。そこにヒースはいなかった。後にはちらちらと細かな光が落ちていくだけだった。 ケホ、と咳が聞こえる。後ろを向く。そこにいた、鱗粉だらけの帽子を被った男。ほっと心が軽くなると共に、感動が波のように押し寄せてきた。 「すっげぇ!」 手が痛くなるまで、惜しみなく拍手する。こんな芸を見たのは初めてだ。 「すみません。やっぱり虫相手だと、あまり長い芸はできなくて」 「ううん、そんなことねぇって。すっげー格好良かった!」 「ありがとうございます」 そのままケホケホと咳が続く。最初は軽い咳だったのが、肺から吐き出しているような苦しい音へと変わる。 「おい、どうした」 「すみません、大丈夫です。ただ鱗粉を真っ向から浴びるので……」 「薬かなんか持ってないのか?」 「いえ、大丈夫です。すぐに……」 ヒースはそんなことを言っているが、咳が止まる気配は無い。さっきちらりと見せた緊張はこれだったのか。怒鳴りたくなるのを堪えて広場を見た。 「ちょっと待ってろ、誰か呼んで――」 ふ、と意識が遠くなる。頭から、足から、俺が抜け出ていくような感覚だった。何か叫ぼうにも言葉にならない。 目の前が暗くなった。ヒースを助けてやってくれ、レミアに言付ける。 暗くなったまま、 ケホケホと苦しそうな咳の音が聞こえた。頬に当たる樹のザラつきが痛い。レミアが眼を開けて辺りを見渡す。 「え、え? ここ……」 森だ。広場のそばだ、おじさんに連れて来てもらったことくらいあるだろう、早く気付いてくれ。 「ど、どう……なさったん、ですか」 突然様子の変わったレミアに驚いた顔で、咳を間に挟みながら歩いてくるヒース。 「咳をしているのは、あなた? 大丈夫ですか」 「え……レミアさん?」 どうしてこの人は私の名前を。レミアの心が聞こえる。もしかして父さんやウィルが言ってたような? 私、本当に変になっちゃったっていうの? ケホケホとヒースの咳はひどくなる。それを聞いてレミアは何を考えるのも中断し、辺りを見た。木立の向こうに見慣れた広場を確認する。 「あの、とにかく歩けますか? きっとそこに父がいるんです。家に運んでもらいましょう」 「すみません。肩を貸して頂けますか」 「はい。本当、大丈夫ですか? どうしたんですか」 ヒースを置いておじさんを呼びに行けば一番早いんだ。二人の行動がもどかしかった。レミアは右肩にヒースを支え、よろよろと広場へ入っていく。 おじさんは見えないが、さすがレミアはおじさんの娘だった。 「父さんはいつも楽師のところにいるんです。今日はどこあたりにいるのか分かりますか?」 「楽師は……右の、方です。風船売りの、隣」 ゲホゲホという咳にも、誰も振り向かない。レミアが上を見る。風船が右の空に浮かんでいる。そのまま歩きだした。 こげ茶の眼がすうっと開いた。しばらく焦点も定まらず、周りの状況を確かめている。 「大丈夫ですか」 「レミアさん。ここは?」 「私の家です。よかった、目を覚ましてくれて」 ヒースは困惑の表情のまま体を起こした。そしてやっと、自分が客室のベッドに寝かせられていたことを知る。申し訳無さそうな顔で頭を下げた。 「それにしても、どうしてあんな場所で咳なんか……。あ、それに私の名前! どうしてあなたが知っているんですか」 レミアは非難するように言った後、少しだけ困った顔をした。 「もしかすると私が言ったんですか?」 「はい。……覚えていないんですか」 レミアは困った顔のまま窓辺に立った。暗い窓ガラスに映るのは赤毛の少女だ。しかしヒースはそれ以上言わなかった。 「そうか、じゃあ僕の芸も覚えておられないんですね」 「芸? え、えっと……」 ヒースの表情を見て慌てる。頭の中に、素敵でしたよとか面白かったですとか様々な褒め言葉が浮かんでは消えていく。 「いえ、そうでなく」 ヒースも慌てる。この二人は妙な所で性格が一致している。俺にしてみればもどかしいだけだが、レミアはこのくらいの方が丁度いいんじゃないか。 「では改めて。僕は旅芸師のヒースといいます。ブライトフライを使った芸をしているので、一度見て下さいね」 一度見てくれどころじゃない。あんなに苦しがってたくせして。怒鳴りつけたかった。人を喜ばせるために自分が苦しんでどうする。 「先程はブライトフライの鱗粉を吸い込んでしまったんです。ご迷惑をおかけしました」 「いえ、でもヒースさん、ブライトフライの芸は体に良くないんじゃないですか。さっきだってあんなに」 「ええ。マスクを無くしてしまったんですよ」 ヒースは笑った。レミアがきょとんとその笑顔を見ている。 「蝶師はマスクをするものなんです。それを森で無くしてしまって。広場に行かなかったのは、そういう理由もあったのですが」 つまり最初から危険だと知っていたわけだ。これは怒鳴りつけるだけじゃ足りない。 「あなたのようなお嬢さんなら、少しくらい苦しくなっても大丈夫だ、なんて思ってたんですが……。その結果、助けてもらったんじゃ格好もつきませんね」 やわらかい笑みが苦笑に変わる。 レミアが呆れたように笑う。やがてそれは本物の笑いへと変わる。彼女がヒースに、俺と違う種類の好意を感じたのが分かった。 戻 扉 進 |