「母さん、私、見ちゃったよ。決定的な証拠!」 少女が飛び込んだその家には、彼女の母だけでなく村長も来ていた。村長が立ち上がる。髭の生えた口元をもぐもぐと動かして声を出す、それは本当か。少女は深く頷いた。 「本当です。あの子砂浜で鬼と話してたんです」 少女は持ったものも置かずに話し出す。母親が目を見開いた。 「やっぱりそうだったんだね。あの子はずぅっと前から鬼に取り込まれてたんだ」 母親は恐ろしい記憶を呼び覚ますように、自分の肩を強く抱いた。 「あの子の親は同じ時、違う場所で息絶えた。きっと鬼の呪いだったわ、なのにあの子だけ平然としていた」 「当然ね、あの子も鬼だったんだから」 娘は険しい顔になった。村長を見る。 「それじゃあどうやって?」 「あんたは心配しなくていいんだよ」 母親は安心させるように娘の肩に手を置いた。村長の髭がのろのろと動く。 「後は儂と母さんに任せなさい」 娘は、それさえも任務であるかのように頷いた。その時扉から小さく音がした。誰かが叩いているのだ。 「おばさん、遅くなってごめんなさい。開けてちょうだい」 まだ幼い声。鬼と会話し、鬼と呼ばれている少女だった。 村長はもう一度母親を見て裏口から出て行った。母親は満面の笑顔を両手に、扉へ向かう。 ――お帰り。心配したじゃない。 ――お姉ちゃんは今日、友達の所に泊まるんだって。 小さな少女は、いつもより優しいその女の声を聞き、思っていた。あの鬼の言うとおり、自分は嫌われてはいなかったのだと。 嬉しさが、胸の奥を熱くしていた。 「何ぃ? 随分嬉しそうじゃない」 「そっかな」 僕のにやけ顔に、ユリも笑う。 「前に言ってた子、いただろ。人間の子。あの子が昨日、嬉しいこと言ってくれてね」 「だから酔ってるわけだ。もー、その子に妬いちゃうよ?」 「ううん、違う、そういうんじゃなくてさ」 慌てて訂正する。 「その子の考え方を変えられたっていうのが嬉しいんだ。それに、僕の好きなのはユリだからね?」 ユリは笑う。いつもと同じ、何よりも優しく何よりも柔らかい姉の笑顔。 「ありがと。で、今日もその子に会いに行くのかな?」 「うん。ごめんね」 言ったら、頭をぼんと叩かれた。 「なんで謝るのよ。しっかり遊んでらっしゃい」 頷く。走り出して一度振り返り、大きく手を振った。それからは真っ直ぐ海へと向かった。 しかし、そこにあの少女の姿は無かった。幸せな疑問が頭を通り過ぎる。今の家族とうまくいって、ここへ来る理由が無くなったのか。 海はいつものようにさざめき、風は冷たい。空は白く、うっすらと霧がかかっている。 「あれ?」 海に大きなものが捨てられているのに気が付いた。ゴミだろうか。珍しい、ここの人は海を大切にするのに。 目をこらすがよく分からない。食べ物ではない、服か動物かのように見える。 目をそちらに固定したまま近付く。少しずつ、胸の音が大きくなっていく。 それとも。 砂浜へ来ても泳ぐ訳じゃない。だからだろう、袖から下だけ少し日焼けした小さな体。 黒い髪。目は美しい茶色だったのを覚えている。けれど開かない、もう開かない。今にもぱちっと開きそうだ。 体のあちこちが不自然なほど傷んでいたけれど、それは、あの少女だった。 昨日の涙の跡も残っていない抜け殻。それは僕に涙を流させた。 呆然と名前を呼んだ。命の無いものに話しかけるのは初めてだった。これほど涙を流すのも、かつてないことだった。 冷たい海の中からぼろぼろの体を引きずり出した。服は水気を吸ってずっしりと重たく、扱いが少し乱暴になった。それでも少女からは言葉の一つも飛んでこなかった。 あまりにも不自然だった。この少女が海の中に浮かんでいることも、何の反応も示さないことも、それを必死で救おうとしている僕も。 どうしてこの少女は息をしていないんだ。僕が抱きしめた時の、あの体温はどこへ行ったんだ。 僕の服も、海を吸ってずぶ濡れになっていた。がたがたと震えながら、涙を流すことしかできない自分を恥じた。 潮風で真っ赤だった少女の頬は、今は恐ろしく白かった。 場は、重苦しい雰囲気に包まれていた。八人に囲まれ、少女の体はいっそう小さく見えた。いつもよりもきつい潮の匂いが家を埋める。 「それで連れて帰ってきた、ねぇ」 沈黙をやぶって言ったのは、僕とほとんど年の違わない仲間だ。 「だからって俺らには何もできねぇんだぞ。こいつらの間で何があったやら、俺らの知ったこっちゃねぇ」 違う仲間が彼の名前を呼び、言葉を制する。僕も頷いてうつむき、少女の体から目を逸らした。 「分かってるよ。ただ、あのまま海に捨てておくなんてできなかったんだ。ちゃんとした服に着替えさせて、焼いて、お墓も作ってあげたい」 「まあ、それは自由だけど」 一番年上の姉が小さな服を持ってきた。ずっと前に僕が着ていたものだ。彼女の手が少女の服を脱がせる。水が大分抜けたとはいえ、それはずっしりと重そうだった。 「ひどい傷ね」 彼女は顔をしかめた。服の下から出てきたのは、腕に見えた傷なんかよりもっと深くて酷いものだった。 「全身にあるんじゃない。痣も、出血してるのもある。もしかしたら骨の折れてるのもあるかも」 家族に暴行を受けたんだろうか。でもそんな証拠がない限り、何をすることもできない。それ以前に、僕らは証拠を集めに行くことすらできないのだ。 僕らの存在していい場所として区画された中には、僕らの家と海以外には何も無いのだから。 それを侵せば、明日から生きていけるかすら危うい。 彼女はそのまま、少女の体を裏返した。そして、え、と妙な声を出す。 「どうした」 その声に、みんなの注目が集まった。彼女はただ、少女の体を指差す。先にあったのはむき出しの背中、しかしそこにあるのは痣でも創傷でもなかった。 『封』 『鬼』 少女の背中の肉は、その文字にあわせてえぐり取られていた。 まるで何かの呪いのように。 「鬼を、封ずる」 呟く。ゆっくりと、みんなの視線が僕に移っていくのを感じていた。視線を上げられずに、ただ痛々しい背中の文字を眺めていた。 「僕が……?」 僕と話したから、僕の言ったことを聞いたから、考え方を共有し合ったから。少女の隣に僕がいたから? さっきとは違って涙さえ出なかった。 「悩み込むなよ」 無責任に言う声に、やっと顔を上げる。彼の長い赤色の髪がひどく汚いものに思えてしまって、ただ悔しかった。 「悩み込むなって、そんなのできるか」 少女はもう息をしない。冷たい体を横たわらせるだけ。体中をがたがたと大きな震えが襲う。 「そんなの……っ」 感情が高ぶって、扉へ向かって駆け出した。今はじっとしていられない、なんでもいいから自分の体を冷ましたかった。 でも僕の足は速くはなくて、外気に触れることもできず手首を掴まれた。長兄だ。 「放してくれ! 僕が、僕のせいで」 「どこに行く気か知らないが、ここを出たって解決には繋がらないぞ」 分かっているよ、分かっている……抵抗をやめて拳を握りしめた。彼の言葉は冷静すぎる。 「あいつの言ったのは、そういう意味じゃない。あの文字によって、あの人間の死は俺達にも関係のあるものになったんだ」 訳が分からず彼を見上げる。彼は更に高みを見上げていた。 「あれはあの子供と家族の確執じゃない、俺たちと人間の戦いだ。あの子供の殺しには多分、ここのほとんどの人間が関わっている。お前だけでどうにかできる問題じゃない」 それには僕も同意だった。村の総意によって、あの少女を殺す負い目を取り払ったのだ。そしてそれによって、背中のあの文字の意味が分かる。 「人間達を叩くぞ。今まで言われるがままだったのが災いしたみたいだからな」 柵を抜ける。 ――柵、僕らを世界から区切るための壁だ。 『封』『鬼』。横木に数年前から貼り付けられている紙は、風雨にさらされ陽に灼かれてもうぼろぼろだ。 人間達はこれで何を封じようとしたんだろう、こんなちっぽけな紙。僕らを? 違う。 僕らを迫害してもいいという了解。良心が残っているのなら、それに付ける枷なのだ、これは。 「…………」 でも良心なんて彼らには無かった。だって僕らだけでなく、人間のエリスでさえも彼らは。 足音を無くして歩いていく。月が明るかった。通りには誰ひとり歩いていない。 向かうのは村長の家。少女の家は、少女を殺したのは、あなたはそれを知っていたのか? あなた達のしたことの罪深さを、解ってほしい。 月は村を青白く染める。それは、ここの潮の香りには似合わない。 「これで、ますます対立しちゃうんだろうね」 呟くと、前を歩いていたユリが振り返った。 「仕方が無いわよ。もともと対立してたもの。あなたも、あの子のことを解ってほしいだけでしょ」 うん、とうなずく。彼女の声の持つ暖かな温度は、いつも僕を安心させる。 「あなたのせいじゃない」 優しい瞳に、僕は居場所を見つける。 「――し。静かに、あれが村長の家だ」 「よく覚えてるじゃない。ずぅっと前から立ち入り禁止だった、人間サマの御領主の家なんて」 姉の一人が家をにらむ。窓から淡く四角形の光が洩れている。小さく声も聞こえた。 「待ってな。覗いてくるよ」 小柄な仲間は腰を低くして窓の下に入り、そこから少しずつ視点を上げていく。彼女にはもう十分に何か見えているはずだった。 しかしその喉は言葉を発しなかった。 「何が見える?」 何も答えずに、ただ窓の向こうを眺めていた。 「おい……?」 兄が駆け寄ると、始めて彼女は気付いたようにこっちを見た。その目に涙が盛り上がり、すうっと落ちる。 胸騒ぎがした。窓へ駆けて中を覗き見る。彼女が見たものの意味は、最初はよく分からなかった。 しかしその内その本当の意味に気付き、体が冷えていく。 『赤い髪』 僕らはずっと無言で、心の中に一すじの涙が流れた。 『彼ら、みんな』 僕らが見たもの、それは人間たちが髪に水をつけ、黒く染めている姿だった。 あの少女のものと同じ、褪せることも焼けることもなく真っ黒い髪。しかし根元だけは僕らと全く同じ赤い髪だ。 「あの水、海のもんじゃねぇ」 ぽつりと仲間の一人が言った。 「山だ、山の水」 噴火によって黒みを帯びた水。それで髪が染まるのかなんて、試したこともないから分からない。しかし彼らはそれを使って人間を演じた。 東でも一緒だったんだ。人間は生き残らなかった。鬼しか。 でも、東の鬼達は人間になったんだ。だから、東の鬼達は人間になったんだ。 結局の所、鬼だからでも人間だからでもなかった。そこに心があったから。 『 僕はぎゅっと、ユリの手を握った。 』 『 離さない。離れないでね。これから、すごく、怖くて…哀しいことが、起こるけれど。 』 『 ね。一緒にいようね? 』 『 最後に、僕らは笑みを交わし合った。 』 『 その村にはもう鬼はいませんでした。死に絶え、ただ十人ばかりの人間が静かに暮らしていました。 』 ―――――――― 戻 扉 進 |