気が付いたらユリがいた。
 僕は父さんも母さんも知らず、でも彼女がいたから寂しくなんてなかった。
 ユリは僕より二つ年上で、赤みのかかった目がとても綺麗だ。くすんだ茶の目の僕は、それがちょっと羨ましかった。
 髪の色は僕ら八人全部一緒で、茶のかかった赤色だ。僕は綺麗な色だと思うけれど、彼らにとってはそうじゃないみたいだ。
 ニンゲンと自称している彼ら。彼らの髪は大抵が濃い色で、一人として僕らのような明るい色の髪を生やしていない。だから忌み嫌うんだ、角も生えていない僕ら、鬼を。
 だから僕らはここにいる。年中肌寒くて空も白にしか染まらない、さびれた港村。海沿いにちっちゃな家を建てて、そこに押し込められた。
 僕らはみんなが大好きだった。こんな扱いをする人間達だって嫌いにはなれなかった。そして、僕ら自身のことが大好きだった。
 よくユリが言っていた、あたし達の髪色の方が綺麗よ。僕らはそれを信じられた。だから誇りを持っていられた。
 関わりの無いはやり病の原因を押し付けられても、不漁の理由にされても、笑っていられた。





 事情が変わったのは、その時からだろう。
 人間がいないのを確認して、一人で久しぶりに海辺へ出ていた時だった。
 海の水の引いた跡を歩いていて、ふと顔を上げると小さな子供がいることに気付いた。
 見覚えのない子だった。そもそも僕より若い鬼はいないのだ。そしてその髪は黒く、彼女が人間であることを示していた。
 ひやりと心が冷える。周りを見回して自分を隠すものを探した。しかしそのうち妙なことに気付く。視界の端に僕が入っているはずなのに、子供はうずくまったまま動かないのだ。
 お母さんはいないんだろうか。或いは僕らと同じなのか。この漁村では、嵐で戻らない人がいる――彼らはそれを僕らの仕業だと言ったが――それで独りなのかもしれない。
 どうにも動けなくて、ずっとその子を見ていた。
 ふと、その子がこちらを向いた。大きな丸い目がこちらをじっと見つめる。
 幼い容姿と短い髪からは見分けにくいが、多分女の子だろう。騒ぎもしなければ逃げもしない。僕の赤茶の髪を、静かに見ている。
「どうしたの?」
 凍った喉から、なんとかそれだけを吐き出す。茶色の目が僕を上から下まで眺めまわした。
「お兄ちゃん、もしかして鬼って人?」
 鬼って人、とはちょっと矛盾している。しかし僕は鬼なのだ。怖がらないよう、怖がらせないよう、ただ頷いた。
「そう。別に何でもないもん。あっち行って」
「うん……」
 僕が鬼だから何も話してくれないんだろうか。それ以上何も言えずに、ただ横顔を見ていた。
 風が吹いて女の子の髪をかきあげる。黒い髪が散る。寒さで赤く染まった小さな頬を、細く涙が光った。
「お母さん、いないの?」
「話しかけないでよ」
 そう言って僕をにらみつける少女の口調には、まだたどたどしさが残っている。
「ごめん」
 女の子の横に座る。その子が嫌がることはなくて、僕は少し嬉しかった。
「名前は?」
 僕が自分の名前を名乗ると、促されたように少女も名乗った。
「可愛い名前だね。どうして泣いてたの?」
 少女は答えない。うつむいて、スカートに付いた砂を見ている。もう一度名前を呼ぶと、少女は顔を上げた。
「話しかけないでって言ったじゃない。あんたに関係ないでしょ」
 自分の口を押さえて少女を見る。……でも僕は話しかけちゃいけないんだ、弁解の仕様が無い。もう一度うつむいて、少女の顔は見えなくなった。黒い髪の色が目に痛かった。
「ごめんね、帰るね」
 立ち上がって砂を払う。できるだけ丁寧に、丁寧に。目は少女を見ていた。
 でも少女が僕を見上げてくれることは無く、そのままそこを立ち去った。遠くから見える黒い頭は、やっぱりうつむいたままだった。





「どうした、元気が無いじゃないか」
 家に帰れば赤い髪が飛び込んでくる。それを見て僕は少し安心する。話しかけてきたのは、髪を長く伸ばした兄貴分の仲間だった。
「うん……。え、あれ、そう?」
「何だ、ごまかそうっての。無理無理」
 笑う。海でね、……今日の出来事を喋り始める。そこへもう一人の仲間がやってきた。こちらは姉のような存在だった。
「人間にまた、何かされたんだってさ」
「そっかあ」
 彼女がこっちへ来て僕をぎゅっと抱き締めてくれた。暖かい手の感触が、冷え切った体に染み込む。
「安心しな。あたしらはあんな奴らに負けないよ」
 その腕が指に変わり、どんどん首を絞めていくあたり、彼女は笑えない悪戯者なのだ。慌ててその手から逃れる。
「でも、今日は僕が悪いと思うんだ」
 二人は意外そうな顔をした。
「ちっちゃい女の子が一人でさ、海にいたんだ。なんだか寂しそうだったから話しかけてたんだけど、嫌がられちゃった」
「それ東の海浜に座ってる奴だろ」
 長兄役の仲間が、いかにも疲れたという感じで僕の横に座った。
「そう。知ってるんだ?」
「よく見るからな。話しかける気にはならんが」
「あの子、名前を教えてくれたんだ。でもそれだけ」
 彼の鋭い目が僕を見た。何か悪いことをしてしまったのかと、どきりとする。
「人間とあんまり仲良くなろうとするな。結局はお前が傷つくんだ」
 どうしたらいいか分からなくなって、でも頷くしかなかった。最初に話しかけてきた仲間が髪をまとめている。
 人間達は一度、彼を見てみればいいんだ。気持ちが悪いなんて絶対に言えない、綺麗な髪なんだから。
 そうだ。人間は僕らをここに閉じ込めた。僕らの親を殺した。僕らの親の親のずっーと親を奴隷として使っていた。嫌な奴らなんだ。
 信じていた。そう信じた。信じようとした。
 でも次の日僕が東の海浜で彼女を探したのも、それから何日も話しかけ続けたのも、まぎれもない真実だった。





「こんにちは」
 少女が僕を向いてため息をついた。またあんたか、何の用なの。
「いつもここにいるんだ?」
「そうだよ、悪い?」
「違うよ、そんなことが言いたいんじゃない」
 その隣に座る。君は何歳なの、訊いてみる。
「九つ」
 ぶっきらぼうに言うと、その小さな手で髪を弄び始める。真っ黒の髪。それはもしかすると、僕への当てつけかもしれなかった。
「僕はね、十四。君より五つ上だね」
「だから?」
 見下ろす。エリスの真っ黒な目が、真っ直ぐに僕をにらんでいた。
「だから何なの。結局あんた、何が言いたいの」
 喉が詰まる。うまく答えられそうになかった。少女の顔は向こうを向き、僕に見えるのは黒い髪だけとなった。
「何も無いんなら帰ってよ」
 仲間の低い声が甦る。仲良くなろうとするな。目を閉じた。
 砂が散る。真っ黒な髪がうす白く汚れていく。僕の髪も少女のつむじも、風に流されている。
「じゃあ……帰るよ」
 立ち上がった。砂を払う。少し哀しくなる。砂が落ちて、少女の手に当たった。
「ごめんね、もう話しかけないから。……ばいばい」
 路へ歩き始めた、――――
 シャツが掴まれている。少女の小さな手に。思わず呼び慣れた名を呼ぶ。
 少女はうつむいたまま、ぶんぶんと首を横に振った。シャツのしわがきつくなる。砂がどんどん潜り込む。
「どうした…」
「行かないでよ」
 よく分からなくなって、ただ少女の髪に触れる。相変わらずの真っ黒。少女は顔を上げた。
「行かないでよ。ここにいてよ」
 涙がこぼれていた。初めて会ったときのようにぼろぼろと、頬の上に線を作る。
 どうしていいか分からなかった。ここに居てやらなくちゃ、それだけだった。
 少女の髪を撫でた。僕らの髪が少しずつ色あせていくのに対して、その髪はどこまでも真っ黒だ。人間の髪を綺麗だと思ったのは初めてだった。
「なんで帰んの? ここにいてよ……寂しい……独りはやだ、やなのぉっ」
 少女が僕をどんどんと叩く。嗚咽が聞こえる。
「分かったよ。ここにいていいんだね?」
 頷く。やっぱり顔は見えない。
 じゃあここにいるから、それだけ囁いて背中を撫ぜ続けた。


「やっぱり、お母さんいないんだ」
「お父さんもいない。あたしだけ一人、生きてんの」
「やっぱり海の事故で?」
 今度は横に首を振る。
「分かんない。なんか帰ってこなかったの。そしたら今の家に連れてかれた」
「今の家って?」
 少女は一度僕を見て、また視線を海に戻した。
「おばさんち。お姉さんとおじさんがいるの」
「じゃあ、独りじゃないじゃないか」
「独りだもん」
 膝に顔をうずめる。彼女の目には砂と、何が映ってるんだろう。
「みんな冷たいもん。あたしが話しかけたって答えてくんない。父さん達が生きてる頃は、もっと優しかったくせに」
 風で、少しだけ砂が踊る。海がざわざわと音を立てる。
「だから寂しい……ずっとここにいるの」
 再び上げられた顔には、もう涙の跡は残っていない。
 いい子なんだな、と素直に思った。最初にとっていた怒ったような態度も、少し理解することができたのだ。
「でもね、考えてみて」
 言い聞かせるように頭を撫でる。
「おじさんは漁で生活をつないでいるんだろ。決して楽な暮らしじゃないと思うんだ。もちろん君に責任は無いよ、でもちょっとだけ考えてあげて」
 少女が、寂しげな表情で僕を見た。
「それで合ってるのかなぁ」
 その言わんとすることが掴めなかった。首をかしげる。視界の中身が傾く。
「みんなが冷たいのって、あたしが嫌いだからじゃないの」
「違うよ」
 その小さな体を抱き締めた。仲間が僕にしてくれるように。
「どこの世界に、血の繋がってる者を嫌う人間がいるのさ」
 血の繋がっていない僕にだって、みんなは優しくしてくれたっていうのに。
 人は鬼を冷酷って言うのに。その冷酷な僕らでさえ、こうやって温度を持っているのに。
「僕らだってそうさ。血なんて繋がってないし、すっごく遠い関係じゃないか。でも僕は君の力になりたいと思うし、君も僕の話を聞いている」
 少女は僕の顔をじっと見つめた。まばたき一つせずに、縋るような目だった。そして立ち上がる。
「あたしね、お母さんに、鬼はすっごく怖い生き物だって聞いてたの」
 幼い手が僕の髪に触れる。彼らが気持ち悪いと形容する、この色。
「ごめん、聞いてね。そんで、あたしもそれを信じてたんだ。でも最初にあんた、えっと」
 もう一度自分の名を名乗る。彼女は初めて僕の名前を呼んだ。
「……を見た時ね、ほんのちょっと、あれって思っただけだったの。何が変なのか分かんなくて、少ししてから、髪の色が違うんだって気付いた」
 手が髪を払う。
「砂だらけだよ」
 笑いに似た、少女の声。
「初めてだな、この髪を見て綺麗って思ったの。ねぇ、あたし達って結局さ」
 その瞬間、全てのものが止まって聞こえた。

『髪の色が違うだけなんだよね』


 信じてみるよ。少女はそう言って砂浜を去っていった。辺りはすっかり暗くなっていた。