長い――長い夢を見ていた。 起き上がるとズキンと頭が痛んだ。いつもの頭痛とは違い、多くのものを瞼の裏の世界で見聞きしすぎたせいだった。そしていつもの夢とも違うことに、そこで体験した全ては俺の記憶にきっちりと刻まれているのだ。時間が経って急激に薄れることもなく、顔は覚えていても名前が分からないということもない。 今までは彼を通して見ているだけだったが、今なら彼の想いの全てが分かる。彼が最後まで気がかりに思っていたことも心の奥から浮き上がってきて、言葉を交わしたこともない彼に今まで以上の親しみが湧いた。 「大丈夫」 聞こえないと分かってはいたが、胸に手を当てて呼びかけてみる。 「お前のことだって憎んじゃいない。ただ、今まで信仰していたものを失うのが怖かっただけだ」 ベッドから立ち上がって廊下へ出、一階へとつながる階段を下りていく。下から数段目になると、突然空気が暖まっていて全身に鳥肌が立った。 「じゃなきゃ、どうして奴が王の部屋から出てきたとき、あんなに青ざめた顔をしてたんだ。結果はどうあれ、お前のことを騙したくはなかったんだ。いくら離れて暮らした期間が長くたって、奴にとってお前は確かに兄だったんだよ」 胸にやった手を下ろし、居間へと入る。暖炉の傍にはルナの背中があって、薪の具合を確かめているようだった。椅子を引いて座ると、こちらを振り向いて首をかしげ、目尻を下げて笑いをのぞかせた。 「おはよう」 「おはよう」 こちらも、照れくささで目を見られずにではあるが、ぎこちなく笑った。席を立って、台所に置いてあった皿をルナの分も一緒に取り、机へ持っていく。彼女が席に着くのを待ってカップにミルクを注ぐと、目をつむって短く神への言葉を唱えた。 と言っても俺の舌の上には、神殿で讃えられていた神への感謝も、古臭く難しい教典の言葉もない。俺にとっての神というのは、俺が産まれた時に共に誕生し、成長するにしたがって形を留めていく、いわば祈りのようなものだった。誰かの作った神も、そうあるべきと唱える書物も要らず、ただ誰にともなく感謝を告げる。 今日のこの日を有難う。 目を開けて窓の向こうを見ると、びっしり付着した滴に隠れてはいるものの、珍しく陽が顔を出していた。 「緑の季節、いつもより早く来るらしいわよ。最近はあんなに濃かった霧も薄れてきたしね」 彼女はそう言ってカップに手を伸ばし、中のものを飲む。のどがごくりと鳴って碧色が睫毛の中に隠れた。暖炉の薪に火が移って赤く爆ぜるのを見つめ、形を成さずに消えていく炎を瞼の中に留める。暖かな時間だった。俺も右の手をカップへ伸ばす。 ルナが父さんを愛していたのは変えようのない事実だ。父としてではなく、もちろん夫としてでもなかったが、彼が亡くなって三年目になる今でも彼女の想いは消えずに残っている。尊敬や感謝といった形の愛情は、相手との関係によって形作られるものではなく、相手が消えたからといって止まるものではないのだ。 それでも、俺は彼女に傍にいてほしい。父さんを愛した彼女と共に居たかった。 空になった皿とカップを持って台所へ行き、今日の分の水を少し使って汚れを落とす。足りなくなるかもしれないが、氷の季節が早く終わるのなら井戸もそのうち使えるようになるだろう。ふと、向かい側の壁にある窓に目をやった。全体を薄白く覆っている水滴を掌で拭いて、その向こうにあった久方ぶりの光に目を細める。 夢の中の世界はあくまで夢の中のものなのだろうか。いや、そんなはずはない。彼の見た人間界は俺の知っているそのままだったし、彼の生まれ育った場所は俺には想像もつかない環境だった。名はなんと言っただろうか、存在ごとどこかへ消えてしまった学園都市の少女なら、そういった本を山ほど読んで自由自在に思い描けるのかもしれないが。 西の果ての湖の向こう、森と山を越えていった先には精霊界と呼ばれる世界があるのだろうか。反対側の境界なら、あの細長い妙な館が? ふと神殿にいた老女を思い出した。セレーネは彼女の元へちゃんと帰れたのだろうか。もしまだ神殿に通っているようなら、いつか訪ねていって何か訊いてみようか。夢の中の人々と逢うなんて、これ以上の面白い話はないじゃないか。 そこまで考えて思い直した。彼らが俺と同じ時間に生きていた証拠は何も無いのだ。もしかすると昨日行われていたことかもしれないし、何十年、何百年も前のことかもしれない。その頃に王都や神殿があれば、そして同じように誘拐事件が起きていればの話だが。 そう考えると、今も精霊界が残っているのかというのも疑問に思えてくるのだった。手で拭いた部分の窓硝子は、またうすく曇り始めている。 それでも彼が、王を初めとする精霊界の動きを止められたことだけは事実だ。人間界は侵攻などされていないし、精霊だという彼らを見たこともない。今、空にはおぼろげながら陽が浮かんでいるのだ。これが夢現の交錯した虚のみの世界だと誰が言えるだろう。現実の手触りはこんなに確かにこの手の中にあるのに。 「チェイン、洗い終わったんならちょっと退いてちょうだい」 ルナに押しのけられて、薄曇りの硝子から除いていた太陽はどこかへ姿を消してしまった。そこを離れて椅子に戻ると、後ろからガチャガチャと皿を洗い片付ける音が聞こえる。手に触れているのは机の木目のざらざらした感触、見えているのは暖かく揺れる火に赤く熱された薪、聞こえるのはその弾ける音と食器の音、乾燥した木の匂いは鼻の周りをうろついているし、さっき食べたものの味だってまだ舌に残っている。 境界なんて行かなくていい、精霊界なんて探さずにいよう。俺にはここにある現実だけで手一杯だ。それを大切にする以上の贅沢など無かった。 「あらどうしたの、なんだか嬉しそうな顔して」 片づけを済ませて戻ってきたルナの問いかけに、首を振って答える。彼女は俺の向かい側に座り、暖炉を眺めて、また取り留めのないことを話す。俺はそれに答え、ルナが笑う。次に話題を出すのは俺で、ルナはそれを聞いて意見を出す。 時にむくれ、時に喧嘩し、時に笑いあって、氷の季節は過ぎていく。手のかじかむ時も霧の濃い朝も、珍しいほど暖かい日も飲み込んで、時はゆっくりと流れていく。 もう緑の季節が近かった。外に出られるくらいまで暖かくなったら、ルナを連れて父さんと母さんの墓参りに行こう。誰の名を刻むだとか、そういうことはどうでもいい。彼女を本当の新しい家族として、アトリー家を守ってきた人々へ紹介したいのだ。西の最果ての村へ、母さんの縁の人に挨拶をしに行ってもいい。 ルナが編んでくれた茶色の襟巻は、擦り切れるにはまだまだ時間が要りそうだ。 その世界は中心に巨大な湖を湛え、その周りに八つの村や街を従えている。湖の南西に流れ込む一つの川を上流へとのぼっていくと、やがて川は二つに分かれ、うち東の一つの傍には小さな村が見える。湖の周りの一つとして数えられてはいるが、岸からも他の街からも遠く、いつしかそこは他の村に居られなくなった者たちの集まる場所となっていた。 村とは言っても立ち並ぶ家々に統一感はなく、思い思いの装飾に思い思いの暮らし方を貫く。ここはそれが許される場所であり、それを好む者たちのための場所であった。昼でも窓の向こうは暗く、時々誰かの人影が見えたと思えば、後ろから侵入者を観察する目がぎらりと光る。 氷の溶けた地面には所々に緑が芽吹き、凹みでしかなかった川の跡にもちろちろと水が流れていた。しかし地面はぬかるんだままで、泥にまみれた雪を家の前から除こうとする姿も見えない。無造作に生えた住居の奥の奥にもそんな家が一つ建っており、全身を黒で覆った老婆がひっそりと暮らしていた。 裏口に蔓がその手を伸ばし始める頃、彼女は気付く。前の年よりも山々の頂にかかる霧が濃くなっており、それが自ら発生したものではなく、どこかから流れてきたものだということ。更には、それが不吉の前兆だということにも。 彼女は北東を眺めて息をつく。そこからは湖さえ見えはしないが。 「あちらから禍がやってくる……」 誰もいない家へ戻り、聞く者もいない先見をひとりぶつぶつと呟きながら、裏口近くの壁際の戸棚の上に置かれた燭台を机へ運んで、撚糸に火を点ける。たったそれだけの動作にも体が軋むものだから、不機嫌さに鼻を鳴らしては、しわがれた手で拳を固めて自分の肩を叩く。 いや、禍とはこれからやって来るものなのだろうか。今この世界が禍で埋め尽くされていないなど、誰に言えるという。 不自然に濃いこの霧だってそうだ。境界を薄め、視界を滲ませ、果てには何も見えなくしてしまう。現実というものがいくつも存在し、それが奇妙に交じり合ったところで、視界が晴れねばその間違いにも気付き得ないではないか。 「……実りの季節だね。氷の季節に近付いた頃だ」 ゆらゆら揺れる火を瞬き一つせずに眺め、吐き出すように独り言ちた。どういった巡りあわせでこんな辺境へ姿を現すのかは知らないが、その両肩には黒々と煙のように一際濃い靄がかかっていた。瞼の裏に映っただけの頼りない像だというのに、そこだけやけに鮮明だ。自分の瞼にさえ漆黒の闇が腕を伸ばしてくるような気がする。 逃げるように目を開け、肩で大きく息をついた。その勢いで蝋燭の火が一つ消える。 次の緑の季節は、どれだけ集中しても見ることができなかった。その頃には自分が土に還っているのか、もしくはこの大地そのものが無へと帰すのか。はっきり見ることができるのは氷の季節までで、少なくとも自分とこの地のどちらかは、その頃息絶えるのだ。 あと一年足らずだと、感慨もなく思う。 残った火も吹き消して、肩を痛めないよう気を付けながら天を仰いだ。しかしそこには腐りかけた柱が闇に沈んでいるだけで、狭い視界の端から最後の煙が割り込んでくるのも場違いに思えた。撚糸からあがったそれも、白さと匂いを散らしながら儚く消え、やがて視界に映るのは自分の瞼の裏だけとなった。 花が散った後の木々が新しい葉で賑わうころ。その晩は久々に夢を見た。それまでの夜があまりに穏やかだったものだから、夢を見、そしてそれを覚えるという感覚さえ忘れてしまいそうだった。 どうして今更そんな夢を見たのか分からない。一年前のちょうど今頃見たはずの夢だった。俺は植物群の中で昼寝していて、懐かしい彼女に水をかけられ起こされる。彼女に言われて城へ向かう途中では数年ぶりに彼と会い、まだ騙されることもないまま、同じ人と会うために飛んでいくのだ。 何もかもが懐かしい。夢を見ながら、自分が涙を流しているのではないかとさえ思った。念のため目を拭いたかったが、そこはやはり融通のきくものではなく、俺の体は横になったままで朝になるまで目覚めないのだった。 彼の自室の扉は開き、光を漂う彼の元へと足を進める――そのときはまだ、彼が自分たちの両親を殺したのだとも、やがて彼を殺しにここへ戻ってくるのだとも知らない。 夢の中を漂いながら、また漠然とした不安に包まれる。なぜ今更こんなものを見るのだ。無理やりに自分を起こそうとするものの、鎖でがんじがらめにされたように固まって動かない。 違う、と一瞬感じた。これは記憶ではない、現実だ。今更ではなく今、極めて近い未来か将来。どうして一年前にも見たはずのものに対してそう感じるのかも分からないまま、その感覚はすぐに消えて、言葉にするのも能わぬまま永遠に失われた。 力なく閉じた瞼の裏では始まりが始まる。 彼が唇を開け、あの特有の笑みとともに声を出す。一年前に聞いたのと同じ使命を、喉の奥から吐き出す―― 「シュアと共に地上を周れ。原因はどこかしらにあるはずだ」 二三の質問をした後、俺は扉へ向かって歩き出す。窓の向こうの仄白い城壁を見ながら来た回廊を戻り、階段の脇を抜けて、大広間の壁にもたれている彼のもとへと歩いていく。彼は既にいつもの調子を取り戻して悪態をつき、それでも協力して任務を遂行しようと誓うのだ。 地上をめぐり、歪みと呼ばれるものを見付けて使命を果たすため。夢と現実の交錯を止め、地上の滅びを食い止めるため。 足は止まらない。大臣にも兵卒にもできない、王直々に任ぜられた命を自信とともに胸に抱いて、弟のような彼と談笑しながら歩いていく。無茶な命だと時に絶望し、時には緊張しながら前進する。 足は止まらない。ひたすらに歩いていく。 霧が立ち込めて色は滲み出す、一年後に待つ虚無の世界へ、その後突如として訪れる崩壊へと。果ても知れぬ命を果たすため、地上をめぐるために。 力なく閉じた瞼の裏では今、終わりが始まる。 戻 扉 アトガタリ |