扉の向こうも窓から見える森も空の彼方も、自分の息すらすぐに凍って真っ白へと色を失う。気付かないうちに窓の向こうで始まっていた氷の季節は、瞬く間に大地をその中へ引きずり込んでいった。布団は一枚増えたし、火を燃す時間はぐっと長くなった。朝は早く起きないと、窓にびっしりと張り付いた滴が流れ、染みて板をぼろぼろにしてしまう。
 家の外へ出ることはほとんど無くなり、偶にあったとしても長くもたない野菜を買いに行くくらいのものだった。王都以外に、こういったものを腐らせずに保管する施設があるとは思えない。空気さえ凍るこの時期にも、王都と辺境を行き来する者がいてのことだろう。誰だか知らないが御苦労なことだ。
 室内にいる時間は長くなったが、しんと静まり返って、家ごと墓穴に放り込まれたかのような不気味な冷たさに満ちていた。うちだけではなく、この村の全ての家がこうだ。王都や学園都市のことは知らないが、やはりこんな風に死の気が充満しているのだろうか。
 四六時中家にいてさえ、ルナと顔を合わせる時間は前のままだった。彼女は気が付けば自分の部屋にこもっている。居間の方が暖かいと呼んでも出てこず、何をしているのかと扉を細く開けて覗いても、椅子の背もたれと机に向かった背中が揺れているのが見えるだけだった。話すことが少なくなっただけに諍いは全く無くなり、初めて感じるような穏やかすぎる時間に心はまだ馴染まなかった。
 布団をかぶり、窓から冷たい滴が垂れているのに気付いたら、ようやっと起き上がってそれを拭き取る。階下の全ての窓もそうやって透明に戻し、終われば家にある食物の残りを確かめて、足りなくなれば隣の家へ走る。共にするのはぼろぼろの襟巻のみで、水やら羊の乳やらを貰って家へ帰るころには体の芯まで冷え切っている。いつの間にか氷の欠片の染み込んだ襟巻を外して居間へ入ると、あまりの暖かさに身がぶるりと震えた。
 隣を訪ねるのは昼でなくてはならない。氷の季節になって闇が一日の半分を占めるようになると、火や食物を節約するために人々は多く眠る。それでなくても昼以外に外を出歩くのは、普通の服装では不可能に近かった。
 暖炉に手をかざして、氷と化した指を溶かしていく。真っ赤になった指先が動くようになると、机に投げた襟巻を取ってばさばさと水気をはらった。自分の頬も冷えているのに気が付いて、火の真向かいに胡坐をかく。一気に息を吸うと、暖かく乾いた空気に喉の奥までからからにされて咳が出た。
 その音に呼ばれたかのように、玄関へ続く廊下の片側に付けられた扉が開いてルナが出てくる。俺が咳き込んでいるのを見ると、何も言わずに水をコップに注いですっと差し出した。こちらも咳の声以外は黙って受け取ると、唇から喉までを軽く湿らせる。
 彼女は自分の部屋へは戻らずに、そのまま椅子に座って頬杖をついた。何も無い壁を見つめてぼうっと視線を泳がせている。頬もそれに添えられた指も見分けが付かないほどに紅く染まっていたが、触れることなどできなかった。どうせ火の焚かれたこの部屋にいれば、放っておいてもじきに温まるのだから。
「私の名はルナっていうの」
 ぱちぱちと薪の燃える中に、かすかな声は混ざって消えた。彼女が初めて俺にかけた言葉と同じ声、同じ響きだ。
「知ってる。三年前に聞いた」
「ルナだけよ。その頃から姓なんて持っていなかったし、今だってアトリー家の者じゃないわ」
 彼女の放つ言葉の意味が分からなかった。椅子を引き、彼女の斜向かいに座って同じように顎を掌で支える。
「ずっと東から来たの。大きな湖があるわね、あの南東に流れ込む川の合流地点の……なんて言っても分かりにくいかしら、ごめんね」
 眉を寄せた俺の表情を見て、気が付いたようにルナは語尾を濁した。俺の後ろにある壁を眺め、また俺に碧く視線を戻す。
「とっても小さな寂れた村なんだけれど、孤児院があるのよ。お店もお役所も宿も無くて、いるのは二十を迎える前の子供とその世話をしてくださる修道女、たまに孤児を引き取りにくる人を見かけるくらい。……もう分かるわね、私はそこで育ったの」
 何も言わず、どんな驚きも体の内側に閉じ込めた。ルナは淡々と続けていく。
「三年前に私は二十歳を迎えて、それより前から院で働いてはいたけれど、ついにそこを出て行かなくてはならなくなったの。あなたのお父様が宿を求めていらっしゃったのは、ほんの偶然だった」
「そこから後はいいよ、俺も知ってる。二人は年齢の差も飛び越えて親しくなり、だろ」
 彼女の生まれがどうで育ちがどうかなんて、もうどうでも良かった。幼い好奇心は満たされ、茶化すようにして自分の嫉妬を誤魔化した。それから二人が一つの家で仲良く暮らしたことは、「三人目」である俺が一番よく知っている。
「そうね。結婚はしなかったけれど」
 薪が爆ぜて鋭い音を立てている。俺は頬杖をつくのをやめ、椅子ごと斜めを向いて彼女と向き合う。
「ずっと前に妻に先立たれ、息子はそれ以来不安定になった。しかし自分には仕事がある、村を離れねばならないこともある。どうか家に来てくれないか――これが私に言われた言葉。もちろん二つ返事で承諾したわ。私には行く場所なんてどこにも無かったんだもの。院で料理や掃除、子供達の世話には慣れていたから、住み込み召使いなんて願ってもいない仕事だった。お給金なんかより、暮らせる場所があれば良かったの」
 何だそれは、聞いたこともない。父さんとルナは結婚していたはずだし、初めて出会ったときからルナは俺の母親だった。その時になってやっと、潜んで聞いた父さんとルナの奇妙な会話を思い出した。「忠義を尽くしてお仕えすることを誓います」。式を挙げた後の、しかもルナのような女にはひどく不似合いなあの言葉。
「でもあの人はそうではなかった。良い姉代わりになってくれと仰り、家族の一員として扱ってくださった」
 碧い目が俺を見つめて細くなった。
「突然姉が現れたら動揺するんじゃないかって言ったわ。孤児であったことを知ったら何か思うんじゃないかって。そうしたら、じゃあ母のふりでもしておくかいって。それだと素性は知られないし名案だと思ったけれど、おかしいわ、そっちの方が抵抗されるに決まっているのにね」
 今までに見たことのない優しい顔だ。それも、父さんや俺に見せていた類のものではなく、過去を懐かしむような哀しさを含んでいた。火に照らされすぎた右側の頬だけがやけに熱い。ルナも左の頬だけが赤々と血の色に輝いていた。
「それも、今だから分かることなのかもね。あなたと暮らしたこの三年間があったからこそ」
「母代わりだとしても姉代わりだとしても、アトリー家の者ではあるはずだ。それなのに姓が無いっていうのは?」
 話を終わらせてはいけないと、必死で続きを促した。そうでもしなければ、過去を語り終えた彼女の口は永遠に閉ざされてしまうような気がした。立ち上がろうとしたのか背筋をぴんと伸ばしていた彼女は、またこちらに顔を向けて椅子に座りなおした。
「そこまで図々しくはなれないわ。もしあの人が生きていたら、こんなことを言って怒られるかもしれないけれど、私はやっぱり部外者でしかない。姓を頂くことはできなかった。籍のことは任されていたから、あくまでこの家に暮らすのはあなたとあなたのお父様だけのまま、あの人には……嘘を吐いたの」
 彼女の表情は、今までのたった三年間に数え切れないほど見たうちの、どれよりも美しかった。満面の笑みでもなければ涙を流しているわけでもない、穏やかに唇を結んで瞬きを繰り返すだけのそれは、彼女の一番底にあり、俺が一番欲したものだったように思われた。こちらも三年をかけてようやく気付いたのだ。
「だから私には、ここで暮らすことはできない。聞いてくれて有難う」
 彼女は椅子を引いて静かに立ち上がる。紅く染まった左の頬に手の甲で触れ、こちらへは右手を差し出した。いつもと同じ、ささくれ水に荒れて傷だらけの手だった。決して誰とも見紛うことはないルナの手だった。
「あなたと暮らした三年間は何よりの財産よ、チェイン……チェイン・アトリー」
 掌と掌が触れて、一度強く指を絡めたと思ったら、もうそこにルナの腕は無かった。軽やかな笑みを残して、彼女はいつもそうするように自分の部屋へ帰っていった。窓の外は既に暮れて夜が近い。暖炉の火をぎりぎりまで弱めると、寒さの抜けない自分の部屋へと階段を上った。



 冷えた布団に潜り込んで温まるのを待った。体が意図せずに震えだし、息を手に吹きかけては湿り気をふき取るを繰り返す。氷の季節には、どれだけ待っても目が暗闇にほとんど慣れない。緑や実りの季節にはあるかすかな光さえも見当たらなくなるのだ。
 少しずつ温まってくる毛布の内側に安堵し、ようやく震えもおさまったころ、ルナの言葉が空気をはらんだように底の底からゆっくりと浮き上がってきた。
 彼女は俺の姉、つまり養子としてアトリー家へやってきた。母さんに縁のある人がそれをしばらく住まわせたとしても無理はない。しかし結局彼女が籍を入れることはなかった。だから俺が出て行くと言ってここに住まわせようとしても断固拒否した。いくら家族という形をとって三年間共に暮らしたとしても、彼女は常にこの家の者ではなかった。
 いや、ルナの籍のことは彼女しか知らなかったのだから、事実がどうであれルナという人間はアトリー家の者だった。この家から遠く離れてたたずんでいたのは彼女の心そのものだ。それを今俺は追い出そうとしている。どこまで彼女を追い詰め、居場所を無くす気だ。この三年間自分がしてきた行為に憎しみと怒りが湧いた。父さんやルナに向いていた牙の醜さを知って、今すぐどこかに隠れてしまいたかった。
 彼女はもう眠っているだろうか。今からでも遅くはないから、出て行けと言ったこと、三年間積み重ねてきた仕打ちへの懺悔をしよう。そう思い立って布団から下り、ぺたぺたと冷たい床を歩いて階段を下りる。足元から冷えが這い登ってきて、身がどんどん縮むように感じられた。
 階段を下りたところで、ふ、と冷たい風が吹いた。慌てて玄関に目を凝らすが何も見えない。嫌な感じを覚えながら居間へ入ると、朝までもつかもたないかの量の薪しかくべなかったのに、今は新しい薪がぱちぱちと燃え始めては火の粉を上げていた。橙に揺らめく光の中で、机に何か置いてあるのを見付けて手に取る。
「『火を絶やさないよう、多めに薪をくべるようになさい』……」
 その脇に置かれた物を手に取ると、折り畳まれたそれはふわりとした感触と弾力を指に返し、一枚の長い毛糸の塊となった。感触だけでは分かりづらく、暖炉へ近づけてみると、それが茶色の襟巻であると分かる。編まれたのだ、誰に、ルナに決まっている――
 ずっと前に見た彼女の笑顔が蘇った。俺の首に、まだ編み始めて間もない不恰好なこれをかけて言った、「編みあがる頃には寒くなるでしょう」。そして心は留まることが出来なかったのに、出て行けと言われてからもそれを渋った、「氷の季節になってからでいいかしら」。最近はずっと自室に篭りきりだった、何故。
「これを編んでたから……!」
 そして今これは出来上がってここに置かれていた。夕暮れには、言い出せなかった過去と、父さんにも言わなかった秘密を俺に話した。何故。
 玄関を睨むが闇に沈んで何も見えない。下りてきた時に感じた冷たい風はもうどこにも無く、彼女はそこを通って出て行った後だった。彼女は俺を見捨てなかった。「彼女に行く当てがあるのなら」「空っぽの俺なんかと一緒に暮らすより」、そう自分に納得させてばかりいたが、俺は一体どうなんだ。
 そんなことは明らかだった。三年前から彼女への想いはつのるばかりで、どう殺そうにもその息は絶えそうにないのだ。襟巻を首に巻きつけ、近くにかけていたコートを羽織って玄関へ走った。扉に触れた足元で何か金属音がしたと思えば鍵で、彼女が扉の向こうから放り込んだのだと悟る。
 手探りで鍵を開け、夜の凍てつく空気の中へ駆け込んだ。顔も手も、コートに包まれた部分でさえ引き裂かれるようにきりきりと痛んだが、ここで足を止めることは出来なかった。十八年暮らした足は慣れだけで、闇の中の最短距離を村の入り口へ向かって走っていく。今や村全体が濃い霧に覆われ、闇が晴れたとしても目で世界を確かめることは不可能だった。
 時々家の壁にぶつかり、氷の張った大地に足を滑らせながら懸命に前へと進んでいく。ルナがこの村を出れば、もうその行く先は掴めなくなるのだ。
 やがてユクスの家が見えた。ずっと突き進めば、頭に動かない風見鶏を生やした役場があり、もっと進めば村は終わってしまう。垣根を飛び越そうと駆け上がった。次の瞬間、霧の渦巻く闇は動きを変え、地面に膝をしたたかに打ち付ける。どうやら記憶の中の垣根とは位置がずれていたようだ。
 中心まで染み込んだ冷えと怪我で、体の動きは鈍く変わっていた。だから、その声が聞こえたのは奇跡にも近かっただろう。
「痛っ」
 何かが地面にぶつかる音と、聞きなれたかすかな声だった。俺まで転ばないようにと足元に気を配りながらそちらへ駆け寄り、触れた柵を頼りに霧の中を進む。そのまま歩くと、氷のようにひやりとした何かに触れた。しかし決して見紛うことはない。
 霧の中にうずくまった彼女が脅えたようにこちらを見上げ、俺だと気付いて目を丸くした。言い溜めてきたこと全てを吐き出してしまいたかったが、それはまだ、きっと彼女を困らせるだけだ。先程別れの握手をした右手を差し出し、彼女の手が戸惑いをやめてこちらへ留まるのを待つ。
「帰ろう」
 吐いた息は白かったが、霧の中では目立つこともなかった。
「薪をくべて部屋を暖めよう。それから怪我の手当てをして、それから話したいことが……」
 ルナの手が触れたのは、俺の首に巻かれた襟巻だった。躊躇いがちに触れて腕を戻すと、困ったような嬉しいような、複雑な色をにじませて目を細め口角を上げる。
「何よ、使わないなんて言って……さんざん苛めたくせに」
 差し出したままの右手にしがみつき、柵に掴まって身を立て直す。どちらの手も冷え切っていて温めあうどころではなかったが、それは暖炉の前で交わしたよりもずっと温かく、新しい始まりを意味していた。