そこは湿っていたが、森の中とは違い明るさも暖かさも無かった。朝の陽光ではなく、かすかにゆらめく橙の灯りがちらちらと届くだけだ。
 重たい体をどうにか起こし、顔についた藁を払い落とした。すぐ右には壁があり、その他の面を囲んでいるのも、全て檻の形をした壁だった。俺と通路を挟んで向かい側にも、隣にも、檻があってセレーネ同様に女が入っていたが、俺のことなどお構いなしにぼんやりと宙を眺めるだけだった。
 どのくらい時間が経っているのかつかめなかったが、ここは檻と女のいるあの部屋だった。セレーネとは対角に位置するらしく、「GM」と彫られた扉が檻のすぐ向こうに見えた。背中がずきずきと痛むのは、背後に立っていた誰かに殴られたからだ。
 檻を観察すると、さすがにこれには閂が掛けられていて、外からしか開かないようになっていた。火や風を使おうにも場所が足りず、下手すれば自分の胴体まで切ってしまいそうだ。
 きしんだ音がして右の扉が開き、光が差し込む。現れた奴は扉を閉めると、こちらへ歩いて俺のすぐ前に立ち、手に持った灯りで俺の顔を照らし出した。鼻で笑って軽く声をかけてやる。
「よう」
 その男は、俺を見下ろしたまま何も言わない。
「三日だって言われてたろ。気付くのが一日早いんじゃないのか」
 シュアは何も言わない。数日前まで俺に見せていた笑い顔も、ライアに見せただろう怒りの顔も、さっき夢の中で見てきたぐしゃぐしゃの泣き顔も、どこにも無い。檻の上に灯りを置いて俺の前に座ると、わずかに笑顔を見せて胡坐をかいた。
「お前だってそうだ。何も気付かなけりゃ良かった」
「何もって何だ。斎占の館であんなおぞましい研究が行われてるってことか。それともライアを殺したことか。……ここにいる女の誘拐犯がお前だったってことか」
 表情は変わらず、口元にはかすかな笑いさえもたたえていた。それは夢の中で見た王の顔を思い出させた。
「そのどれも、それ以外のことも、お前は何も気付かずに王の命に従ってさえすればよかった。お前に与えられた命っていうのは、精霊界から離れて人間界にいること、それだけなんだから」
「……どういうことだ」
「王の御意思にそむく者は必要ない。それが大きな力を持つものであればあるほど。ヴェインも、お前にヴェインの思想を植え付け続けたあの娘も」
 思いがけず大臣の名が出てきて目を見開いた。柵をつかみ、額をすり寄せてその間からシュアを睨む。
「じゃあ国家反逆がどうのというのは全てでっち上げか」
「あの男の研究していたものは、間違いなく反逆に足るものだったさ。だからあの男を始末するのは容易かったんだ。お前と違ってな」
 だから俺は精霊界から遠ざけられることで「始末」されていたということか。大臣は禁固され、ライアは殺されたのと同様に。
「ここは何の場所なんだ。精霊界側はいかにも神殿のくせに、こっち側はやたら研究所然としていて……挙句の果てにはここにいる女たちだ。人間の女を攫って、精霊を産ませてどうしようっていうんだ」
「精霊だって?」
 シュアが初めて大きく表情を動かした。しかしそれは一度鼻で笑っただけで、すぐに元に戻った。
「だって翅羽が生えて……」
「違うな、あれは精霊と人間の合の子だ。お前の言葉は賞賛として受け取っておこう。精霊と同じ体躯を持った、精霊を超える精霊を作るのが目的だからな」
「精霊を超えるって、どういう」
 しかしシュアは灯りを持って立ち上がった。再び俺を見下ろして、左手に持っていたものをこちらに見せる。液体の入った瓶が、光を受けてきらりと輝いた。
「悪いが、もうヘネスが腹を空かせてるみたいなんでな。話は一旦中断だ。お前が来るもんだから、オレがやらねぇとならなくなっただろうが」
 口の悪さもいつもと同じで、まるで泊まった宿屋で一服しているかのようだ。シュアは俺の隣にある檻の前に立ち、檻を開けて女の腕を取った。瓶を開けて、先に針のついた小さな筒に中身を移す。
「ガイルまで城に帰りやがってよ。斎占師も満場一致で、リンク様の面倒を含めこの部屋の世話はお願いしますときたもんだ。お前がヴェイン側じゃなかったら絶対に手伝わせてやんのに。そうだ、さっき言ってた誘拐って、その半分はガイルなんだからな。オレだけを責めんのはお門違いってもんだぞ」
 ぺちゃくちゃと喋りながら、慣れた手つきで細く真っ白な腕に針を刺す。
「……何をしている」
「言っただろ、食事だよ。ヘネスのためのな。ちょっと黙っててくれ、慎重な作業だから」
 針を抜いてその檻を閉め、次の檻へ歩く。また同じように瓶の中身を移し、女の腕を取っては針を刺して腕の中に液体を送り込む。それはどう見ても食事風景ではなかった。
 寒くもないのに体がぶるりと震える。ここは全てがおかしい。まともな考えは排他され、狂うことを余儀なくされる。それが王の進めていることだとするなら、狂っているのは精霊界そのものだ。
「安心しろ、お前にはちゃんとしたもん食わせるから」
 全ての女に「食事」を済ませると、シュアは来た方の扉を開けてそう言った。扉はがちゃりと冷たい音を立てて閉まり、その日は――いつが朝でいつが夜かなど分かりはしないが――もう開くことはなかった。



 やっと、今日見た夢の中のことを考える。あの時来たのは間違いなくここだった。
 シュアに連れられてオーガに会いに来たとき懐かしさを覚えたが、あれは一度来たことがあったからだ。あの時は精霊界側の扉から入り、赤い絨毯の敷かれた古めかしい廊下を通って、無機質な青緑色の部屋も通った。藁に指を刺して、この館の縮図を整理していく。
 入ってすぐに二つに分かれた道はやがて一つになる。しばらくすると扉が見えて、その向こう二つは目の覚めるような明るい青緑の部屋だった。仕切りで端が隠されていた手前の部屋、隅に柱が置かれていた奥の部屋。考えてみれば、あれは翅羽の生えた胎児が入っていた柱とよく似ていた。そうすると、仕切りのあった部屋は向こうの向こう、つまり時期の来た女が連れて行かれる部屋ということだ。
 次の扉を開けると部屋は暗くて、ぽつんと立った幼い斎占師が両親たちを連れて行った。あれはきっとこの部屋で、王が両親を殺したのが、ここを出てすぐ隣の部屋だ。壁に掛けられた絵のない二つの額を、記憶の中と夢の中から引っ張り出す。
「過去を見据えなさい……」
 シュアが部屋から出たときオーガに言われた言葉が、頭の中をぐるぐると巡っていた。彼女は全てを見ていたし、俺やシュアのようにそれを忘れさせられることもなかった。彼女は王に従えないものを感じていながらも、ヴェイン大臣とは違い、公では自分を偽って、それを後に伝える道を選んだのだろう。
 シュアの言った言葉も、泡が水面へ立ち上るように奥から浮かんできた。「あれは精霊と人間の合の子だ」。
 人間の女を攫っていた俺と同じ年頃のアーティ大臣と、共に見えた新しい小屋。随分昔からそれは動き出していたことになる。しかし本格的に動き出したのは最近になってからだ。女が攫われる事件が頻発したのは二年前からだし、隣の部屋にいた胎児たちも、仮に早くに腹から出して成長が遅いとしても、十年以上浸かっている奴などいるはずがない。あれは間違いなく、最近攫われたここにいる女たちが産まされたものだ。
 その十数年の間、なぜ動きが止まっていたのか。
 周りからは何の音もしない。起きていたって物音一つ立てないので分かりにくいが、彼女たちは皆眠っているようだった。
 柵に額をぴたりとつけて小さい火を掌に浮かべ、閂を確認する。柵の隙間から指を出してみるが届かず、思い切って手首まで出してみても爪の先すら触れなかった。引っ込めようとしたところで骨がつっかえ、柵を押さえて一気に引く。勢いで後ろの柵に打ちつけた背中がひどく痛んだ。
「こんなところに留まっていられるものか……」
 舌打ちも、寝息すら聞こえない静寂に沈んですぐに消えた。



「ヘネスって誰だ」
 顔も知らぬ斎占師が食事を持ってくることが続き、次にシュアに会うことができたのは何度か眠った後だった。陽の差さないここでは時間の感覚が曖昧で、一体何日が経過したのかも分からなくなる。シュアは俺の隣の檻に収まっている女に「食事」をさせているところだった。
「ヘネスが腹空かせてるって言ったが、その女の名前か」
「いや。お前、あっちから入ってきたなら扉に彫られた文字も見ただろ、HENESSってやつ」
 視線を女の腕につき立てた針から動かさず、シュアは淡々と話す。
「ここはヘネスの部屋、ヘネスってのはこいつらの総称。雌鶏お嬢さんっていう、そのままの意味だ」
 その意味にも興味無さげな言い方にもむかつきを覚えたが、それを苛立ちに表したとて、俺にできることなど狭まるばかりだった。ぐっと言葉を飲み込んでシュアの反対側を向く。
「じゃああの扉に彫られてるGMって文字は、あの胎児の総称ってわけか」
「ジェイム……Genii-Mortals、こっちもそのまま「精霊人間」だ。混血ではあるが外見は精霊そのままで、力に至っては人間はおろか精霊すら凌ぐ。新しい命、全く新しい可能性に満ちた命だ」
 いつか夢の中で聞いた王の言葉だ……寒気がして膝に爪を立てた。シュアは全く陶酔しきった顔でそれを話しているのだ。親に縋って泣きじゃくっていた弟のような彼はもうどこにもいない。
「総称の意味の示すとおり、ジェイムは全てが一つを成す。死んだジェイムの力は看取ったジェイムへ移り、消えることはない。産まれれば産まれるだけ精霊の力となる。なあリンク、これ以上の命があると思うか? ジェイムの総力は王をも凌ぐんだ」
「滅茶苦茶だ。殺せば力を得られるというなら、こぞって殺しあうに決まっている。奴ら、今はあの柱に収まっているが、一度出て自我を持ったなら始まるのは共食いだ」
 シュアがセレーネの檻の扉を開けた。奴の背中に隠れて見えないが、きっと彼女も針の痛みに脅えることなく腕を差し出しているのだろう。
「ご心配どうも。だがジェイムの中には親となる者がいてな、全てはそれに従うように創られてるんだ。だから無闇に同種を殺して力を蓄えることも、親に歯向かうこともない」
「言葉にするのは簡単だが、本当にそんなことが可能なつもりか」
 シュアは肩越しにこちらを振り返り、次の檻を開けた。瓶から筒に液体を移し、無抵抗な腕に針をつき立てる。女の目はぼうっと向かい側の壁を眺めていた。時々思い出したように瞬きをするだけだ。あんな状態でも、話しかければセレーネのように答えるのだろうか。
「じゃあヘネスは、なんでこんなに静かにしてるか分かるか」
「こんな狂った環境にいればおかしくもなるだろうさ」
 吐き捨てるように言うと、シュアの肩がわずかに揺れた。笑っているのだ、こんな会話をしながら。
「何も思い出せなくなってるだけだ。雌鶏から産まれた雛だって、一度全て消してまっさらに戻してやれば、次見るものに依存するようになる」
 思い出せない。その言葉で思い出したのは、苦しそうに首を振って追憶を思い止まるセレーネと、大臣の薬を飲んで夢の中身を留めるときのひどい眩暈や吐き気だった。記憶など消されてどこかへ行ってしまうのだ、両親を殺された後の俺たちがそれを忘れたように。取り巻いていたものがぐるぐると弧を描き、次々と溶けて姿を変えていくようだった。震える指の間では、藁がぐしゃぐしゃに崩れている。
「最終目的は何なんだ……。王もお前もアーティ大臣も、何をしようとしている」
「地上の浄化と、神の奪還」
 シュアは短くそれだけ言うと、最後の女の腕を離してこちらへ向き直った。必然的にこちらが見上げる形となり、彼の背負った闇に飲み込まれそうになる。
「それは、ずっと前にアーティ大臣が提言した……?」
 初期に見た夢の中の情景がまざまざと蘇る。結局ヴェイン大臣側に残ったのは、彼自身と俺の両親、シュアの両親、名も知らないわずかな兵卒。そのほとんどが、今や殺されていたり禁固されていたりと自由にはならない身だ。兵卒もきっとそうなのだろう。
 アーティ大臣は、実行間近と思われたその案を翻した。その当時人間界に攻め入る気など毛頭なかったのだ。あれはきっと、実際に実行したときに目障りとなる者をあぶり出すためのものだった。ヴェイン側についた者の運命は、あの時もう決まっていたのだ。
「オレらが産まれて間もない頃だが、そうか、ヴェインにでも聞いたか。人間も動き始めている、精霊側には一刻の猶予もない」
「人間界のどこにそんな気配があったという。それに神が四つの種を創ったんだから、それを壊すのは神への冒涜だ。過去にヴェイン大臣もそう言ったはずだろう」
「じゃあ何故神は人間界に降りている」
 はっと息を飲むような鋭い語調だった。
「あの神殿には確かに神がいた。この斎占の館とは比べ物にならない、手を伸ばすだけで今にも触れられそうな生々しい気配だ! 置いてあった教典だって、奥の壁に描かれていた絵とは全く別物だ。信仰者たちが気付こうと気付くまいと、神殿の奴らは神を掴んでいるし、神の御子は人間界のどこかで既に誕生している」
 声を荒げて一気にそれだけ言うと、シュアは何度か大きく息をついた。俺は檻の中に縮まって静かにそれを見上げている。様々なところに散らばっていた夢に、ようやく糸が通って繋がり始めていた。瞼を落としてゆっくりと瞬きをする。
「……俺の記憶は封印しないんだな」
「お前はここから動けない、動けない奴に何が出来る。オレだって、幼い頃を共に過ごした兄弟みたいなお前をこいつらのようにはしたくない」
 そう言ってシュアが示すのはヘネスと呼ばれた女たちだが、彼は気付いていないだけだ。いつ自分の両親がいなくなって、それが誰によるものなのか、自分が思い出せないということを。彼の中で王は、両親を再び動かした神にも等しい存在として刻まれている。
 あの痛ましい記憶は消され、王を崇拝する気持ちだけが、両親への尊敬や愛慕とすり替わって残ったのだ。
「シュア、お前にも思い出せないことがあるだろう。いつ俺やお前の両親が死んだか……殺されたか」
「黙れ!」
 突然シュアの表情が歪んだ。頭を抱えてうつむき、目を固くつむっている。檻の中から覗き見た眉間にはいくつもしわが寄っていた。それ以上声は聞こえなかったが、唇はしきりに震えながら言葉を紡いでいる。黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ……
 こちらもうつむいて、シュアの様子が戻るのを待った。呪文のように、耳には届かないはずの声が流れてくる。黙れ、黙れ、黙れ。
 大きく息をつく音がした。顔を上げると、いつも通りの茶の中に橙の灯りを浮かべて、シュアの目が俺を見下ろしていた。
「昨日、ヴェインの処刑が執り行われた」
 それだけ言うと、振り向きもせずにジェイムの部屋の扉を開けた。その向こうはやはり機械的な青緑の明るさに満ちていたが、シュアの向こうに見えた闇はちっとも晴れたように見えなかった。