水はさらさらと流れ、風が吹けば足元の小さな葉が音をたてて揺れる。かがんだ自分の影にすっぽり入ってしまうほどの小さく弱々しい草だった。ずっと上を見上げれば巨大な葉の裏側が見えて、自分もその影にいたのだと、今までの世界がひっくり返るような感覚を味わう。それほどの高みでは風も強いのか、時折その葉も揺れて影が地をすべる。
 ここでは、家を出て目に見える全てが碧色をしていた。葉の間をすりぬける陽も、葉を通ってここまで流れつく光も、ここへ着く頃にはその色に染まってしまうのだ。
 露に濡れた草を踏めば、折れた草が足をはね返し、地にしっかりと受け止められる安心感があった。足首についた露は、歩くうちに靴の中まで染みて、子供達を不快感に泣かせる。
 目の前には今、涙目の子供がいる。ずっと昔から彼を知っている気がした。俺たちは近くの家に住んでいて、どちらがどちらの親だか分からないくらいによく互いの家へ泊まりに行った。食事を共にすることも、一緒にどこか遠くへ出かけることも、数え切れないほどあった。
 視界の端から同じく小さい手が伸びて、涙に濡れた手を取る。
「帰ろう。家に帰れば平気だから」
 彼の手を引いて緑色の地面を歩いた。幼い足は全て草の中に飲み込まれてしまうが、その底には確かに土があって自分の足を支えてくれていた。後ろからはまだ鼻をすする音が聞こえているが、しゃくり上げる声はもう止んだようだ。握った手は熱く、じわりとにじんだ汗に滑ってしまいそうになり、慌ててしっかり握り直す。
 暗くなると、草だらけの道は底なしの沼のように見えた。どこかから聞こえていたさらさらという水の音さえ、ぼちゃりと塊を落としたように重々しく変わる。こちらまで泣きそうになるが、自分の後ろには自分より幼い少年がいた。早く家へ帰ろうと焦るほどに、自分の中にしみついた道は形を失ってしまう。
 その時、ずっと後ろにいた子供が足を速めて自分の左に並んだ。驚いてその顔を見ると、そこにはもう涙の跡は無い。
「こっちで合ってるのかな」
 とうとう不安を口にすると、子供はこくりとうなずいた。胸がすうっと軽くなり、それを励ましにして歩き続けた。
 しばらくすると、茎やその周りのうぶ毛に遮られて橙色の光が見えた。その部分は草が無く、岩と苔に縁取られている。間違いなく俺の家だった。
 そこから出てきたのも知っている顔だった。大臣らしく格式高い格好をしているが、その中に着ている服が薬で穴だらけなことも、俺はちゃんと知っていた。二人は走り、彼にしがみつく。彼は相好を崩して俺たち二人をいっぺんに抱え上げた。
 両親たちだけではなく、よく家に来て構ってくれる彼のことも大好きだった。彼の髭は髪とお揃いの銀色で、それを軽く引っ張って彼がじろりとこちらを見るのが楽しかった。怒った口ぶりをしても彼の口元は笑っているし、最後には目尻にしわを寄せて俺を抱き上げてくれた。
「今日はどうしたの」
 もう一人の子供を高くまで抱き上げていた腕を止め、その子供を地面に下ろすと、彼は腰をかがめて俺の頭を撫でた。
「王がお呼びでな。明日、お前たちの親をある場所に連れて行かねばならない。お前たちもだ。だから迎えに来たんだよ」
「どこ?」
 いくら聞いても彼は答えず、先に黒ずんだ爪をつけた骨ばった手が、俺の頭をずっと撫でていた。



 天を刺すような針の樹も、歯の根の合わないほど寒いところも通った。しかし父親の腕に抱かれて分かるのはそのくらいで、ようやく下ろされたところは全く見覚えのない場所だった。地面から生えているのは茎ではなくて硬いこげ茶色の幹だし、空を覆う葉は小さくて、頬に触れる光を染めもしなかった。
「リンク、こっちだ」
 振り返ったところには、平らな壁が空を目指して立っていた。俺の家よりずっと大きいくせに、誰もおらず人の声もしなかった。真正面に見えている扉は重々しいが、装飾はほとんど無くてこの森に溶け込んでいるように思えた。大臣が先に歩いて扉を開ける。
 中は暗かったが、扉の上の窓から柔らかな光が差し込み、きっちり敷かれた赤の絨毯に模様を浮かべていた。道は左右に分かれて奥へと続いているようだった。曲がり角の奥は暗くて何も見えない。
 大臣が右の道を歩き出したので、俺を含めた六人もそれに続いて足を進める。少し行くとすぐに道は左へ曲がり、そこからはずっと一直線で、両側の壁にはずらっと扉が並んでいた。絨毯は草とは違う弾力があり、好奇心旺盛な子供たちは飛び跳ねたり走ったりと、様々な踏み方を試してみる。
「しかし、こんな境界沿いにも建物があるとはね。それも、これほどまでに巨大で、華美ではないが荘厳だ。一体ここは何のための場所なんだい。王がお造りになったのかな」
 そう問うたのはシュアの父親だった。前を歩く大臣がこっちをちらりと振り返ったので、頬の輪郭から鼻の先が見えた。
「ここは斎官の住まう場所だ。そして」
 そう言うと彼は、今度はしっかりと振り返って二人の子供を見た。こちらには話の内容など分からず、きょとんと見つめ返す。
「……何故王がここをお選びになったのかは分からない。しかし我らはそれに従うのみだ。王も、君たちを悪いようにはなさらないはずだ」
 そのうち廊下は終わり、左右に分かれていた道はまた中央で合流する。斎官の住まう場所だと言ったが、がらんとした廊下には誰の気配も無い。あるいは息を潜め、どこかの隙間からこちらを伺っているのだろうか。この薄暗い赤茶色の壁の向こうには、何十という耳が並んでいるのだろうか。
 足の裏の感触が違うと気付いたとき、自分の後ろでがちゃりと扉が閉まる。今までとはがらりと様子が変わっていた。眩しさに耐えて辺りを観察すると、そこが今までに無かった大きな部屋であると分かった。床には絨毯の毛羽立った柔らかさも無く、縦横に規則正しく並べられた四角形がつやつやと輝いていた。枯れ葉のように薄暗かった廊下に比べると、若芽のような明るさを持っており、丸かった天井も今は四角い。
 手を引かれ、もっと見たいという思いも届かずそこを後にする。向かい側の壁には扉が付いていたが、今までの重々しいものとは違い、部屋の色に合った明るい青緑色をしていた。明るいぶん暖かさもあるのだが、部屋を染める色の寒々しさのためか一度身震いをした。家の周りを染める緑色とは違い、ここの光には何の生気も無い。
 次に続いていたのは、同じように明るい部屋だった。先程は端に仕切りがあってその向こうは見えず、六面を平たい空間に支配されていたが、今度は隅に柱のようなものが二本だけ置かれていた。といっても床には完全に接しておらず、天井までも届いていないようだったが。
 その次の扉を開けると、薄暗い中に道がまっすぐ伸びており、その途中に全身を布で覆った者が燭台をかかげて立っていた。露出しているのは目と手だけだったが、十代半ばだろうと年齢を推し量るには十分だった。微動だにせず立っている彼女はどこか恐ろしささえ感じさせる。
「奥の部屋で王がお待ちです。ノディエ様夫妻、ローエル様夫妻の四方のみお出でくださいませ」
 二組の夫妻は顔を見合わせたが、少女の背について歩き出す。後には二人の子供と大臣が残された。
「妙だな。王は何を考えておられるのか」
 呟いた彼の言葉も、不安そうに彼を見上げる子供達の目に吸い込まれ、彼は二人を安心させるようにしゃがんで頭を撫でようとした。

 彼の指が頭に触れようとした時、空間を引き裂くような悲鳴が聞こえた。奥の部屋からだ。彼ははっと振り返り、向かいの壁の右端に付けられた扉へ走った。扉を細く開けるとこちらを見て鋭く言葉を放つ。
「待っていろ。いいと言うまでここにいるんだ。分かったな」
 子供たちがうなずくのも確認せずに彼は扉を閉めた。薄暗い部屋と、漠然とした恐怖に包まれて、背すじに寒気が走る。今まで気にならなかった湿っぽさやかび臭さまでもが体に染み込んでくるようで、どうしようもなく後ろにいた弟のような彼を振り返った。
 彼の顔は青ざめていたが、その目には涙など浮かんでいなかった。彼はこの暗がりが怖いのではなく、大好きな大臣の言いつけに背くのを恐れているのだ。そう気付くと、今度は自然と手が伸びて彼の手首をつかんだ。きょとんとする彼を引いて、大臣の消えた扉へと向かい、それを押す。
「大丈夫、悪いのは俺だから。全部叱られるから。行こう」
 その向こうに続いていたのは幼子の目にも狭い廊下で、今までが暗がりだとしたら、こちらは暗闇と呼ぶのが相応しいだろう。すぐ左の壁には一つ扉があって、その向こうの部屋に繋がっているようだった。そちらに手をかけて後ろの彼を振り返る。彼は帰路に迷った時と同じように、自信を持ってこくりとうなずいた。
 細く扉を開け、隙間からのぞき見る。まず見えたのは大臣の背中だった。誰かと何か言い合っている。もう少し開くと、奥の壁に額が二つ掛けられているのが見えた。しかし不思議なことに、それの形作る四角の中には何の絵も飾られていない。
 あともう少しと開いたところで、床に倒れている何かが見えた。後ろの子供が俺を突き飛ばして中へ走り、倒れたそれにすがりついた。大臣が目を見開いて、扉の陰に突っ立っている俺を睨む。しかしすぐに顔をしわくちゃにして目をつむり、うつむいて額に手を当てた。
 俺も、先に駆け寄った彼のところへ行く。彼は大声で泣きながら、血を流して倒れている彼の両親を揺さぶっていた。いくらそうやっても反応が無いと知ると、突っ伏して何ごとか喚く。彼の声はもはや言葉を成していなかった。俺は呆然とそれを見下ろすと、その向こうに倒れている二つの亡骸へ歩み寄る。彼らの傍に膝を付いて、やはり息絶えていることを知ると、やっと顔を上げて血の匂いに染まっているこの部屋を眺めた。
 扉を背にして大臣、両親の倒れているこことは反対側の壁に、燭台を持ったまま座り込んでがたがたと震えている先程の少女、大臣の向かい側には大臣よりやや老齢かと思われる男がいた。その男は腕を組み、口には薄笑いを浮かべて壁にもたれていた。
「何故彼らを……。彼らはあなたに忠義を尽くして仕えてきたではありませんか」
「さて忠臣ヴェイン・ディーツェよ、何故だと思う」
 口ぶりから大臣よりも上の位だと分かったが、大臣が脅えた目をしてかすかに震えているのは、全てが位の違いによるものではなかった。こちらへ向けられたものではなくとも、彼の言葉は冷たい鎖となって、ここにいる全員の手足を縛り上げていた。彼は未だ泣き続けているシュアをちらりと睨み、足をこちらへ向けた。
 冷たい眼差しにびくりと体が震えたが、腕を伸ばしてシュアの体を抱き、無理やりに口を塞いで黙らせる。それでも男は足を止めなかった。がたがたと震える俺たちを見下ろして彼は突然歩を止め、口元に浮かべた笑いを濃くする。
 突然彼の姿が薄くなった。目を丸くする俺たちの前で、大柄だった体がさらさらと砂のように零れ落ち、とうとうどこにもいなくなってしまう。しかし彼の纏っていた空気は確かにそこにあり、姿の見えない気持ち悪さに、顎まで流れてきた汗をぬぐった。
 突然、膝に触れていたものが動いた。びくりと体を離して、目を見開きそれを凝視する。
 体から血を流してぴくりともしなかった両親が体を起こし、ついにはゆっくりと立ち上がったのだ。四人の服は血にまみれ、顔は対比されるように真っ白だった。今朝目覚めた時と同じ笑顔で、こちらへおいでとしゃがんで腕を広げる。
 シュアはもう泣いていなかった。ただ目を丸くして、俺の手を口から離し、よろよろとそちらへ歩いていく。彼の父親は血の気の引いた真っ白な手でそれを抱きかかえ、シュアの額に手をかざした。彼は目をつむり、血で真っ赤に染まった父親の胸の中で眠り込んでしまう。
 すやすやと安らかに息を立てる彼の頬にも、赤い血がべっとりと付いていた。なんて幸せな顔なのだろうと、見つめる俺の歯の根が合わなくなる。
「リンク、おいで」
 同じように俺の両親もそこにいて、真っ白な腕を伸ばしていた。それは俺を育ててくれた二人に間違いなかったし、一度動かなくなっていたのを知っていてさえ縋りつきたくなった。しかしその口元に浮かんでいるのは、空気に溶けて消えた男の歪んだ笑いなのだ。
 それにどこからか声がする。誰か知らない人で、しかしよく知っている。どこか遠い所で繰り返している――思い出は心の中にしかしまっておけないんだよ。
 俺が近寄る素振りを見せないのにしびれを切らしたのか、母さんであった「誰か」は舌打ちをして俺の額にも手をかざした。
「この出来損ないめが」

 俺の視界は暗くなり、そこで全ての映像は途切れた。次に目覚めた時、彼は何もかもを忘れているし、どうして両親がいないのかも、いつからそうだったのかも知らずに日々を暮らしていくのだろう。
 しかし彼の中でそれを見ていた俺も、俺の中でそれを見ていた誰かも、今見たものを忘れはしない。全ての答えは過去に置き去りにされ、振り返ったところに頼りなく浮かんでいた。今やっとそれを見据えることができたのだ。
 燭台の火の中で全てを見て震えていた少女は、やがて夢占などと称してそれを告げる。
「過去を見据えなさい。振り返ったところに答えがあります」





 鎖は解け、生き返るように現実世界に目を覚ます。
 何日間眠っていたのだろう。涙をにじませたルナがそこに映ったから、安心させるようにうなずいた。もう大丈夫だ。夢のことは詳細には思い出せないが、もうこんな長い夢を見ることはないだろうと、確信するように感じていた。
「ただいま」
 するとルナは不思議そうに首をかしげて、おかえりと呟いた。彼女に気付かれないように小さく微笑んで体を起こし、窓の向こうを見た。
 そこらじゅう真っ白に塗られた景色は、氷の季節に入ったことを告げていた。