見たことのある夢だった。
 こちらが現実だと気付くと、身を起こして幹に隠れながら、斎占の館のちっぽけな扉へと近寄る。昨日と同じく、誰かが開ける気配は無い。空を見上げて陽の居場所を確かめると、今は昨日より遅い時間のようだった。貴重な時間なのに眠りすぎてしまった自分を悔やむ。
 そのまま留まり、目を閉じて夢の中身を思い出そうとした。しかし浮かんでくるのは既視感ばかりで、その内容までは思い出せなかった。背にした幹を蹴り、扉へ近付いて中の様子を伺う。何の物音もせず、そのまま開けて手から火を灯すと、左側へと続く狭い廊下を進んだ。
 突き当たりを右へ曲がって少し行くと、正面と右の扉の二つの分かれ道に出る。今度は迷わずに正面を選んだ。
 その向こうにあるのはがらんとした空間だった。向かいの壁の中央には昨日と変わらず妙な文字列が並んでいる、「HENESS」。そこにそっと耳をあてて澄ませるが、何の気配も無かった。と言っても精霊がいないだけで、セレーネたちは鍵の掛かっていない檻から出ようともせずに、じっとうずくまっているのだろう。
 鍵が直っていないのを確認して細く開ける。昨日と変わった様子は無く、暗がりに一本道と、それを両側から囲むように檻が並んでいるだけだった。静かに開けてすぐ閉め、火をかかげる。
 セレーネのいる檻から小さく物音が聞こえた。床材が擦れる音だ。通路から檻の脇へ入ったところに座って火を小さくすると、セレーネは笑顔でこちらを向いて座りなおした。
「こんにちは」
「こんにちは。夜の間に何か変わりは無かったか」
「変わり?」
 ゆっくりと目が宙をさまよい、また俺の顔へ戻ってきた。
「あなたが出て行って少しして、いつもの方が来られました。いつもの時間に」
「いつもの方って……こういう耳の奴だな? 時期かって訊く奴のことか」
 自分の耳を引っ張って見せると、セレーネは嬉しそうに何度も首を縦に振った。俺が耳を見せているさまが面白かったのか、空色の髪を分けて自分の短い耳も引っ張ってみせる。その先に下がっているのは二十三を意味する黒白のイヤリングだった。目をそらし、自分の耳から指を離す。
「で、お前は時期なのか」
「いいえ、まだです」
 その言葉だけでは時期の意味などつかめない。彼女は今度もそれを言う時、手を胸の下に当ててみせた。しかしすぐに離したので、ただの癖かと判断する。
「時期になるとあっちのあっちへ行くんです。長いことあっちのあっちにいて、またここへ戻ってきます」
 彼女が指したのは、俺の来たのとは反対側の扉だった。闇に沈んでよくは見えないが、あの向こうにもいくつか部屋があって、俺たちを泊めたような表向きの部屋へ繋がっているのだろう。この館が奥に長く続いている、本当の理由だった。
「あっちの部屋だな」
「あっちじゃなくて、あっちのあっち。一つ通ってその先へ行きます」
 いかにも嬉しそうににこにこと頬を緩めて笑っているセレーネの顔を、こちらは緊張して見つめる。
「つまり、お前もその部屋へ行ったことがあるんだな。時期っていうのが来たことがあるって、そういうことなんだな? あっちの部屋っていうのはどんな感じだ、連れて行かれる二つ向こうの部屋っていうのは?」
 気付けばセレーネの手首を掴んでいた。驚いたような困ったような顔で俺を見つめ、首を傾げて曖昧に笑い、彼女は小さな唇を開いた。
「時期は、来ました。何度か」
 それだけ言うと、唇を閉ざしてしまう。その次に俺が問うた言葉など聞こえていないかのようだった。
「その他はどうだ。あっちにある部屋はどんな様子なんだ。簡単なことでいい、色とか広さとか置いてあるものとか」
 しかし彼女は顔を歪めて耳を押さえ、首を振るだけだった。まただ、また頭が痛くなったというのだ。思い出すことの苦しみは分かってやれるものの、今は苛つきが増すばかりだった。
「あ」
 不意にセレーネが緊張感の無い声を出して、「あっちの扉」を見つめる。どきりとして火を消すと、その途端に金属音と軋みが聞こえてそちらの扉が開いた。四角く細長い光が通路を照らし、すぐに消える。全身を氷で叩かれたようになりながらも、少しずつ身を移動させて、ちょうどセレーネの檻で隠れる位置に体を縮める。
 足音は一つだった。靴は硬い素材ではない。聞こえる音は小さくて間隔が狭いから、小柄な奴か。見付からない場所に隠れている一方で、こちらからもそいつは見えず、分かることはそれくらいだった。
 セレーネがちらちらとこちらを盗み見るので、首を振って隅の隅へうずくまる。するとやっと察したらしく、いつも通りに床材の中で丸くなった。
 息を殺してじっと耳を澄ませていると、足音は遠い所でぴたりと止んだ。
「どうですか」
 低い女の声だ。声の感じからすると、少し歳を取っているようだ。
「いいえ」
 くぐもった声が返す。また足音が響き、すぐに止まった。同じことを訊いては同じように返されている。もしかするとこれが、時期を尋ねるという精霊なのか。彼女の声に聞き覚えは無かったが、ここにいる女といえば斎占師だ。やはり斎占師もこの不気味な監禁に加担していたのだ。オーガの顔が浮かんで、すぐ消えていった。
 足音は近くまで寄り、止まる。ほんの少し身を乗り出して見ると、向かい側の檻に向かってしゃがんでいる後姿は全身を布で包んだ、間違いなく斎占師のものだった。
「あなたはどうですか、時期は来ましたか」
「はい」
 今度は違う答えだった。緊張で身が固まる。すぐそこの檻の中にいる女は時期で、するとこれから二つ向こうの部屋へ連れて行かれるのだ。
「そうですか、それなら神のもとへ参りましょう」
 軋みが聞こえた。足音が二つになり、うち一つが気付いたように途中で立ち止まった。真っ直ぐにこちらへと近付いてくる。体をさらに縮めて息を止めた。
「あなたは?」
「まだです」
 答えたのはセレーネだった。足音はまた遠ざかり、もう一つの覚束ない足音を連れて扉を抜けていく。今度は、鍵を掛ける金属音はしなかった。やがて何の物音もしなくなってから十分な時間をおき、元いた場所へと戻る。
 しばらくは胸を押さえ、音の静まるのを待つしか無かった。セレーネが心配そうにこちらを見上げる。
「大丈夫ですか」
「ああ。それよりもセレーネ、教えてくれ。あの扉の向こうの様子じゃなく、そこに誰かいるのかを」
 すると彼女は、今度は苦しむ様子も見せずに笑った。
「時々今のような方がおられますが、いつもじゃないようです」
「それなら、二つ向こうの部屋にいる時間はどれだけなんだ。長いって言ったが、一回眠って起きるくらいじゃないよな」
「もっとです。私があっちのあっちにいる間に、何回か今の方がここへ向かうのを見ました」
 それだけで十分だった。立ち上がると、音を立てないように慎重に歩いてそちらの扉へ向かう。その間、両側の女は何の反応も見せなかった。俺が話しかけるまでのセレーネと同じだ。
 この扉の鍵は、今は開いている。入ってきたときに鍵を開けたのからすると、いつもは閉まっているのだろう。今しかなかった。小さく火を灯して扉を照らすと、こちらにも「GM」とよく分からない文字列が彫られていた。
 扉に手をかけると、その冷たさに体の内側まで冷やされるような感じがする。息を止め、思い切ってそれを開いた。

 その向こうにあったのは、少し薄暗い程度の部屋だった。光の色は青緑で、暗い場所にいた目には、より明るく見える。しばらくは目が眩んで何も見えず、気配がしないのを確認して自分の体を通した。
 すぐ近くにあった大きな丸い柱に隠れて、光に慣れるために目をしばたたく。なんとか周りのものが見えるようになってきたとき、自分を隠していたのがただの柱ではないと気付いた。後ずさり、初めてセレーネを見た時のように壁に背中をぶつけた。
「何だ、これは……」
 俺の腰の辺りまでは金属製の柱に見えなくもなかった、少なくともそこまでは。しかしそこから上は透明な硝子が伸びており、一番上はまた金属の柱になって、正方形の滑らかな板がいくつも敷き詰められた天井へ向かって、管が何本か伸びていた。
 硝子の内部では、下から引っ切り無しに小さな泡が立ち上っている。水かどうかは知らないが、液体がいっぱいに詰まっているらしかった。
 そして硝子内の上部に、やはり管に繋がれてたゆたっている、これは何だ?
 細長いものを丸めたような形状、様々に伸びて硝子の上部へ繋がっている管。全体的に赤っぽいが、透明な部分も黒い部分もある。こんなものは見たことがない。一体、斎占師たちは何を育てている。
 ふと辺りを見渡し、この部屋が柱だらけであることに気付いた。どの柱も、俺の腰の位置より上は液体の詰まった硝子になっており、上のほうにこの気味の悪い何かが揺れている。この部屋中に静かに響き渡っている、この地を這うようなかすかな音は、何十という硝子の中の泡が作り出すものだろう。セレーネたちを見たときにも似た、いや、それ以上の悪寒がした。
 気配のしないのを確認しながら、柱の間を歩いていく。どれも同じように気味の悪い光景だったが、ふとその中の一つに目が引き付けられた。
 その硝子の中にあるのは、見てきたのと同じ「何か」だった。そしてそれの丸みの外側からは、見慣れた透明なものが生えていた。寒気に自分の腕を強く押さえる。それはどう疑おうにも、全ての精霊の背中に等しく生えている翅羽だった。
 はっと他の硝子も見てみる。場所を変え、光の当たりを変えて慎重に見つめていくと、全ての「それ」には紛うことなき翅羽が生えていた。一つくらいはと凝視するが、それは絶望へと変わるだけだった。どれもみんな、透き通った小さな翅羽を生やしている。
「これは精霊なのか……?」
 口の中で小さく呟いた声は、儚く泡の音にかき消された。俺の目に映るのは何十という、精霊として産まれてくる前の精霊だった。耳鳴りはひどくなり、大臣の薬を飲んだ時とは違う吐き気に、口を強く押さえた。
 急いでセレーネのいた部屋へ戻り、暗闇につまずくのも気にせずに彼女の傍へ走った。
「お帰りなさい」
 嬉しそうに微笑んだ彼女の肩を、檻ごしに強く抱く。彼女は目を丸くし、俺の肩に同じように自分の手を乗せた。
「あれは何だ。あの部屋にあるのは、一体……」
 彼女は首を傾げ、時期を訊いた時と同じように手を腹に当てた。いつもの癖だ。癖……いや違う。
 産まれてくる前の状態のあの精霊たちを、あそこまで育てたのは誰だ。あれだけ多くの精霊を産んだ女たちは、今どこにいるという。自分の考えに寒気がし、歯が鳴って止まらなかった。
「そんな馬鹿な……」
 しかしセレーネの小さな手は、今も腹を押さえていた。声にすることは出来なくても、そこにきっとあるのだ、「時期は来たか」「あの部屋にあるのは」二つの問いに対する答えが。
 人間である彼女の腹には今、翅羽の生えた子がいるのだ。

 突然頭が痛んでその場にうずくまる。浮かんでくるのは何かの場面だ。火が弾けるように目の前に現れてはすぐに消えていく。
 何度も見た。そうだ、ずっと昔の夢の中でも、ライアに会うためシュアに黙って家に帰った時も、今日の夢の中でも、それを見たのを覚えている。
 俺は家の中にいて、入り口から恐ろしい形相のシュアが入ってくる。一時は幻だと片付けたものが、なぜ今更浮かんでくる? 恐怖と混乱と痛みで頭が割れそうだった。
「大丈夫ですか……?」
 頭ががんがんと響いて、彼女の声が大きくなったり小さくなったり、耳の中で揺らめく。一体何なんだ、あのシュアがどうしたという。
 肩に乗せられたセレーネの手の重みが心地よく、痛みを和らげてくれるようだった。彼女の顔を見ると、そこにシュアの輪郭が重なって見える。奴と彼女の大きな違いは輪郭そのものの鋭さ、そして耳だった。奴の耳は精霊の特徴を現して長く、右耳にはでかい赤のイヤリングを付けていたはずだ。
 しかし、今セレーネと重なって見えるシュアの耳は両方とも裸だった。一緒に行動してきた限りでは、奴がイヤリングを外しているのを見たのは一度だけだ。俺の家でライアの料理を食べ、そこを離れてすぐに、イヤリングを忘れたと言って取りに戻った。
 俺の家に入ってくる、裸の耳のシュア。
「ライア……」
 俺の見ていたのは、あの時の彼女の記憶だ。どうしてシュアはそんなに恐ろしい顔をしているんだ。美味い料理だと褒めていたじゃないか。
 更に頭が痛くなって、全ての音が聞こえなくなった。セレーネの肩をつかむ指に力が入り、彼女の表情が困惑したものへ変わる。
 浮かんできたのは、イヤリングを取り、俺の家から出てきた後のシュアの行動だった。俺に見付からないよう植物群の下を通り、川で手を洗っていた。奴は匂い消しの薬草を使っていた。流れゆく川の水はライアの作った料理と同じ色に――赤に染まっていた。
 そして孤児院を抜け出して密かに向かった時の、掃除もされていない俺の家。ライアの姿などどこにも見えなかった。どういうことだ。
 ぎゅっと目をつむって開ける。まだ一日ある、まだ考える時間が必要だ。顔を上げると、心配そうに眉を寄せたセレーネと目が合った。
「大丈夫ですか?」
 頷いて立ち上がろうとしたところで、セレーネは俺の上に目をやって小さく呟いた。
「あ」
 その声に相変わらず緊張感は無かった。その直後に俺の背中に激痛が走って倒れ、意識が遠のいても、彼女は驚いた顔をするだけで叫び声も上げなかった。