扉を開く音、それにつられて居間の扉が少し動く音。扉を閉める重々しい音と、元通りに戻る居間の扉。家の軋みは主人を迎え入れるものだった。
 今日、父さんは帰ってきた。席を立って椅子を元通りに戻し、自分が居間にいた跡を消す。
 玄関から聞こえてくるのは話し声だった。一方は父さんのもの、もう一方は聞いたことのない女のものだ。若い声だが低めで、話し方も落ち着いており、耳には心地よい。
 しかし目を伏せて、階段へ続く角に身を隠した。
 二つの足音と声が近付いてくる。居間の扉ががちゃりと鳴り、また閉まった。
「あれ、チェインはいないのか。ユクスの所かな」
「チェイン……ああ、お子さんですね」
 近くで聞いた女の声は、扉を通したよりも澄んでいて、水が染み込むように耳に馴染んだ。
「また後で紹介するよ。今日からここは君の家にもなるんだから、自由に使っていい。分からないことがあったら何でも聞きなさい」
 角からわずかに身を乗り出す。父さんの後姿と、それに隠れて顔は見えないが、柔らかく波打った金髪だけが見えた。あれが、父さんが連れてくると言っていた女なのだ。
 父さんは脱いだコートの掛け場所を探していた。緑の季節に入ったとはいえ、まだ氷の季節の名残は色濃く残っている。父さんの出て行く音で目覚めた今朝も、俺の部屋の窓には水滴が流れていた。
「家の中も、自由に見て回った方が覚えやすいだろう。落ち着いたら周りの家へ挨拶に行こう。楽しい方ばかりだからすぐに馴染めると思うよ」
「はい……あの」
「うん?」
 父さんは女の方に向き直ったのだろう。床と、そこから生えた自分の足を見つめてそれを聞く。
「どう言えばこの感謝が伝わるのか分かりませんが、本当に有難うございます。忠義を尽くしてお仕えすることを誓います」
 低い笑い声が聞こえた。目をつむると、床も自分の足も瞼の中へ隠れてしまう。
「仕えるだとか、そういう言い方はやめよう。君はもう家族だ。それより果ての村での暮らしはどうだった」
「ええ、皆様とっても良くしてくださいました」
 二人の声が遠ざかっていく。抜き足で階段を上って自分の部屋へ戻り、鍵をかけた。
「おかえり父さん」
 乱暴に椅子に座ってもたれると、小さく呟いた。目をゆっくりとつむり、ずっと前にいなくなった別の女性を浮かべる。
「母さんはどこだよ」
 立ち上がり、窓を開けて風を入れる。その冷たさに頭も冷え、胸のもやもやも流れていった。俺がどう喚こうが父さんは彼女を追い出したりしない。それなら、少しでも良いように考えて彼女を受け入れよう。

 その時のほうが、よっぽどルナを受け入れていたに違いない。父さんのことだって許していた。一度良い方に考えると全ては弾み出し、新しい生活への期待のようなものも確かに生まれていたのだ。
 全てはその時、窓の向こうにいる彼女を見てからだった。
 近くには父さんがいて、彼女に周りの家々のことなんかを話していた。その会話の内容も、ここから見える金色の髪のつむじも、思い当たる人物は一人しかいなかったのに俺はそれを認められなかった。
 口を馬鹿みたいにぽかんと開けたまま、窓枠に手をかけて食い入るようにそれを眺めた。声をかけることも出来やしなかった。上を向かせても、きっと目も合わせられない。青い目は好奇心に満ちて辺りを見回していた。
 彼女の纏っていたのは華やかさではなかった、それでも彼女は俺の目を引き付けてやまなかった。
 ふと彼女がこちらを見上げ、目を細めて微笑んだ。見下ろす視界の中で彼女が小さく頭を下げて手を振ると、やっと父さんも気付いたようで、こちらへ来いと手招きをした。
 そんなことが出来るものか。
 ぷいと窓から離れ、鍵がかかっているのを確認してベッドに横になった。
 彼女に惹かれ、気付かれないように見つめていたいと感じたのは一瞬だった。彼女はどう足掻いても父さんの妻であり、俺の母だ。もしいつか父さんがいなくなっても、それは永遠に変わらない。
 父さんへの愛情も彼女への憧憬も確かに感じていたし、それからも変わることはなかった。ただ、その底のほうから黒いものが沸々と湧き上がってくるだけなのだ。鎮めては湧き上がるを繰り返し、やがて一年が経って父さんがいなくなった頃、それは表へとにじみ始めた。
 愛情も憧憬も、あの頃より確かに増している。しかし憎しみが増しているのもまた確かだった。
 どうして彼女は俺の母なんだ。





 ざあざあと耳につく音で目が覚めた。起き上がると音が近くなり、それが窓の外から聞こえる雨音であると分かる。もう氷の季節に近くなり、雪の一歩手前の雨だった。
「起きたの。具合はどう」
 後ろを向くと、ルナが扉を閉めたところだった。固まってしまった体をほぐそうと、肩や腕を回してみる。
「大分……いいかな。今度はどんくらい寝てた」
「今までほど長くはないわ。なんだかよく分からなくて不安だったけど、少しずつ良くなってきてるみたいね。氷の季節に入るとお医者さまも来られなくなるし、どうなることかと思ってたのよ」
 うなずき、ルナの手にある盆と、そこに乗った食事を見た。眠気より食欲があるというのも快復の兆しだろう。ルナは俺にそれを渡し、自分は椅子を引っ張ってきて座った。
「最近雨が続くな。次に晴れた時にでも、全部収穫しちまわないとな」
「そうね、こんなに雨ばかりっていうのも珍しいわよね。そういえば、なんだか霧も多かったし」
「次に晴れた時があって、また俺が眠りこけてたら起こせよ。畑のことは自分の力でやるって決めてるんだから」
 ルナは眉を寄せて俺を見つめる。その目を俺も見つめ返す。あれから月日が経ち、目を合わせるのも平気になった。ただ、その多くは憧憬よりも憎しみを表に出したものだったが。
「無理しちゃだめよ。まだ全快かどうかなんて分からないんだから」
「大丈夫だろ。眠気だって、ただ疲れが出ただけかもしれないし」
「あなたの眠りようは疲れどころじゃなかったわよ。……まあ、快復してるのは本当みたいだけど」
 盆の上のスープをすすりながら、彼女の青い目を見つめる。彼女はあの時から一日一日俺を焦がしていく。
 ふと、ルナが来た日の思い出から気になる言葉が浮かんだ。彼女を見つめると、彼女は不思議そうに俺を見つめ返した。目がさらに丸くなる。
「……なあに」
「ん、いや。行く当てはあるのかと思って」
 当て、と彼女の唇が繰り返す。
「行く場所があるんだろ。それとも今までいた家に帰るのか」
 彼女の唇は今や完全に閉じ、何の表情も作り出していなかった。思いを馳せているのか、遠くを見る目で俺を眺める。
「そういえばお前のことってほとんど聞いてなかったな。どの街にいたとか、どこで父さんと出会ったのかとか」
「そんなこと聞いてどうするの。どうせもうすぐ出て行くのよ?」
 ルナはさもおかしいと言いたげに笑う。俺はスープの器を置き、次の皿に手を伸ばす。
「だから聞いときたいんだよ。どうせ、そうなったらもう会うことは無いだろうから。……果ての村?」
 思い出したのは父さんの言葉だった。こんなことを訊くのはただの好奇心に他ならなかったが、父さんとの出会いについてはどうしても聞いておきたかった。どんな経緯で、父親ほどに歳の離れた男と一緒になろうとしたのか。親は反対しなかったのか。
「そうね、果ての村にいたこともあるわ。ここに来る前、ここで暮らす準備が整うまでの数日間だけね。住んでいたのはもっと別の場所よ」
 どこと訊くよりも早く、ルナは笑顔のままで立ち上がった。
「出て行く前に、機会があれば話すわ。まだ仕事があるもの。食べ終わったら椅子の上に置いといてね」
 彼女の後姿は扉の向こうへと消え、雨と器の音だけが残された。窓を開けて雨に濡れた風を入れてみたが、あの時のように胸の霧が晴れてくれるはずも無く、あの日へと時間が戻ることも無かった。





 それから数日雨は降り続いた。やっと晴れた日も空は暗く、氷の季節がそこまで来ていることを教えていた。
 最近は、以前のように夜寝て朝起きる習慣が戻りつつあった。突然眩暈に襲われることも眠気に倒れることもなく、体は健康を取り戻しているように思われた。
 コンコンと扉を叩く音が聞こえる。起き上がって窓を開け、そちらへ歩いた。俺がノブに触れると同時に扉が開く。俺が目の前にいるのを見て、ルナは扉に寄りかかっていた体を一歩引いた。
「おはよう。起きてたのね、よかった」
「晴れたら畑に行くっていうのは自分で決めてたからな」
「朝食は用意してあるから、着替えたら下りてきなさいね」
 扉を閉めて窓へ向かうと、そちらから流れてきたのは涼やかな風だった。見下ろす地面は降り続いた雨に濡れている。
 大きく伸びをして、土の汚れの取れない服を引っ張り出し、着替えて階下へ向かった。
 角へ曲がると見える居間と、右側にある机に四つの椅子、目立たず置かれた食事。玄関へ続く廊下と、その途中にあるルナの部屋への扉。部屋はそれ以外にも多くあり、俺の把握しきっていない場所さえある。
 父さんがいなくなって二年。その時でさえ広くなったと感じたのに、一人になったらこの家はどれだけ広がるのだろう。
 台所に立つルナの後姿は鼻歌まじりに揺れている。何も言わずに机の上にあるものを詰め込み、空になった器を彼女のところまで運んで、足早に水場へ向かった。
 水は氷のように冷たかったが、構わず顔を洗って自分を覚ます。しばらくぱしゃぱしゃとやって、滴る水を服で拭き、畑へ向かった。
 畑は、ところどころ雨に凹んで穴が空いていた。どろどろとした土に足を掴まれながらも、立派に育った葉のほうへと歩いていく。
 葉をつかみ土を分けて掘り出しながら、西の最果ての村について思考をめぐらせた。メリッサといっただろうか、もう記憶から消えかけているあの少女と初めて行ったのも、あの向こうにある湖だった。確か幼い頃にも一度だけ、父さんに連れられて行ったことがある。母さんの縁の人がいるのだと言っていたが、それ以来一度も会ったことはない。
 それ以外に、あの村に知り合いがいるとは思えない。ルナを預けたというのもその場所だろうか。
 土を払い落としたところで籠を忘れたと気付き、家の角を曲がって、そこに積まれた籠を一つ取る。そこから少し行けば村も終わり、平原と丘が見える。その先にあるのは、墓とは村を挟んで反対に位置する森だった。あれを越えると最果ての村だ。ふと、父さんはいつ、どうしてあそこへ行ったのかと考えた。
「そうだ、確か母さんが死んだ時だ」
 母さんが死んだ時なら、俺の記憶が薄くても無理はない。一度思い出すと、母さんの親戚だか誰かのもとへ挨拶に行ったことも、心の隅から引きずられて出てきた。
 母さんがいなくなれば、その親戚とアトリー家を繋ぐものは俺だけとなる。その俺が忘れているのだから、それ以来、関わりという関わりが無かったのも当然だ。そこまで考えて、おかしいことに気付いた。
「母さんに縁の人が、父さんの後妻を家に住まわせる……?」
 畑へと歩きながら考える。短い間のこととはいえ、そんなことがあるのだろうか。
 顔はいつの間にか下へ向き、溶けた土が視界を滑っていくさまを眺めていた。畑に戻って収穫作業を繰り返す。
 そういえば畑の更新に役場へ行った時、アトリー家の者は俺だけになっていた。ただ役場の管理がずさんで、ルナの登録が忘れられているだけかと思ったが、本当にそうなのか。アトリー家の者は俺一人、つまり二年前に亡くなった父さんの名前は消えていたのだ。
 なのにどうして、三年前に来たルナの名前が無い。
 いっぱいになった籠を抱えて家の表へ出ると、ちょうどルナが家から出てきたところだった。
「お疲れ様。土ならしはしてないでしょ、やっておくからそれを運んでおいてくれる?」
 うなずいて扉に手をかけた時、そこにぽつりと冷たい滴が落ちた。
「あら、また雨」
 ルナが掌を天へ伸ばすのを見る。その途端、籠を持った手も足もそれを見ている瞼も頭も、体の全てが重く落ちていく感覚に襲われた。頭を強く押さえて扉にもたれ、籠を胸に抱えて持ち直す。
「どうしたのチェイン。チェイン?」
 首を振って大きく息を吸い、扉を引いた。鍵が掛かっているかというような重さだ。ルナが駆け寄ってきて簡単にそれを開け、俺の肩を支えた。
「だから無理しちゃだめって言ったでしょ。すぐに休みなさい、籠も私が持っていくから。いいわね、すぐ自分の部屋へ戻りなさい」
 それだけ言うと、籠を奪い取って俺の背中を強く押し、扉を閉めてしまう。「自分でやるって決めているから」と、それすらも言えそうになく、ふらつく体を壁にぶつけながら階段を上って自分の部屋へ入った。
 窓は未だに開き、そこからは湿った風が吹き込んでいる。それを閉めると、鍵をかける間もなくベッドへ沈み込んだ。
 雨の音は少しずつ大きくなっているようだったが、意識が薄れるにしたがってどんどん小さくなった。今までに感じた中でも最もひどい眠気に、縛り付けた縄をぐいと引かれたように夢の中へ落ちていった。