土と水の匂いだ。地面から生えた柔らかな草は、朝露に濡れてしっとりとこの体を包む。懐かしくて温かい匂いだった。
 頬に何か当たって弾け、目を開く。手をやると、上から落ちてきた滴が頬を流れ落ちて唇へ伝うところだった。起き上がって欠伸をし、体の痛みに顔をしかめる。
 夢を見た、夢の中で夢を見た……一つ一つを丁寧に思い出していく。新しい小屋と人らしき荷物を抱えた男。それから十数年は経っているだろう汚れた小屋と、女を抱えた男。そして王の前にいる両大臣。その中で感じた、この気持ち悪さは何だろう。
 王都から北東へと進んだ森の中へ、徒歩や馬車を使ったとは思えない速さで移動していた男。扉の下のほうを一度蹴って開けるのは、以前実際に見たものだった。
 途切れないようゆっくりと記憶を手繰り寄せ、叫びそうになって口を押さえる。あれは神殿を出た後、シュアに連れられて泊まった小屋だった。初めてシュアとガイルが会っているのに気付いた場所でもある。埃まみれでかなり時が経っているようだったが、あの場所は女を攫った者が使っていたのだ。
 あれは誰だったか。俺は確かにあの顔を見た。人間では考えられない速さでの移動も、どこからか出現して掌に乗せられた火も、彼が精霊であることを示していた。火に照らされたところから少しずつ頭の中で像が出来上がり、上へとのぼっていく。やがてフードに隠された尖った顎へ、その上の堅く閉じられた唇へ、高い鼻へと像は鮮明さを増す。
 目が見えたとき、全身に寒気が走って喉の奥から押し殺した声がもれた。彼は、俺がよく知る者だった。
 あの小屋はひどく新しかった。俺が実際に見たものより二十年は前だっただろう。それに符合して顔の皺も少なく、今ほどの骨っぽさも無かった。
 夢の夢で見た彼の顔は、アーティ大臣を若くしたものだった。
「なんで……」
 彼は確かに人らしきものを抱えていた。次に小屋に来たのが仲間なら、アーティ大臣も女を攫っていたということだ。王都から逃げるように移動していたということは人間の女か。
「人間の女を、攫う?」
 主要な街へ入るときに要った許可証、至るところで見かけた立て札、神殿で一心に祈っていた老女。あれらは全て、とある事件に関連するものだった。若い女性ばかりを狙った誘拐事件、いまだ犯人は捕まっていない。
「いや、でもあれは最近の事件だ。立て札はどれも新しかった……」
 次に小屋に来た男を思い出した。彼は俺が見たかぎり二回は女を攫っていたし、あの小屋のくたびれ具合は、俺があそこへ行ったときとそう変わらないように思えた。誘拐事件の時期と一致している。ここ最近の事件を起こしていたのは奴だ、アーティ大臣は全く無関係だ。
 彼がそんなことをしていただなんて思いたくなかった。見知らぬ二度目の男に、出来ることなら全ての罪をなすりつけたかった。頭を振って、あれは夢の夢だと自分を落ち着ける。何のためにここへ来た。両大臣の争いが事実か調べ、夢の夢が全て真実なのかを知るためだろう。
 立ち上がって霧と幹の間を抜け、斎占の館まで歩いた。人間界側の門は壁の右端に忘れられたように存在している。裏口としての機能しか無いように、どこまでもちっぽけだ。こちらから出入りしたことは無いが、開くのだろうか。
 とりあえず引いてみると、それはいとも簡単に開いた。精霊界側の扉とは大違いで中は暗く、差し込んだ四角い光の中に埃がちらちらと舞って見えた。誰の気配もなく、あちら側の扉と同じ建物なのだとは信じられない。
 扉を閉めると、なんとなく息を殺して歩き出す。どこまでも真っ暗だったので左手に力を篭めて火を作り出したが、見える通路は狭く一方通行で、何の装飾もなく気を滅入らせる。ふと、前にここに泊まった朝、こちら側へ来ようとして斎占師に止められたことを思い出した。闇からぬっと姿を見せた彼女はこう言った、「ここより先は私ども以外の者の立ち入りを禁止しておりますゆえ」。
 後ろを振り向くと、扉の輪郭の形に四角く光が漏れているのが見えた。戻ろうか、しかし今更だ。
 火を高くかかげ、暗い通路を歩いていった。いざとなればこちらの方が位は高いし、今は火急の用で訪れているのだ。
 通路は右に折れて先へ続いていた。全く光の見えない無機質な壁は、ここがどこであるかも忘れさせてしまうようだった。圧迫感と漠然とした不安に心を支配される。そのまま進むと右側の壁に一つ、突き当たりにもう一つ扉があるだけと分かった。先に、手前にある右側の扉を引く。
 その中はやや広いただの部屋だった。向かい側の壁に額が二つ並べて掛けられているが、そこには何の絵も飾られておらず、扉らしきものも見えない。やむなく通路へ出てもう一つの扉を開けた。
 そこも、奥行きより横に広いだけの部屋だった。何も置かれておらず壁にさえ何も無かったが、向かい側の壁のちょうど中ほどには扉があった。
 扉を閉めてそちらへ近付き、振り返って、それ以外には何の出入り口も無いことを確認する。続く扉へ向き直って今までと同じように引いてみたが、鍵が掛けられているようで、がちゃがちゃと衝撃を繰り返すばかりだった。目より少し低い位置に何か彫られているのに気付き、火を近付ける。
「HEN、E……SS。ヘネス……?」
 雑に彫られたものだった。聞いたことのない単語だが彫り口は新しい。もしかするとここが、斎占師たちの一番立ち入ってほしくない場所なのだろうか。そう思うと単純に興味がわいた。扉に耳を当てていくらか待つが、中からは何の音も聞こえない。
 もしシュアといたなら、決してそんな行動は取らなかっただろう。静まり返った部屋の中から集められるだけの風をかき集め、埃さえ一緒に右の拳の中へと縮める。それを鋭く尖らせて蝶番とは反対側へ差し入れた。下へ降ろしていくと、硬質な音とともに腕に衝撃が伝わった。
 一度そこで止めて向こう側の様子を伺うが、音も気配もなく、変わった様子は皆無だった。再び風を凝縮して、今度は一気に鍵を押し切る。
 風を放した後で、心臓が高鳴っているのに気が付いた。痺れはまだ腕に残っている。閉ざされた扉を破ってしまったのは紛れもない事実だった。しばし躊躇いつつ扉の向こうに耳を澄ませたが、今更引き返すこともできずに扉を開けた。

 今までよりもずっと広い部屋だった。向かい側までずっと道が続いており、その両側には厩舎のような低い檻がずらりと並んでいる。橙色の小さな灯りが檻ごとに点いていたものの、全体を照らすには暗すぎた。なるほど、これだけ大きな部屋を挟んでいれば斎占師には聞こえないはずだ。
 斎占の館に檻というのは異様な取り合わせだった。こんなに多くの檻で何を飼っていたのか。中は暗くてよく見えなかったが、何か床材が敷かれているようだ。どちらにしろ何もいないのなら気にする必要はない。火をかかげて足を踏み出した。
 その時、左の足元から小さなうめき声が聞こえた。
 背中に冷水を流し込まれたようだった。総毛立ち、後ずさったところで扉に背中をぶつける。穏やかでなかった胸はいよいよ音を高め、自分の息の震えているのが聞こえた。そんな俺の様子などお構いなしに、左の一番手前の檻にうずくまっていた何かはゆっくりと起き上がり、橙色の小さな光の中に黒い影がはっきり見えた。
 左手をそちらへ伸ばし、火を強める。檻の中の影は眩しそうに手で顔を覆ったが、その奥の目は好奇心に満ちてこちらを眺めていた。
「お前……?」
 光に慣れてきょとんと俺を見つめる彼女は、長く伸びた髪に藁くずを付けていた。恐る恐る近付くと、火の橙一色だったその姿は様々な色を持っていることも分かる。波打った空色の髪、それに似合う藍色の瞳、彼女の体に合っていない大きな服、むき出しの華奢な肩にあどけない表情。
 ふと気付いて彼女に手を伸ばし、全く警戒を見せないのに安心してその髪に触れる。手首に触る格子が冷たかった。藁くずを払い落とすと、横の髪をかき上げて耳を見る。
「やっぱり、お前……!」
 彼女の耳は、俺の右手で軽く包めるほど小さかった。それは間違いなく人間の耳で、彼女の珍しい髪色はあの時見たままだった。
 彼女は、今しがた夢の夢の中で見てきた――アーティ大臣ではない方が二度目に小屋に来た時に連れていた、あの人間の女だった。
 力なく地面に横たえられたあの体は、今俺の前にあるそのままだった。あれより一回り小さくなったような印象もあるが、とにかく、夢や夢の夢が真実だったというのは証明されたのだ。それじゃあ、目の前に広がっているこの光景は一体何なんだ?
 十数年前にアーティ大臣が人間を攫った。そして最近誰かが攫ったこの女は、斎占の館に隠されるようにして閉じ込められている。それも檻の中にだ。はっと気付いて隣の檻を照らすと、その奥にも黒い影が見えた。逃げようともせず、生きている気配すら見せずに、この広い部屋に置かれた全ての檻には人間の女がうずくまっているのだ。ぞっとする光景だった。背筋が寒くなる。
 左の耳たぶに、イヤリングのようなものが付けられている。耳を貫いた輪は下へ伸び、二つに分かれていた。そこから白い飾りが二つ、黒い飾りが三つ下がっている。
「まだ私、時期じゃありません」
 触れている耳の近くの小さな唇から、震えるような声が聞こえた。藍色の目は、脅えも憎しみも戸惑いすら見せずに俺を映す。
「時期?」
「はい。まだ、出来上がっていない時期です」
 そう言って、小さな両手を腹のところで軽く重ねる。こちらには何の意味も伝わらない。しかし自分から疑問も見せずにそう言うということは、ここへ来る誰かが彼女たちに「時期か」と尋ねているということだ。
「お前は人間だろう。いつここへ連れてこられた。ここは一体何をしている場所なんだ。時期って何のことだ」
 少しだけ首を傾げた彼女は、何か考えるように宙を眺めたあと頭を押さえてうつむいた。そのまま力いっぱいに首を振って拒絶を表す。慌てて、声を和らげゆっくりと言った。
「口止めでもされてるのか。大丈夫だ、すぐそこに出口があるから逃がしてやれる」
 しかし彼女は首を振るのを止めなかった。両肩を押さえてそれを止めさせ、顔を覗き込む。何も知らない幼児のようにぽかんとしているだけだった表情には、今は恐怖が張りつき引きつっていた。藁にまみれた両手で、こめかみをがっちりと押さえ込んでいる。
「それを考えると、ここが痛くなるんです」
「それって何だ。俺が聞いたような質問のことか」
 彼女はまた首を振った。今度は一回だけで止めた。
「時期か、そうじゃないかだけ分かります」
「それ以外は喋れない、考えられないし思い出せないってわけか? そんな馬鹿な」
 まだ俺が信用に値するとも、味方であるとも知らないから話したくないのだ。畜生、こんな所で時間を取られるわけにはいかないのに。
 そう思った後で気付く、思い出せないのは俺も同じだ。夢を思い出せない。思い出させるヴェイン大臣の薬を飲んだ後は、割れるような頭痛と眩暈、吐き気がある。ここにいる人間の女たちは、記憶や思考の及ばない範囲が俺より広くなっているのではないか。
 肩を抱いた手を戻す。檻を掌が通り抜けるとき、檻は軋みを上げてわずかに開いた。
「なんだ、この檻閉まってないのか。なんで逃げないんだ」
 そう問うても彼女は、眉を寄せて首を振るだけだった。ここを出るという考えも無いのか。彼女たちにとってここは本当に、ただ何かの時期を待つだけの家なのだ。自分に本当の家があることも、こんな暗い檻の中に入れられるのが異常であることも、全く分かっていない。それが狂った結果であるのか、精霊にそうされたのかも確かめようがない。
「お前、名前は」
「……なまえ?」
 彼女は、俺の口の動きをたどたどしく真似た。名前という単語の差す意味が分かっているかどうかも怪しかった。
「名前も分からないか。じゃあこういう耳の奴が来るとき、お前のことを何と呼ぶ」
 自分の耳を引っ張ってそう問うと、やっと彼女は嬉しそうに顔をほころばせた。左側を覆っていた空色の髪を耳にかけ、さっきの妙なイヤリングを見せる。
「白いのが二、黒いのが三、で二十三です」
 やっと自分に答えられることがあって嬉しかったのか、口元から笑顔を放さずにいる。それは痛々しい以外に形容するすべが無かった。彼女の空色の髪と、夜空に似た藍色の目をじっと見る。彼女も笑顔を讃えたまま、真っ直ぐに俺を見返す。
「セレーネでどうだ。月の女神の名なんだが。月っていうのは夜空に浮かんでる、こういう白いやつのことな」
 指で丸を作ってやると、彼女は目を細めて頷いた。嬉しそうに、セレーネという与えられたものを唇で繰り返す。
 あの人嫌いの村の老婆が作ってくれた時間はあと二日ある。今セレーネたち人間の女全員を逃がすより、様子を見て全ての事情を暴くほうを優先させなければ。腰部分の金具を開け、残った薬のうち一錠を取り出した。
「いいか、これを飲めばお前が忘れていることが戻ってくるかもしれない。お前を縛り付けているものが解けるかもしれない。どうなるかは分からないが、相応の覚悟が出来た時に飲んでみるといい」
 そして何の痕跡も残さぬように来た扉から戻り、狭い通路を抜けて森へ出た。外にはまだ月の姿は見えなかったが、得すぎた膨大な量の情報を落ち着かせる時間が欲しかった。
 今となっては斎占師も、アーティ大臣ですら信用することはできない。館が完全に樹の向こうに隠れたあたりで腰を落ち着け、最後の薬を飲んで目を閉じた。