一体今がいつなのか、どこなのかも分からなかった。濁った靄を切るようにして、視界は勝手に前へ進んでいく。
 雨雲の中にいるように周りは暗かったが、気をつけると雲よりも多くの色を持っているのが分かる。様々な色が、見えたと思ったそばからどんどん後ろへ遠ざかり、色の名前を思い出すのも間に合わない。
 突然視界が晴れ、足元に夜が広がった。すぐ近くに雲がある。自分は遥か上空にいるのだと分かったが、恐怖も、浮遊感すら無かった。
 遠くに見えるのは草の色の淡い緑、その向こうには枯れ木の茶色、奥へいくと濃い緑の森、果てのほうにぼんやり霞んだ山々、それらすべてに透明な紺がかかっている。足元に見える平らな暗さは湖だ。どこか見覚えがある。
 頭の中に地図を思い浮かべた。そうだ、地図をぐるっと逆にすれば今見えている情景になる。
 今は氷の季節なのか、どこも死んだように沈んでいた。王都でさえ光が少なく、ぴんと張り詰めた冷たさが伝わってくる。
 何もかもがぴたりと止まった静寂の中、視界の端に何か動くものが見えた。そちらを向くと、小さな黒い影が王都を出て北東へと走っていくところだった。それはユクスの馬車なんかよりずっと早く、すぐに森へと消えてしまった。
 見間違えかと不思議に思っていると、視界は影が消えた森へ近付いていった。みるみるうちに豆粒のようだった木々が大きくなり、枝々や針のように尖った葉の形まで見えるようになる。その影が光のない森の中を進んでいくのも、枝の間から霧ごしに見て取れた。今は幹に注意してかやけに速度を落としている。
 視界はそれを追って森の中を進んでいく。やがて影はゆっくりと歩き出し、そこで初めて、木々の向こうにちっぽけな小屋が立っているのが分かった。といっても壁は新しく、安っぽい素材ではあるが建てられたばかりということが分かる。
 影は荷物を降ろし、手を擦り合わせながら息を吹きかけていた。こちらには視覚による寒さしか伝わらないが、闇に浮かぶ吐息の白さから氷の季節の真っ只中のようだった。と、擦り合わせるのをやめて右掌を差し出す。するとそこに薪も草も無いのに火が生まれた。
 火を直に掌に乗せて熱くもないらしい。灯りの照らし出した彼は全身をローブで覆っており、顔を見ることはできない。
 彼は荷物の一つを左の腕に抱え、火を持ったまま扉に手をかける。それは途中で引っかかったので、彼はその下部を一回蹴った。やっと扉が開く。
 荷物を小屋の中に降ろし、外に置いていたもう一つも抱え上げる。火の照らし出す彼の腕の中で荷物が小さく呻いた。その一瞬、フードの中に隠された彼の顔が見えた。





「特に異常は見られませんね。このまま安静にしておけば良いでしょう。突然体調が変わるようなことがあったら、また呼んで下さい」
 数日に一度、街からこの村へ来る医者がそう言って立ち上がった。脇で真剣な顔をしていたルナが、ほっと息をついて礼をする。医者は首を回して鳴らすと、四角い鞄を持って扉へ向かった。ルナは俺を振り向いて軽く笑い、それを追っていく。
 しばらくして戻ってきて、さっきまで医者が座っていた椅子に腰掛けながら俺の顔を覗き込んだ。
「良かったわ。重い病だったらどうしようかと思っちゃった」
 何も答えずに天井を眺め、左へ視線を移してどんよりと暗い空を見る。もう氷の季節はすぐそこだ。
「畑はどうなった」
「大丈夫よ、大変な作業はあなたが全部やってくれてたもの。育ちも順調だし、氷の季節までにちゃんと収穫できそうよ。この前播種したのも冬を越せそうだしね」
 黙って空の鈍色を眺めていると、ルナの声もそれっきりで途切れた。あまりに静かなのでもう出て行ったのかと右を見れば、やはりそこにいて窓の向こうをじっと眺めている。その肩にかかる髪も、ゆっくり瞬きするたびにできる睫毛の陰も、その奥にある碧の目も、初めて父さんが連れて来て以来、こんなに時間をかけてゆっくり見たことはなかった。
 メリッサの顔はもう思い出せない。思い出そうとするたびに浮かんでくるのは、指が綺麗だったとか声が可愛かったとかの端々ばかりで、全体的な印象を思い出そうとすると、どうしてもルナの顔になってしまう。彼女を見たときに一番に目に付いた特徴、髪や目の色は、ルナの持つものと全く同じだったのだ。
 しばらく見つめていると、ルナもそれに気付いたように目を丸くした。俺が大人しくしているのが珍しかったのか、きょとんとした顔でこちらを見ている。
「なんで氷の季節なんだ」
 ルナは穏やかな表情のまま、肩にかかった髪を後ろへやった。その様子があまりに自然だったから、今の自分の言葉は声にならなかったのかと思った。沈黙がすぎるうちに、自分は言葉を言ったのかさえ曖昧になった。
「言ったじゃない、やり終えなきゃいけないことがあるの」
 そう答えたから、彼女は確かにそこにいて自分の言葉を聞いたのだと安心した。膝のところに置いて絡められた両の指を見つめる。
「一番厳しい季節にわざわざ出て行かなくてもいいだろ。この家は部屋だけはあるから」
「あら、でもチェインが言ったのよ。出て行けって」
「出て行けとは……」
 そこで言葉を止めた。よく覚えてはいないが、そう言ったはずだし、それ以上に酷い言葉もかけた気がする。ルナの膝に目をやると、絡められた指のうち左手の親指だけが、軽く上下して時を刻んでいた。
「俺と一緒にいるのが嫌なら、ここにいろよ、俺が出て行くから」
「それは駄目よ、あなたはあの人の子供なのに」
 ルナにしては強い否定だった。親指の動きが止まって両手が強く絡まる。
「お前はその妻じゃん。どっちが住んでも変わりないだろ。新しい家を見付けるだけでも大変なのに、暮らしていくとなったらお前じゃ……」
「随分ね。私一人だってどうにかなるのよ。ちゃんとやっていけるわ」
 そのうちにまた頭が重くなる。また天井を睨んでぐっと目をつむると、ルナの座った椅子がきしんで扉の開く音がした。まだ話したいことも話さなければならないことも山ほどあったが、眠気に誘われるままに心を深くに沈めた。





 ふと気付くと、この前見た小屋の前に視界があった。とは言っても壁は薄汚れており、草も絡みついて、あれから長い年月が経っているのが感じられた。屋根も傷んでいるようだ。
 今はあの時とは季節も時間も違うらしい。裸だった枝には丸みを帯びた葉が茂っているし、その隙間から見える空は明るく澄んでいた。もともと夜を越すためだけに作られたかのような簡素な小屋だ、あの時の彼はもうここから出て行ったのだろう。
 何の動きも無いまま、空が赤く染まって夜が忍び寄る。鳥の声と羽音に混じって誰かの足音が聞こえた。
 それは全身をローブで包んだ、体格からするとやはり男らしかった。右の脇にはあの男と同じように荷物を抱えている。その荷物が人の形をしているのも、あの男の時と全く同じだった。
 扉に手をかけて引くが途中で引っかかり、足で軽く蹴って開ける。行動の何もかもがあの男と同じだが、彼はあの男とは違うようだった。まず体格が違ったし、この小屋の痛み具合からすると、袖から見え隠れする手は若すぎるように感じられた。
 荷物を小屋の中へ運び込むと、きっちりと扉を閉めてしまう。少し経つと、汚れだらけの窓の向こうがぼんやりと赤くなった。あの男のように、何も無いところから火を出して掌にでも乗せているのだろうか。順序が違ったため、彼の顔は全く見ることが出来なかった。
 夜が明けると彼は、大きな荷物を抱えてどこかへ行ってしまった。朝なら顔を見られるかと思ったが、フードを深くかぶっていて鼻の先しか見えなかった。
 視界はそれからもそこに留まり続け、単調な昼と夜を繰り返し見せた。最初はただの草だったものが固い蕾をつけ、色づくとともに解け始め、やがて花開いて虫を呼ぶ。水気を失って茶色くしおれた花弁が地面に落ち、雨風に叩かれて土へ返る。
 そこに種ができるころ、彼らしき影はまた荷物を抱えて現れた。今にも泣き出しそうな曇った空の下、荷物をそこに置いて同じように扉を開ける。今度はその時点で、掌から火を誕生させた。
 彼はこちらに背を向けるばかりで、期待に反して顔は全く見えなかった。しかし掌から漏れる灯りは地面まで届き、荷物を闇から照らし出した。
 その荷物は靴を履いていた。足も手も付いていた。こちらに足を向ける形なので見えにくいが、髪は空色で波打っており、長く伸ばしたものを後ろで束ねているようだった。肩は細く、彼に比べると華奢で小さい。
 彼は女を運んでいるのだ。一緒に旅しているのなら、小脇に抱えたり地面に横たえたりはしないだろう。この前来たときもそうだ。それなら、まだ新しかった頃のここに来た彼もそうだったのだろうか。
 彼の腕が女を抱え上げ、小屋の中へ運んでいく。その奥を見たかったが、扉は無情にもそれを遮り、同じように視界も暗くなった。完全に視界が断たれた後、雨がぽつぽつと降り出すのが聞こえたが、それもすぐに遠ざかった。



「新しい命を」
「全く新しい、可能性に満ちた命を」
 やたらと耳につく声がした。前からも後ろからもその声は聞こえ、頭の中でわんわんと鳴り響く。
 視界の中にあったのは暗闇と、それを貫くような一すじの光。部屋はどこまでも広がっているかのように、どれだけ目を凝らしても壁が見えなかった。どこかで見たような気がする。今聞こえた言葉も、いつか聞いた気がした。
 光の中を揺れているのは、これ以上どう生きられようというほどに皺だらけの老人だった。もし普通より三十年寿命の長い者がいれば、こんな風貌になるのだろうか。
 その前には、きちんとした身なりの二つの背中が見える。と言っても片や針金でも入れているかのようにぴんと張った服、もう片方はマントに隠れて何かのしみが付いていた。
「その役目は私にお任せください」
 そう言って一歩前に出る彼は、指先にまで神経を行き渡らせているかのように真っ直ぐな動きだった。
「よい顔だ。良かろう、其方に任せる。若くして大臣となった其方のこと、あらぬ陰口を叩かれることも多かろう。成功させてみよ、その暁には万人から認められ崇められることだろう」
「有難く存じます」
 頭が全く隠れてしまうまで深く辞儀をし、彼は隣の男と同じ位置まで下がった。続いた老人の言葉はさきのものより厳しかったが、皺だらけの顔には変化すら見えなかった。
「くれぐれも慎重にな。研究そのものは何度でもやり直せるが、その材料集めは……失策すればどうなるかは知っておろう」
 は、と威勢のいい応答が響いた。老人はその横の男に視線を移す。
「どうしたヴェイン、顔が沈んでおるぞ」
「あ……いえ、私めには到底及ばぬほどの壮大な計画でありますので」
 ふ、と光の中の老人が顔を歪めて笑った気がした。床に対してきっちり垂直に伸びた二つの背中は、微動だにせず老人だけを見ている。
「まあ良かろう。アーティ、まずは一つを確実に作り育ててその逐一を報告せよ。ヴェインにもう一つを任せるが良い」
「私ですか」
 老いた方の背中が驚いたように大きく揺れた。
「そうでもせんと、其方は自分の研究所にこもりそうだからな。この話を聞いた以上、何かしら関わりを持ってもらわねば」
 うなだれたようにうなずく向こうで、皺に覆いつくされた顔には今、確かに微笑が浮かんでいる。やがてそれは声を上げての笑いとなった。部屋中が狂ったような笑い声を上げている。やがて彼ら二人がこちらに向き直るところで視界は途切れ、笑い声も小さく消えていった。





 ぼんやりと、見た夢の余韻の中を漂った。思い出せるものはあまり無かったが、後味の悪さはしっかり残っている。
 新しいころの小屋に来た彼。顔はおぼろげながら覚えているのだが、名前は何だっただろうか。思考をめぐらせていくが、まだ頭の痛みは残っており、まともに考えられたものではなかった。
 救いを求めるように浮かべたのはルナの顔だった。彼女の姿はどこにも無いが、椅子の上に水を汲んだコップがあるから一度は戻ってきたらしい。
 一人でも生きていけるときっぱり言った。それなら止める理由など見付けられなかった。家賃を浮かせるためここに住めと言うのも、自分のわがままでしかない。出て行けと言ったのは自分のくせにどうかしている。
 彼女はこちらの卑怯さにも気付かず、羽を生やして飛んでいく。きっとそれが一番いいのだ。
 彼女さえいなくなれば、父さんを恨むことも無くなるだろうか。
 ぬるくなった水を飲み干すと、また頭を枕に沈めた。しかし今度は眠りに落ちる気配もなく、ただ自分の思い出ばかりに瞼の裏を与えた。