ガンと殴りつけられるようにして夢から覚めた。
 目の前には梁のむき出しになった暗い天井と、窓の隙間から漏れる朝の蒼い光。いつものような惑いも、現実との混同も無い。俺は確かに今まで夢を見ていた。
 シュアの寝息が聞こえるが、もう朝も近い。身を起こして布団を折り、ローブをそこに並べて座りなおした。考えなければならないことは山ほどある。
 俺は夢の中のことを覚えている。見覚えのない場所や人ばかりですぐに薄れてしまいそうだが、夢の中でしていたことだけははっきりと残っている。夢の中でも俺は夢を見ていた。それは、俺が見ていた夢よりずっと鮮やかなものだった。
 夢よりも夢の中の夢がはっきりしているなんて妙なものだ。しかしそれも仕方がない。不思議でならないが、夢の中で見ていた夢は俺のよく知っている世界だった。そこには俺の両親やシュアの両親、両大臣も王も出てきたのだ。
 ただ問題は、それが俺の全く知らない出来事だったということだ。
 妙な夢――夢の中の夢――を見てしまったと忘れるべきだろうか。自分の膝を見つめて額に触れる。
「しかしそれにしちゃ……」
 断片的に見た場面場面が繋がりすぎている。アーティ大臣と争って塔を出た両親。その腕に抱かれていた、まだ幼い俺とシュア。夢ならもっと滅茶苦茶でいいはずなのだ。
 そもそも、なぜ夢の中身を覚えている。今まで夢というのは、起きた時には捨てているものだった。思い出そうとしても、憎しみや惑いといった感情しか浮かんでこないものだったのに。
 不意に頭の中が痛んだ。歯を食いしばって指で押さえる。そういえば昨晩、ヴェイン大臣に渡された薬を飲んだ時もひどい頭痛に襲われた。あの薬があんな妙な夢を見させたというのか。見させた……いや、今までにも妙なものは見ていたのだから覚えさせたと言うべきか。
 小さくうめく声が聞こえてシュアが寝返りをうつ。窓を開けると朝の光が部屋中を明るく照らした。思わず目を細めて窓に背を向ける。
 夢で見たのが何なのか、俺は知らなくちゃならない。あれは本当に起こったことなのか。もしそうなら、ヴェイン大臣が牢の中から伝えてくれた「昔の事件」というのはあれのことなのか。
 朝日に目が眩んだか、シュアがもう一度うめいて向こうを向いた。でかいイヤリングが重りとなって右耳を折る。早く精霊界へ戻って、誰か昔を知っている兵でも捕まえなければ。
 ローブを着て耳と翅羽を隠し、布団を引っぺがしにシュアのベッドへ歩いた。



 北地区は、さすが湖と面しているだけあって水路や橋が多かった。所々削り取られたように土地が無くなっており、断面が固められている。下をのぞけばすぐ湖で、どうやらそれが港というものらしかった。小舟をいくつか繋いで管理しているらしい小屋、獲れたものを揚げている人々もいた。
 いくつも板が浮いていると思ったが、その下面からは脚柱が伸びてしっかりと固定されているらしい。道理で、その上で湖の向こうをそわそわと見つめている後姿が、湖の底へ沈まないはずだ。
 どこからか低くうなるような音が響いたかと思えば、水平線に船らしき影が見えた。どんどん近付いて町一つ入るほどの巨大な姿を見せると共に、どこからか人が集まって船の着くのを待つ。
 その近辺には高い建物は見当たらず、日よけを付けただけの小さな店がいくつも立ち並んでいた。南地区とは違い、売っているのは湖で取れた魚や王都から運ばれたらしい物ばかりだった。
 ここでは誰しもが忙しそうに動き回っており、こちらも立ち止まることはできない。シュアが足早に進んでいくので、雑踏に飲まれぬようにそれを追う。
 若干広くはあったが、建物や入り組んだ小道が少なかったため、一日を費やせば全て回ることができた。
 黙って歩いていたが、こんな賑やかな場所に歪みなんて見付からないと諦めかけた気分だった。そもそも歪みなど何か知らないし、探し方も分からない。この命そのものがどこか不自然だ。シュアにそう言えば、例によって王に背くなと怒り出すのだろうが。
 考えていたのは、昔の事件のことを誰に訊くかということだった。夢の夢で見た限りでは、あの事件は城内城下関わらず多くの精霊に影響を及ぼしていた。中立を保つべきと唱えて孤立し、居場所を失ったヴェイン派。最高潮に盛り上がっておきながら実行されなかった計画と、利己面だけを露わにさせられたアーティ派。どちらにとっても禁句となっていた。
 それが本当ならば、簡単に話してくれる者がいるとは思えない。ヴェイン派の方がまだ心安そうだが、ヴェイン大臣も俺やシュアの両親も、もう話はできない。他のヴェイン派は顔も見たことのない者ばかりだった。
 王城にいる限り、どちらかに付くことは免れなかっただろう。それなら王城から離れていた者はいないか? 中立を保って事態を見ていた者はどこかにいないだろうか。
「この街も何も無いみたいだな。陽も暮れるし、今日はまたあそこに泊まって明日出よう」
 シュアのその声には何の感慨も含まれていない。遠出したから早く家へ帰ろうくらいのもので、歪みを見付けられず王の期待に応えられないという無念は感じられない。
 こちらも無感動にうなずき、中地区を通って南地区の宿へと歩いた。
 光を失って黒く尖った屋根が、赤から紫へ変わっていく空を刺す。空全体を覆うかというどす黒い雲がゆっくりと流れていく。あの雲の果てには天上というものがあるのかと思いを馳せた。
 今日も霧が濃く、視界は晴れなかった。夜は、更に深くなったそれに目の前を覆われるようで、宿へ戻ってすぐに目を閉じた。





 数日をかけて南西に位置する次の村へ着いた。そこは今までの湖から遠く離れており、氷に近付いた灰色の景色に溶け込むように、ひっそりと存在していた。まだ陽が傾きかけたところだというのに音もなく、目立つ色もなく、一見しただけでひどく寂れているのが分かった。
「ここは来たこと……」
「無いが、噂には聞いたな。あんまり条件が悪くて若い奴らが出て行く一方、人嫌いが集まったって」
 その言葉に納得した。歩いている姿などどこにも見えず、窓の向こうさえ布で閉め切られている。数えるほどしかない家はさらに縮こまって見えた。
「さすがに宿は無いよな」
「だろうな。孤児院の時みたいに、どっか泊めてくれる家を探すか」
 かつては川だったであろう地面の凹みをまたぎ越して、土色だけの地面を歩いていく。ひと気はどこにも無く、本当に生きた人間がいるのかも怪しかった。きっとここの住人にとって、ここは村などではなく家が集まっただけの場所なのだ。
 店も何も見えない。一体ここの住人はどうやって暮らしているのだろう。
「まるで死者の街だな」
 耐えかねてそう洩らしたとき、すぐ近くの家の扉が開いた。思わず立ち止まって見ると、暗い室内から姿を現したのは、真っ黒い服に身を包んだ角顔の小男だった。皺に包まれた小さな緑色の目が、低い所からじろりと睨みつけてくる。
 ここに人間がいることを疑っていたわけではないが、それが自分からこちらへ姿を現すとなると話は別だ。咄嗟のことに、シュアですら時間が止まったかのように動けないでいた。今言ったことを聞かれたかもと冷や汗を流しながらも、彼のほうへ一歩踏み出した。
「あ……えっと、泊まるあてが無く困っているのですが、眠る場所だけでも貸して下さいませんか」
 男はぐるりと目を回してもう一度こちらを睨むと、骨の造りが分かるほど細い指でシュアを指した。
「あんただけならな。そっちの青い髪のあんたは魔物に取り付かれとる。三日は祓ってもらわにゃならん。それまではこの村から出さんぞ」
 その声に呼ばれたように、後ろの家から愛想のない老婆が出てきた。格好だけで言えば俺たちと似ており、全身を黒い布で覆っている。
 老人は斑の浮き出た腕でシュアの手首をつかみ、引っ張っていってしまう。シュアは困惑したようにこちらを振り返ったが、最後には無責任に微笑んでフードを指差した。とりあえず精霊であることを気付かれなければ、三日くらい我慢しろということか。冗談じゃない。
 俺の手首をつかんだ老婆を振り払うこともできず、シュアと分かれて彼女の家に上がった。埃っぽい空気が鼻腔をつき、一瞬顔をしかめた。
 扉の周りが一段低くなっており、かろうじてそこが玄関であると分かる。それを上ると、奥に長い部屋が広がっていた。柱がその中央の床から、少し歪んだまま伸びている。それ以外の部屋は見当たらなかった。
 内部は薄暗く、薄汚れた壁から妙なものがいくつも吊り下がっている。柱よりこちら側の空間には、古びた机と椅子以外に家具という家具は見当たらなかった。奥の壁際の低い戸棚の上に重々しい燭台が置いてある様は、斎占の館を髣髴とさせた。
「……何をして暮らしておられるのですか」
「私? 占いだよ。何でもかんでも見えすぎて嫌われて、この村に来たのさね」
「そうですか。でも……あの、俺には魔物なんか憑いていないと思うのですが」
 刺激しないようにできるだけ柔らかく言うと、老婆は自分の肩を叩きながら鼻を鳴らした。
「あんた私を誰だと思ってるんだい。私はこの霧が不吉の前兆だってことも気付いてるんだよ。そんなものとっくに分かってるさ」
 は、と間抜けな声が洩れた。老婆が顔をしかめて肩を叩き続けていたので、駆け寄って代わりに叩いてやる。
「どういうことですか」
「とんでもない禍を背負ってるのはあっちの方なのさ。普通ならあっちを私のとこで見なきゃならないんだが、あれは強すぎてどうも手に負えないね。せめてあんただけでも離してやろうと思ったんだよ、感謝しな」
 そして俺の手をはねのけると、暗闇の中へと歩いていってしまう。すぐにギィと軋む音がして、四角く光が差し込んだ。そちらにも扉があったらしい。
「三日くらいならあの男も気にしないだろ。あんたの行くべき所へ行きな」
 訳が分からず、どこへ、と言いかけて口をつぐんだ。もう行くべき場所は決まっている。この老婆を見て連想した斎占の館だ。あそこは王都から離れているし、斎を読むという立場から中立を保った者も数多くいるはずだった。
 この老婆の言うことがどこまで信じられるかは分からない、しかし今の俺にとって、シュアと離れて行動する時間が必要なのは確かだった。何も無ければまた戻ってくればいいのだ。
「有難うございます、恩に着ます」
「なんでもいいから早く行きな。時間を無駄にするんじゃないよ」
 頭を下げて裏口から外へ出た。空はもう暗くなっており、巣へ帰る鳥の鳴き声がやけに心をかき立てた。誰もいない道を走り、平原へ出て森へ入る。その頃には辺りは真っ暗で、自分の足元さえよく見えなかった。霧が深くて空気が冷たいのだけが分かる。
 風を集めて飛び乗ると、北東の、斎占の館がある境界へと向かった。日に日に氷の季節へ向かう風は、今までで一番冷たく感じた。
 港のある南の中心街が遥か下に見えた。湖を突っ切って飛び、今眠ったら水の底だと自分の頬を叩く。やがて湖面は平原へと変わり、境界に近い森へと入った。精霊界では、時期でなく場所によって気候が決まっている。こちらが氷の季節に近付こうと、精霊界には何の問題も無いのだ。境界に近くなれば精霊界の力を受け、寒さからも逃れられるだろう。
 樹の少ない場所で地面に降りて歩いていく。しばらくすると空気が暖かくなった。風を集めて慎重に飛び上がり、森から突き出た塔で館の位置を確認する。
 草の中へ降りてそちらへ向かう途中、ふと気付いて腰部分の金具を開けた。その中には大臣に渡された薬が入っている。日々飲んでは頭痛で吐きそうになり、残りは三錠になっていた。
 この薬は夢の中身を覚えさせてくれる。しかし夢の中の俺が夢を見ないこともあり、そうそう望んだものが見られるわけではなかった。
 一錠を取り出して飲み込むと、すぐ吐き気と眩暈に襲われた。幹にしがみつきながら、ここで倒れても凍え死にはしないと、妙なところで安心する。
 やがて幹の間から人間界側の質素な門が見えてきたところで、体中から力が抜けてその場に倒れ込んだ。土は柔らかく草は湿って、俺の家と同じ匂いがした。