暗い部屋の奥には一すじの光が差していた。それは周りを照らし出すことはなく、部屋の大きさも色も置いてあるものも分からない。
 光の中には、皺の深く刻まれた老人がたゆたっている。長く伸びた髭や眉は重みなくゆらゆらと揺れ、彼からは姿以外に老いを感じられなかった。
 どこかから声がして、違う光が差し、また暗闇に戻る。部屋へ入ってきたのは四人の男女だった。男が二人に女も二人、男女で隣同士なところからすると二組の恋人といったところか。
 四人が光の前に立つと、老人の落ち窪んだ目がゆっくりと開いた。皺だらけの口が開く。
 しかし聞こえた彼の声は、口から発せられたものではなかった。上からも横からも後ろからも声が降り注ぎ、部屋そのものが唸っているかのようだ。それだけ分かっていても俺に声は聞こえない。流れ込んでくるのはその言葉の意味だけだ。
「新しい命を」
「全く新しい、可能性に満ちた命を」
 皺と斑だらけの骨ばった手が四人へ伸びた。その手には何も無かったが、左の男女の男の方、右の男女の女の方は、それぞれ受け取るように両手を差し出した。
 その腕が一瞬下に下がり、耐えるように少しだけ上へ上がる。何も無い空間から重いものが落ちてきたのだ。
 四人は深々と礼をして扉のほうへと去っていく。左の男と右の女の手に抱えられていたのは、産まれて間もないほどの小さな赤ん坊だった。





 目の前がやたらと明るかった。息を漏らして手で覆う。そのまま待っていると意識もはっきりして、周りの音も入ってきた。
 遠く窓の向こうからいつもの雑音、羊の鳴き声。わりあい近くで聞こえるのは水の音だ。布のきしむような音と、零れ落ちた重ったらしい水音。
 今がどんな状況なのかと思い出そうとするが、頭の痛みに遮られた。両手でこめかみを強く押さえる。
「起きちゃった?」
 更に近くで声がして、目を向けるとルナの顔があった。手に持った白い布を折りたたみ、俺の額に乗せてくれる。布も、それを乗せてくれたルナの手も驚くほど冷たかった。また手が荒れてしまう。
「最近どうも様子がおかしいと思ってたけど……具合が悪いならすぐ言いなさいって言ったでしょ。いきなり倒れちゃってびっくりしたわよ」
 そういえばそうだった。激しい頭の痛みで倒れて、それから意識が飛んでしまっていたのだ。見慣れた天井をぼんやりと眺める。
 いくつか夢を見た気がする。最近見ていなかった反動からかどこまでも深く、夢に縛られていく感じでもあった。
「どんくらい寝てた」
「倒れてからは四日になるかしら。あなたったら、目は開くくせに起きてるって感じがしないんだもの。一応、街のお医者さまに来て頂くよう頼んでるんだけど。そうだ、お腹空いてるでしょ。何か食べたい?」
 額の上の布が落ちない程度に、少しだけ首を振る。四日も眠っていたというくせに、食欲よりも眠気が強かった。
 ルナは何も言わずに椅子に座りなおす。当然のように窓側を眺めたが、その目がこちらを見てずっと動かないので、こちらも視線を合わせた。そのままで時間が流れ、窓の向こうからはまた間延びした鳴き声が聞こえる。
「ねえ、氷の季節になってからでいいかしら」
 突然、彼女の口がそんなことを呟いた。問いただすのも癪で、唾でも吐くように短く返す。
「何が」
「出て行くの。色々済ませなきゃいけないこともあるし、今すぐには無理なのよ。私といて気が立つのも分かるんだけど、それまでここに置いてちょうだい」
 眉をひそめてうつむいた碧い目を見、彼女に何を言ったのかを少しずつ思い出す。あんな我儘を真に受けるとは思わなかった、腹を立てるかと思っていたのに。
 受け入れられてしまった暴言に戸惑いを覚えた。この四日間、どんな思いで俺を看病していたのだろう。
「でもあなたが快復するまでは、どんなに怒られても居座るわよ。いいわね」
 何か言わなければいけなかった。弁解は早いうちにしておかなければ。息を吸ったが、声にしようとしたそれを喉のところで留めた。彼女がここを出て幸せになるのなら、追い出すのは間違いじゃない。
 ごちゃごちゃと考えるうちにまた頭が痛くなる。それと共に眠気が波のように襲ってきて、視界も暗くなった。





 王城は今、一つの話題で持ちきりだった。新しく役職に就いた大臣が突然提出した案で、昼夜それをめぐって議論が起きている。
 彼は現在の大臣の中ではかなり若く、革新的な考えを持っていた。それは国の益となることもあったし、今回のように火種となることもあった。しかし出世頭として注目を集めていたし、研がれた刃物のように斬新な切り口に魅せられる者もおり、彼の後ろにつく者は多かった。
 頭が切れて仕事ができ、王からの信頼も厚い彼は、何かしら関係を持っておけば損にはならない存在だったのだ。
 彼と位置を同じくする大臣は、彼の若い父親と言っても差し支えないくらいに歳が離れていた。知識豊富な古参の大臣で、着るものには気を使わないし、暇さえあれば自分の研究所にこもって何か実験している。だが大臣や兵、塔に住まう者との親交は深く、彼のことを慕う者は大勢いた。
 温厚で何事にも中立な目を持つ彼は、城下の者からも支持されていた。
 彼ら二人は年齢も気質も考え方も異なっていたが、国を発展させることに関しては合致していたので衝突することは無かった――ただ一つの議論を除いては。それこそが今、城内を騒がせている案だった。すなわち、人間を滅ぼして地上を統一させるべきだという。
 若い方の大臣は名をアーティと、老いた方はヴェインといった。

 二人が唾を飛ばして言い争っている。今早口で発言している若い方は、上から下までぴんと張り詰めた服を着ている。埃などどれほど近付いても見えず、髪も襟もきっちりと整えられている。規律をそれ以上に厳しく守る彼らしかった。
 一方で、言わせたままじっと聞いている方は、研究所から戻ったばかりのようだ。成りはしっかりしているものの、何かの液体のしみの飛んだ跡がある。強い薬でも使ったのか、焦げて穴の空いている箇所さえあった。しかしながら髭や髪はきちんと整えられている。
 若い方は言う、神の真理すら分からぬ彼らに神が奪われたままというのは納得がいかない。我々は一刻も早く神を取り返し、地を浄化するべきだ。
 答えて老いた方は、天上と地底の争いを見ろ。我々は一つの地上に住む者でありながら均衡を保っている。これは正に奇跡と呼ぶべきであり、神に誇るべき偉業である。
 声を荒げて若い方、同じ地上になぜ二つも種がいるのか。彼らは何も生まない、何を操るすべも持たずに流されているだけだ。私は彼らが嘆かわしい。この粛清は彼らへの救済でもあるのだ。
 眉を寄せて老いた方は息を吐く、それが違いというものだ。彼らは神にそう創られたのだから、我々の価値観でその良し悪しを判断すべきではない。彼らへの批判は神への冒涜だ。救済などと言うが、お前は神にでもなったつもりか。
 どちらも譲ることはなく、すると現状を保つヴェイン派が強いかに思われた。しかし実際に多くの支持を集めたのはアーティ派だった。彼は今や、若いながら国を動かせるだけの力と繋がりを持っていた。また、彼の案が精霊の優越感をひどく刺激するものだったことにも原因がある。
 対するヴェイン派は少しずつ支持者を失っていき、最後まで強く賛同していた者はごく少数だった。中でも位の高い者は片手で足りるほどで、そこには王城を囲む塔に住まうノディエ夫妻・ローエル夫妻も含まれていた。
 数からすればアーティ派が圧倒的に優勢で、精霊の兵は明日にも境界の向こうへ踏み込むのだと、誰もが思っていた。そして栄誉と神の祝福を胸に、境界を消して地上を我々のものにするのだと。
 しかしそれが最高潮に高まった時アーティは、自身が出して長い間支持してきた案をいとも簡単に翻した。
 指先を動かすだけで実行に移せそうだった野望を、涼しい顔で破り捨てたのだ。



 全てが緑に染まる場所に二組の夫婦はいた。その腕には一人ずつ、まだ年端もいかぬほどの幼い息子を抱えている。
 遥か上からはさらさらと霧のような雨が降り注いでいた。屋根の役割を果たすのは、大人二人程度の大きさに育った葉だ。それが何枚も重なり、植物群全体を自然と一体化した家としている。
 すぐそこに、きっちりとした正装に身を包んだ大臣が立っている。今回の件で最終的に勝ちはしたが、徹底的な負けを味わった方だ。
「もう戻らないのかね」
 左側の男が小さくうなずいた。彼の妻は幼子を腕に抱いて軽く揺らしている。子は小さな手をぎゅっと握りしめ、揺らぎに任せて目を閉じている。まだ短く柔らかい髪は、薄曇りの空の色をしていた。
「今回の件で居辛くなりましたし、この子たちにもこちらの方が良いでしょう」
「君たちには本当に支えられた。その結果がこんなことになってしまうとは、私としても遺憾だ」
 右側の夫妻は一歩乗り出して首を振った。男の腕に抱かれた幼子は、眠そうな目で辺りを観察している。髪も目も土の色だ。
「大臣がおられたからこそ、私たちも付いていくことが出来たのです。それに、できればこの子たちを王城に近付けたくはありません」
 それを聞き、彼はゆっくりとうなずいた。両の手を幼子の頭に乗せて優しく撫でる。
「君たちが親人間派についたのも、この子たちの存在が大きいのだろうね。君たちは互いに与え合い、理解しあえる。素晴らしいことだ」
 そして夫婦の後ろの岩と、それを取り囲む広大な植物群を眺めた。上のほうに広がる葉は裏側しか見えない。湿気で空気が重かったが、葉の隙間からは柔らかい光が漏れ始めていた。
「ここは良い環境だ。空気も甘く、良い風が吹いている。また寄らせていただくよ」
「大臣はやはり、王城に?」
「私の居場所はあそこだからね。なに、居辛くなれば研究所にこもるさ。まだやらねばならんことは山ほどある」
 背を向けた彼に、縋りつくように右側の女が声をかけた。
「なぜアーティ大臣が突然あの考えをやめたのか、私には分からず……嫌な予感がするのです。元からそのつもりだったのではないかと」
「どういうことだね」
 足を止めて振り返った彼に、眠りから覚めた幼子が手を伸ばす。女はうつむいて首を振った。
「説明はできないのですが、何か思惑があるような気がして仕方がないのです」
 一度離れた足音は、またこちらへと戻って短い銀髪を撫でた。幼い指はお返しとばかりに、同じ色の鼻髭を引っ張る。
「確証のないことを言うべきではないな。この国では言葉すらも自由にならないのが現状だ。だが君の言わんとすることは分かる、私も新しい研究を始める時のようだ。……いたた、そんなに引っ張るなリンク」
 彼が再度背を向けたとき、もう誰も縋る声はかけなかった。緑の光と霧の中に溶けて、いつしか後姿は見えなくなった。





 ゆっくりと目を開いて辺りを見回す。もう陽は暮れてしまったようだ。カーテンは閉められ、黄昏の残した最後の光が隙間から漏れてくるだけだ。
 部屋は暗く、隅は闇に沈んで全く見えなかった。どこかから規則正しい音が聞こえてくる。
 額の上の布はもう温くなり、水気も少なかった。裏返して額にのせると、かろうじて冷たさを感じられる。
 いくつ夢を見、そして忘れたのだろう。寝ているだけで疲れるなんて損なものだ。何も覚えてはいなかったが、懐かしい顔を見た気がした。懐かしいと思うだけで、もし覚えていても知らないに違いないのだが。
 薄闇に溶け込んだ扉を見つめた。階段を上る音も廊下のきしみも、ノブを回す音も聞こえやしない。
 どうして氷の季節に出て行くと言ったのだろう。一番寒さが厳しく、人も羊も村も大地さえ凍るような時期だ。どうせ延ばすなら緑の季節くらい言っておけば、こっちも納得しようがあったのに。
 音は無い。ルナが来る気配も無く、やがて外から漏れる光も無くなり、部屋は完全に闇へと沈んだ。