布団を深くかぶった中で、もらった小瓶を眺めた。中に入っている粒に関しては名前すら書いていない。 あれから気配を殺して岩山を抜け、相変わらず濃い夜霧の中を急いで宿へ飛んだ。強い風を受けて、裏通りに降り立つ頃には翅羽はぐしゃぐしゃだった。シュアの寝床はまだ空のままだ。 枕に頭を預けて深く息を吐いたところで、忍び寄るような静かな足音が聞こえた。落ち着いて深く息を吸うと、金属の擦れるか細い音がして足音が慎重に近付いてきた。 長い時間をかけて息を吐き出す。俺が寝ていることを確認したからか、布団に入る時の布の音は遠慮が無かった。きしむ音と共に息の音が流れてきて、それからは本物の寝息が続いていた。布団の中の手にある小瓶に目を戻す。 これは薬だろうか。まさか栄養剤なんてことはあるまい。見覚えは無く、それよりどうして自分に渡されたのかと疑問に思う。用意していたということは、誰かに渡すつもりだったのだろうか。 ヴェイン大臣があんな重々しい顔で入り口に立っていたのは、アーティ大臣を迎えるつもりだったからに違いない。罪状だと? 温厚で真面目な彼が何をしたというのか。それも、対として俺の生まれる前から共に仕事をしてきたアーティ大臣がそれを告げるとは何事なのか。 父も同然であるヴェイン大臣と、その組として幼い頃から畏敬の念を抱いてきたアーティ大臣。全く事件の全貌が見えない不安と、近しすぎる彼らがそれに関わっていることに、ただ焦りを覚えた。 朝は近かった。今日もここを取りおきするのを見越して、ベッドの下に小瓶を隠して眠りに付いた。 その日は中地区を重点的に回った。王都で見かけた人探しの立て札はこの街にもいくつか立てられていた。そのどれもが若い女性が消えたというもの、怪しい人物の情報を求めるものもあった。 神殿で出会った老女を思い出す。彼女の娘も連れ去られたと言っていた。声と似合わないくらいに疲れきった表情や、美しい空色だっただろう髪の根元の一年分の白髪は痛々しいほどだった。 シュアは神殿の時のように特に何かを調べようとする素振りはなく、無難に街を見回っているように見えた。 こいつはヴェイン大臣が捕らえられたことを知っているのだろうか。昨晩ガイルが来たなら知っている可能性はあったが、話に出さないということは知らないのか。 俺もヴェイン大臣の奇妙な捕らえられ方、様子、そして渡された薬で頭がいっぱいだった。大臣のあの言葉が無ければ、歪みの原因を探るなんていう与えられた使命なんて忘れていただろう。 あの言葉――地上が滲み出したと彼は言った。それがもしも歪みが広がりつつあるという意味なら、俺にあの薬を渡した謎も解けてくるのだった。 それならシュアに見せても構わないんじゃないかと、フードの後頭部を眺めながら何度か思った。 北地区は今まで見たことのなかった「港」という場所だそうで、回ってみたかったが夕暮れが近く、南地区へ帰ることとなった。 「今日は帰ろう。きっと明日だな」 聞き飽きた言葉を流して南へ急ぐ。時々、シュアはこの使命を果たす気がないんじゃないかと思うこともあった。王に驚くほどの忠誠心を見せるシュアに限ってそんなことは無いのだが。 俺に悟られまいと慎重に夜中の部屋を出て行く時のほうが、街を見回る時よりよほど真面目なように思えたのだ。 その日は夕方のうちから寝込むこともなく、ベッドの間の机に地図を広げて次に回る街を見た。 「残ってんのはこの六つだな。南西のここ、真っすぐ西に進んで最果てのここ、北東に森を抜けてここ、……」 「行ったことは?」 「無いが、中心の湖から大きく離れてるからちっぽけな村だろうな。そこから東に川の上流へ向かってここ、北へ進んでここ、東へ進んでここ、で全部だ。後の三つはまあ街くらいの大きさはあるんじゃないか」 最後の一つは王都にも湖にも近く、栄えていそうだった。 その日は夜更けまで話し込んだので、睡眠時間を削ってまでガイルに会いに行くことはないだろうと思った。実際シュアの寝息はすぐそこで続いていたが、部屋の扉の開く音がしたのも本当だった。その音で起きたというように寝息はぴたりと止み、扉へと歩いていった。 眠気と戦いながら考える。最初に扉を開けたのはシュアではなかった、しかしシュアは出て行った。つまり扉を開けたのはガイルだ。ヴェイン大臣の事件が伝わったのか。 すぐにシュアらしき足音は帰ってきて布の音がした。やはり何らかの緊急情報だったらしい。 その後不審な音はせず、朝になってシュアはいつもと全く違う重々しい顔で俺に告げた。 「ヴェインが造反で捕らえられた。本人も罪を認め、北方の牢で刑を待っている状態だそうだ。お前の育ての親だろ、会いに行け」 その姿はヴェイン大臣を嫌っていたいつものものとは似ても似つかなかった。 「でも、王の使命は」 「王からも最後に話をするよう御言葉があったらしい。俺も行くからお前も行け」 昔両親がいた頃、シュアは俺と同じくヴェイン大臣を慕っていた。それを少しでも思い出したのかと安堵し、同時に、疑っていたことへの慙愧ばかりが浮かんだ。 斎占師の館から山を越えて東へ飛んだ辺りに牢はある。王都にも牢はあるが、こちらは重い罪を犯し最後を待つ者のための場所だ。北方の牢行きといえば極刑待ちを意味する。俺がどうあがこうが、もうどうにもならない場所だった。 荒れ果てた岩場が近く、ヴェイン大臣の研究所とは違った侘しさがある。 岩場にぽつんと埋まるように建った牢は、岩と代わり映えしない灰色で、気の滅入る場所だった。通された廊下も狭く、所々で曲がっていて視界が開けない。吹きすさぶ風は冷たく、びゅうと鋭い音を立てて通り抜けていく。最後という言葉にじわじわ締め付けられるようだった。 「ローエル殿、こちらです」 そう言われたとき目の前にあったのは、上から下まで灰色の扉だった。シュアはその場に立ち止まる。 どうしたわけか、思ったよりも落ち着いていた。彼が捕まったその時に衝撃は嫌と言うほど味わったし、もうどうにもならない場所なのだ。 今まで引いた中で一番重いだろう扉に手をかけ、自分が入れるだけの隙間を作って中へ滑り込む。最初に見えたのは奥にいる兵、左手には天井から床へ貫く柵、そしてその奥にはさらに痩せこけたヴェイン大臣。 服はぼろぼろで、老いた印の浮き出た腕は後ろで縛られている。目には布がきつく巻きつけられ、大臣であった頃の面影はどこにも無かった。愕然とする俺の後ろを兵が通って出て行った。この部屋には二人きりだ。 もうどうにもならないと、分かってはいるのに肩が震えた。こちらを向いた大臣に気取られぬよう近付く。柵を挟んで向かい合うように座った。 「リンクだな。息の音で分かる」 「はい。国家反逆ってどういうことなんですか。俺にはどうしても、あなたがそんなことをするようには見えない」 感情をできるだけ殺した声は、逆に子供じみてみっともなかった。自分でも聞いていられたものではない。しかしそんな俺に対する大臣の声はやけにしっかりしていた。 「まあそれは扉の外の者たちにでも聞くといい。今は思い出話でもしようじゃないか」 「思い出? そんな、まるで本当に最後みたいな」 「昔、お前やシュアの両親がいた頃はよく夕食なんかを共にしたな。彼らは昔の事件で塔を出てからも、媚びることも歯向かうこともせず生きていた。あの友人は私の誇りだ」 縋りつく俺を遮るようにして、強い表情のまま彼は話し始めた。外で聞き耳を立てられている可能性から、罪については話さないということだろうか。 彼の思うようにさせるのが一番だ。ただ思い出を手繰り寄せながら聞く。 「幼いお前が間違って、父親の集めていた酒の小瓶を開けたことがあったんだ。この話は何度か話したから覚えているな。酔って大変だったんだぞ」 はは、と昔語りに慰めでも見出すように大臣は笑った。 しかし――違う。俺の父親は酒など飲まなかったし、そんな事件があったなど一度も聞かなかった。これは全くの作り話だ。大臣は俺に、思い出話に紛れ込ませて何かを伝えようとしているのだ。 頭の中でもう一度、今の彼を思い出す。かさかさになった彼の唇が、ある単語を綴るときだけ無駄な動きをしていたのに気付いた。 小瓶。 「どんな薬草でも酔いは覚めませんからね。あのせいで今でも酒が飲めないんですよ」 対する答えは薬だった。彼の言っているのはあの小瓶のことなのか。 「そうだな、しかし酒は気持ちを解放させるからな。思い切って飲んでみるのも手だぞ。年寄りの言は聞いておくものだ」 肯定、そして対する答えは、飲め。扉の向こうにいる兵の存在に寒気が立った。 「耳が無いわけじゃないんだからな。ところでシュアとは同じ使命を受けているらしいが、ちゃんと出来ているか。私にとってお前は子同然だから心配で仕方がないんだ。なにしろ行く先なんて靄だらけの道だからな」 耳が無いというのは人間か? そしてシュア、使命、子も伝えたい言葉だろうか。靄……霧? だとすると、この前の地上が滲み出したという言葉のことか。 「しかし先走っちゃいかん、過去を見据えるのが一番なんだ。今というのはあくまで過去と未来の境目にすぎないんだからな」 過去を見据えるというのは確か前にも聞いた言葉だった。そうだ、斎占師のオーガが言っていた。次は境目。王の言っていた現実と夢の境のことか、それとも人間界との境界のことか? 次々と並べられていく言葉の中から、取ってつけたような口の動きをしているものを拾うので精一杯だった。 「ローエル殿、時間です。お下がりください」 扉の向こうの兵にそう言われた時、最初に言われた言葉にも妙な口の動きのものが混じっていることに気が付いた。「昔の事件」――俺とシュアの両親が塔を出るきっかけとなったもの。 最後の最後まで彼は力強く俺の背を押してくれたのだ。立ち上がって深くうなずき、灰色の扉を押した。その時向かいの窓から見えたのは、ごつごつした岩山だけでなく、その隙間から鮮やかに覗いている青空だった。 牢を出ていくらもしないうちに、シュアが俺の手を取った。両の掌を眺めてすぐに放す。 「どうした」 大臣とあんな会話をした後だから内心どきりとした。その手で風を集め、丁度いい暴れ具合に調整する。シュアは集めた風に乗って俺を見下ろした。 「ヴェインはお前に何か渡さなかったか」 「何かって?」 風に乗り、シュアより先にあの宿屋を目指した。何か、が意味しているのはきっと、俺の受け取った小瓶に入った薬のことだ。あれが大臣の研究していたものなのだ。 「ヴェインは国家に歯向かうためのものを研究してたし、それを記した書類も丸々見付かってる。奴の罪は明白だが、書類の最後の一枚と作られたものが見付かってないんだ。どんだけ訊いてもそれ以上の研究は進んでないの一点張り」 「で、俺になら渡すかもってか。でも彼の持っているものは調べたんだろ」 「隠した場所とか言ってんじゃねーのかって思って」 その顔に浮かんでいるのは好奇心だけだ。昨日、シュアになら見せてもいいんじゃないかと思ったことを思い出す。こいつも、歪みを見付け出そうと歩いている仲間なのだ。 「他愛のない思い出話だけだよ。扉の向こうからもいくらか聞こえただろ」 しかし大臣の言った「シュア」という言葉が気に掛かっていた。まだ何も言わなくていい。本当に言うべきなら、その時は来るはずなのだ。何でもないように言って、話を蒸し返されないうちに言葉を続けた。 「宿に戻るか。今日はどこも回れないな」 表情を見られないよう、常にシュアの前を飛んだ。ヴェイン大臣の薬を手に入れるために俺を牢へ行かせたのではとか、昨晩そうするようガイルに言われたのではとか、悪い方にばかり想像が傾いていて顔向けできそうになかった。 面会の時に兵が出て行ったのも、その想像に拍車をかけていた。あれではまるで、俺に何かを伝えるのを期待しているようだ。俺はすでに薬を渡されていたし、さっきは無難に聞こえる話をしただけで終わったのだが。 ゆっくり飛び、平原に出てからは歩いたため、宿屋に着く頃には空は暗くなっていた。 幼い頃を兄弟のように過ごした朋友として、使命に向かって共に旅する仲間として、何もかも言ってしまえればどんなに良かっただろう。孤児院の村に泊まっているとき、黙って自分の家へ帰ったことも、そこでシュアの幻を見たことも、抱いた秘密と疑いの全てを笑い話にしてしまいたかった。 それでもシュアが部屋を出ているうちに、ベッドの下の小瓶から一粒を取り出した俺は今までになく冷静だった。 枕の脇に隠しおき、寝静まった後で覚悟を決めて飲み込む。小さな薬は飲み込むよりも早く、舌の上で溶けていった。 味も匂いもないと思った途端に、内側から殴られるようなひどい頭痛に襲われた。やっと見えてきたはずの闇の中の室内が、二重にぼやけてまた見えなくなる。 アーティ大臣やシュアが言ったのは、国家に歯向かうという漠然とした表現だったが、精霊に効く毒でも入っていたのか。震える指で布団に爪を立てる。 それでも俺にとっては、王やアーティ大臣よりもヴェイン大臣の方が信じるに値した。 頭の痛みはどんどん強くなり、膨張と縮小がいっぺんに起こっているかのような吐き気と眩暈に襲われた。それでもただ息を殺して眠りを装うしかなかった。 戻 扉 進 |