自分が今、眠っているのか起きているのかもつかめなかった。頭の芯が溶けているのではと思うくらい、ぼうっと時間の流れを感じた。
 ふと辺りを見回し、自分がご丁寧にもベッドに座っていることに気付いた。寝転がれば少しは疲れが取れたかもしれないのにと、少し後悔する。
 部屋は薄暗く、カーテンの向こうだけが少し明るかった。時々揺れているところを見ると窓が開いているらしい。閉めようと立ち上がると、頭の奥がズキンと痛んだ。思わず目をつむって息を止める。
 窓枠は冷えきって痛いほどだった。空は白く、今が一体いつなのかも分からない。人通りを見ようにも、この村じゃ朝も夜も同じようなものだ。
 遠くから木のきしむ音が近付いてきた。痛む頭を押さえて一歩一歩進み、寄りかかるように扉を開けて、階段側の廊下を見る。
「あら、もう起きてた。最近寝起きがいいわね」
「……朝飯?」
「ええ。どうしたの、顔色が悪いみたいよ。それから朝はパンか昨日の残りか」
「いや、いい。食べたくない」
 それだけ言って扉を閉めた。追うように外からコンコンとノックの音がする。
「大丈夫なの? 具合が悪いなら言いなさいよ。食べたくなったら降りてきなさいね、パンを置いておくから」
 きしみが遠ざかっていく。すっきりしない頭で服を着替え、また窓を開け直すと廊下へ出た。誰もいない居間を通って外へ出る。その途端、寒さに体中を殴られた。鳥肌を我慢して顔を洗うと、頭は眠気を残しながらも次第に晴れてきた。
 今確かめなくちゃいけないのは彼女のことだ。メリッサ……とか言っただろうか、面白いくらいにどんどん薄れて消えていく。
 彼女は墓場からかき消されたようにいなくなってしまった。俺の記憶も、何故か彼女に関することをどんどん落としていく。記憶が無いといえば王都から帰る道のりもそうだった。
 そして今は馬鹿げたことさえ考えている。畑に現れて墓場へ連れて行ったメリッサは、本当に現実のものだったのか。
 村の入り口側へ足を向けると、役場より手前に、この村では大きめの家が見えてくる。ユクスの家だ。家の隣にある厩舎の中からこちらを見ている馬を見た。
「チェイン、どうした」
 扉へ近付く途中で庭から声がした。そちらには箱や藁を山ほど積んだ荷車があり、落ちないよう紐で縛られている。その向こうから顔を出したのはユクスだった。
「お前ちょっと手伝えよ。あっちから二頭引っ張ってきてくれ」
 仕方なく厩舎へ行き、大人しそうな馬を選んで馬房から出す。ユクスに手綱を渡すと、素早くそれと荷車を結びつけていった。見る間に馬車が出来上がる。
「明々後日までにさ、学園都市ってあるだろ、あっこに持ってかなきゃなんなくてさ」
 独り言のように呟き、結び目をもう一度引っ張って荷台に乗る。荷物の上にあったらしい鞭を右手に持ち、俺を見下ろした。
「で、何の用だっけ」
「訊きたいことがあるんだけど、時間無いか」
 ユクスは天を仰いで二度ほど肩を鳴らすと、こちらへ向き直った。
「これ届けなくちゃなんねぇからなあ。お前こそ、暇だったら乗ってかないか」
 親指で示された先に上り、狭い足場を見付けて腰を落ち着かせた。ピシッと軽い音がして馬車が動き出す。早歩き程度の速さで景色が流れていくのを見て、昔はユクスの父さんに乗せてもらったものだと思い出した。
「宿代は半分ずつな。んで訊きたいことって?」
「ああ。メリッサのことだけど、あの子って本当に学園都市に住んでんのかなと思って。ほら、疑うわけじゃないんだけどさ、それにしちゃ頻繁にこっちに来てるんだよ。あんなか弱そうな子なのに、それも一人で」
 何の返事も無かった。車が凸凹の道を進んでいく振動と、がたがたと箱の揺れる音が聞こえる。
「うん、誰だって?」
「メリッサ。結構前だけど、果ての湖に行った時に会った子がいただろ。ほら、お前もキャス……キャサリアって子と仲良くなってた」
 ユクスは何か思い出そうとするように上を見てぶつぶつ呟いた。が、最後には怪訝な顔をして俺を見る。
「覚えてないな。結構前っていつだ、何年か前?」
「一年も経ってない。緑の季節の半ば近くの頃だよ。キャスって覚えてないのか、短い黒髪で早口な」
「キャスねえ。そんな最近に知り合った子なんていたっけな」
 ユクスは掌に顎を乗せて考え込む。その表情は嘘を吐いているものではないが、だからこそこっちの焦りは募った。必死に言葉を繋げていく。
「四人で一緒に歩いていっただろうが。そうだ、お前、俺の家に迎えに来ただろ。俺が起きるの遅かったもんだから」
 そこまで言うと、ユクスは俺のほうへ傾いていた体勢を元に戻して肩をすくめた。
「そこまで詳しく言われちまうとさ、覚えてないじゃなく、絶対にそんなこと無かったとしか言いようがなくなるな。本当にそんな覚え無ぇもん。あったらもっと輝いた休日を送ってるさ」
 きっぱりと言われ、何も言いようが無くなってしまう。ユクスは覚えていない、いや、俺の記憶を無かったものだと言う。しかし俺がユクスに会ったのは本当だし、メリッサを乗せて小舟を漕いだのも覚えている。果ての湖へは確かに行ったのだ。
 それに、その後メリッサに会って王都や神殿まで行った。ルナは俺が出かけていたことを認めたし、ユクスが迎えに来たときのことも、どうにかすれば思い出してくれるだろう。
「手ぇ繋いだり腕組んだりすんだぜ。いいなあ! なあ!」
 ユクスの腕が俺の背中をばしばしと叩いた。その勢いで荷台から落ちそうになって、慌てて座り直す。この調子では、キャスのことを知らないのは確実だ。あってはならないことが現実になりかけているような、嫌な感じがした。
 俺が間違っているのか? 知らないところから知らない記憶を引きずり出してしまったのか? 手を握った時の温かさも嘘だっていうのか。
「訊きたいことってそんだけか。そしたらどうする、まだ川も渡る前だし降りて帰るか」
「学園都市に向かってるって言ったよな。それって王都の手前の、学校とかいっぱいある街のことか」
「そうだよ。そん中の一つが創立何十周年かでさ、そんで届けなきゃなんないんだ」
 それはメリッサの住んでいた街だ。確か彼女の家は宿屋で、二階の廊下の窓からは学校や噴水、飴玉のように色とりどりに固められた道が見えた。
 ユクスもそこへ行き、メリッサに会えば納得するだろう。キャスや果ての湖へ行ったことを知らなくても、確かにあったことなのだと分かってくれるに違いない。
 川にかかった橋を通り過ぎ、軽い鞭の音が響く。空はまだ白みを帯びていたが、浮かんだ雲の形が分かるくらいには晴れていた。馬車はごとごとと揺れながら隣街を目指した。



 それから二日目の陽が落ちる頃に湖が見えてきた。ゆるやかに波打つ水面は、空を映して橙色に染まっている。単調な車輪の音は眠気を誘い、俺たちの会話はいつしか止んでいた。
「そろそろ着くぞ」
 ぼうっと眺めていた空から視線を離し、ユクスに向けた。赤い空の中に黒く影だけが見える。
「しかし寒いな、もうそんな季節か」
 その手が俺の後ろの箱に伸びて何かを引っ張り出した。土色の汚れた毛布だ。一つを俺に渡し、もう一つを自分に巻き付ける。何も無いよりはましという程度だった。隣の毛布の中からくぐもった声が聞こえた。
「この辺り、こんなに霧多かったっけ」
「霧?」
 意識して見回すと、なるほど視界はいつもより不透明だ。空気が湿っていないので気付かなかった。
「今年はいつもより冷えるっていうからな、そのせいじゃないか」
 薄く靄がかったような灰色の景色の向こうから低い壁が現れた。もう夜に近付いた空の中で、所々から光がぽうっと浮かんでいる。それは確かにこの前見た風景だった。
 ユクスがごそごそと許可証を取り出した。証がいるという妙な風習もメリッサと行動した時のままだ。
 門の前で馬を止めると、証を取り出して門番に手渡す。しばらく点検された後それを返還され、門は重々しいきしみ音を上げながら開いた。
「宿探すのは、これ届けた後だな。どっか部屋空いてるかな」
「それなら俺が知ってるとこ紹介しようか。一部屋くらいなら工面してくれるかもしれない」
 その時に思い描いていたのは、もちろんメリッサの宿屋だった。質素だがきちんと整えられた部屋、窓から見える都会の風景、踊り場にかけられた幻想画、ちょっと遡るだけでいくらでも思い出すことができる。
 ユクスの馬車は暗くなった街をどんどん進んだ。小さい家々に屋根の尖った何かの建物、そしてその隙間から見えてくる四角い建物。それは俺がメリッサとこの街に入ったときの順路と同じだった。
 やがて馬車は一つの学校の前で止まった。きっとこれが創立何十年目だかの学校なのだろう。その脇に置いてあるよく磨かれた石には、何年に誰々に創立されたとかいう文字が彫ってある。それは今から何十年も前だった。
 そしてそこは、前に来た時にメリッサの宿屋があった場所だった。





 家の扉を開けると、丁度ルナが自分の部屋から出てきたところだった。怒りをあからさまに顔に出して、ばたばたとこちらへ歩いてくる。
「チェイン! この前も今回も、どうして何も言わずに出て行くのよ。心配でたまらなかったって言ったでしょう」
 靴を脱ぎ、ルナを押しのけて階段へと歩く。その後ろに小言を呟きながらルナが付いてきた。
「出かけるなとは言わないわ、せめて書き置きは残していってちょうだい。何かあったんじゃないかって心配になるでしょう」
 階段を上っている時も声は止まない。俺の足音から一歩遅れてもう一つの足音が聞こえた。
「あなたは出て行く側だからどうも思わないかもしれないけど、残される側はたまったものじゃないの。ねえ聞いてるの?」
 ノブにかけた手をルナの手がぱっと掴んだ。いつもと同じ傷だらけの手だった。ノブを離して、その手も振り払う。ルナはいよいよ声を張り上げる。
「チェイン!」
「なあ、ずっと前にユクスが来たの覚えてるか」
 怒りばかりだった表情が意外そうなものに変わった。俺の向こうの天井を眺め、ぶつぶつと呟く。
「ユクスっていつもの子よね。あれでしょ、あなたがなかなか起きなくて、ここで待ってもらった。どのくらい前だっけ、まだ暖かい頃よね」
 その記憶だ。ルナは覚えていた。ユクスは全く覚えていなかったが、これで俺が正しいということになるはずだった。
「それからえーっと、女の子と待ち合わせとか言ってたっけ。どうなのよ、誰かいい子いたの。紹介しなさいよ」
 しかし一昨晩行った学園都市からは、メリッサも彼女の宿屋もどこかへ消えてしまっていた。いや、消えたという言い方は違う。あの学校は何十年も前から建っていたものだ。
 いくらあの朝が本物だと証明できたところで、彼女は存在しない人で、存在しない宿屋で暮らしていたのだ。俺も、存在しない宿屋で存在しないはずの景色を見た。それ以外に答えは見付からなかった。
 ルナの答えを聞いた時の安堵は、ますます絡まっていく記憶に拍車をかけた。せめてユクスが来たなんて覚えていなければ、俺一人がおかしかったという結論で片付けられたのに。
「待って、そんな話をしてたんじゃないわよ。あなたが帰ってこなかったらどうしようって、どれだけ心配したことか」
 胸に苛つきが溜まり、今までに感じてきた惑いと奇妙さに積もってどんどん膨らんでいく。それは理不尽な怒りだったが、分かっていても止められはしなかった。そんな芸当ができるくらいなら、こんな三年間を送ってはいない。
 こんな馬鹿げた、胸の沸騰しそうな、それでいて狂おしい三年間。その全ては彼女と暮らした日々だった。
「帰ってこなけりゃ良かったって思ってんじゃねぇの。父さんはもういないことだし、いい加減に俺の世話にも飽きただろ」
 ルナの目が見開かれて、碧色が鮮やかに揺れる。口をぽかんと開いたまま身動き一つしない。
「三年間、泣き言も言わず愚夫と愚息の面倒を見てくれてご苦労様でした、お母さま」
 ノブを回して扉を開けた。カーテンを閉め切った部屋は、まだ昼のはずなのに暗闇であるかに思われた。振り返ることもなく、吐き捨てるように言う。
「さよなら。もう出て行っていいよ。どうせお前はアトリー家の人間として登録漏れされてたみたいだし、丁度いいじゃん」
 暗闇の中へ入り、灯りをつける前に扉を閉めていく。
 しかし完全に閉めて暗闇になる前に襲ってきたのは、釘を脳天に打ち込まれるような、体中を貫く痛みだった。続いて、墓場で感じたのとは比べ物にならないくらいの吐き気と眩暈が追ってくる。足の感覚がきかなくなり、頭を抱えて座り込む。やがてそれもできなくなり、その場に倒れこんだ。
 床から木と蝋の匂いがする。体の感覚は失われ、指先から痺れていく。
 派手な音にドアを開けたルナがどんな顔をしたのかも、見えはしなかった。