急いで自分の部屋へ飛び帰り、布団にくるまって冷えた体を温めた。早く眠らなければ明日に支障が出ることは分かりきっていたが、どれだけ経っても動悸はおさまらなかった。
 あれはシュアだった。その姿はどこにも無かったが、確かにあの形相を見た。
 過去の記憶を蘇らせているだけかもしれなかった。ガイルに会っていたあの晩、確かにシュアはあれと似た恐ろしい表情をしたし、俺はそれに驚いた。
 しかし、それがどうしてさっき蘇ったんだ。関連するものなど何も無かった。
 思考と目を閉じて眠ろうとするが、瞼の裏に焼きついたあの像は消えない。おぼろげになっているが、それは確かに見たものだった。俺が想像で作り出したものではない。
 そうだ、あれはあの晩のシュアの表情じゃない。いつだったか、家の中から岩間を向いたときに見た表情だ。だからさっき、同じように岩間を向いたことで浮かんできたんだ。
 だが、いつ? シュアを俺の家へ招いたのは、命を受けて直後のあの日が初めてのはずだった。十数年前ならよく遊びに来ていたが、あれはそんなに遠い記憶じゃない。あの鮮やかさはもっと最近のはずだ。
 考えるほどにぐちゃぐちゃと絡まっていく。全て俺の気のせいだと思いたかったが、何か妙なことが続いている気がする。
 最初に奇妙さをしまい込んだのはいつだったか。今までに会ってきた奇妙な人物を浮かべていくと、最初に浮かんだのは生成りの布だった。その形が段々と鮮明になり、頭から足首までを覆い、果ては口元までも隠してオーガとなった。
 歪みはある、斎占の館で彼女はそう言った。人間界にあると言っておきながら、何故それ以上は教えてくれなかったのだ。今更ため息をつく。
 ……ふと思いついて起き上がり、扉まで歩いて鍵を確認した。きっちりと閉まっている。
 斎占の館を出る日の朝、鍵は開いていた。あの時は「閉めたつもりで開けた」と納得したが、よく考えればそんなことは有り得ないのだ。俺には、自分が部屋に入るときに鍵を閉める癖があるのだから。
 ノブに触れたまま体が動かなくなる。床の冷たさが足を這い上がってきて、そのまま氷に変わる。
 斎占師が開けて、何か物色したのだろうか。部屋の様子は全く変わっていなかったが、それ以外に扉の鍵が開く理由が無い。
 扉の向こうに誰かがいて俺が眠りにつくのを伺っているんじゃないかと、そんな気がした。隣の部屋からは物音一つ聞こえず、本当にシュアがいるのかも疑わしい。
「シュア……そうだ、シュアだ」
 唐突に思い当たると、肩の重いものが溶けていくようだった。ノブから手を離して布団へ戻る。
 あの時もガイルが来て外へ出たに違いない。だから部屋の様子は変わっていなかったんだ。
 考えてみれば斎占師には、鍵を開けて侵入するなどという危険を冒す理由など無いのだ。こちらの方が位も力も強いから、下手をすれば重罰を受けることになる。
 そういえば命を受けた直後シュアの家に泊まったが、次の朝あいつは何と言った。「オレはお前より遅かったんだ」……それはつまり、俺が眠っている間に起き出し、ガイルと話をしていたということだ。気付いてみれば単純なことだった。
 一つ謎が解けて、ほっと頭の中が休まる。俺の家で見たシュアの幻には納得のいく説明ができなかったが、とりあえず今日は眠れそうだ。
 深く息を吐くと、ぐちゃぐちゃに泳いで混乱した頭の中が晴れていく。うつろになる意識の中で、奥のほうから声がした。
 どうしてシュアは、ガイルと会っていることを隠していた?



 扉の前をどたどたと走り回る音で目が覚めた。布団を畳んで服を替え、きちんとローブを着込んで廊下へ出る。
 子供たちはもう起き、一階へ降りてきていた。眠そうに目をこする奴も、元気に走り回ったり取っ組み合いをする奴もいる。その無邪気な様子は精霊も人間も一緒だった。
 一つ奥の扉の前でしばし待ち、中から音がしないのを確認してノブに手をかける。それは引っかかることなく回った。やはりシュアには鍵をかける癖が無いのだ。俺にはうるさく言うくせに無用心なものだ。
 扉が開く。鍵のことを調べたかっただけなのに、まるで自分が忍び込もうとでもしていたようで、わざと大きく音を立てて扉を閉めた。大げさな足取りで布団まで歩いていくが、シュアはまだすやすやと寝息を立てていた。
「シュア。起きるぞ」
「うん……?」
「朝だ。次の街へ行くんだろ」
 布団をはがして強引に起こし、用意をせき立てる。うつらうつらしながら壁にかけたローブを取るのを見て苦笑すると共に、昨晩わずかにシュアを疑わしく思ったことが浮かび上がってきた。
 結局会えなかったが、俺だってライアに会いに行こうとしたのだ。別にガイルと会っていたことを責める気は無かった。それがどういった意味を持つのかと、それだけだ。
「もうガキが起き出してやがるな。耳と背に気ぃ付けろよ」
 短くうなずき、シュアの背をぴたりと追っていく。しばらく大人しく従っておこう。いざという時に動けないのでは話にならない。
 村を出てからは湖岸の森に沿って、ひたすら西へと進んだ。細い川を越えるとすぐに急な崖が左手に見える。それは人間界の北と南にのみ広がる大きな山地の端だった。
 深緑の斜面からは斜めに木の幹が突き出しており、長く伸びた枝は疲れた様子で下へたわんでいる。
 どちらかというと涼しいのだが、体にじっとりとまとわりつくものを感じた。フードの中の髪は冷たく湿っている。
「ここら辺は霧が多いな」
 でこぼこした道を歩きながらシュアが呟いた。足元には石がごろごろ転がっており、人通りもほとんど無いのだろうと思わせる。
「来たことないのか」
「通ったことはあるんだが、前はこんなに霧が深かったかな。季節が違うからかもな」
 茶の鋭い目が周りを確認した。手に少しの風を集めて無茶苦茶に振り回すと、霧はその部分だけ晴れ、しかしまたすぐに視界を曖昧に塞いだ。
「無理だって。霧なんてあっても、湖に沿ってれば迷わないんだから」
「まあな、もっと低いとこに出りゃ大丈夫だろうな」
 山の所々に空いた洞窟で夜を明かし、山地を過ぎると森の中で雨をやり過ごした。その間はただ忠実に言われたことを守り通した。
 やがてどんどん森が狭くなった先に、その大きな街はあった。王都まではいかないが、周りを壁で囲んだ厳戒な住処だ。
「南で一番栄えてる街だと。ま、王都とは湖を挟んで向かい合わせになってるから、何かと便利なんだろうな」
 シュアの肩の後ろから地図を覗き込む。確かにこれまで通った二つの街は、湖というより川に面していた。あれでは船とかいうでかい乗り物は自由に行き来できない。
「オレもここ来んのは初めてだし、全部見て回るには何日かかかるな」
 道の傍らには街の地図があったが、南の商業地区・中の行政地区・北の港地区に分かれており、王都よりも広いのではないかという印象を受ける。建物の並びが王都よりごちゃごちゃしていたせいかもしれなかった。
「道がうねってんだな。裏道も目いっぱいあるみたいだし、こりゃ迷いやすいな……リンク」
「うん?」
「道覚えはお前に任せた。そしたら行くか」
 それが最初の仕事か。この命はシュア一人でも問題ないんじゃと思っていたが、こういった使い方もあるらしい。ため息をついて同意を示した。
 夜が迫るまでに回れたのは南地区の半分で、うようよしていた客引きから適当な宿屋を選んで部屋を借りた。安くて内装も凝っていないが、部屋の大きさだけはちゃんとある宿だ。
 部屋に入るや否や、シュアは入り口側のベッドに寝転んで寝息を立て始めた。
「シュア、ちゃんと休んだ方がいいぞ」
 鍵をかけて窓側のベッドに腰掛け、脱いだローブを畳んで二つのベッドの間の机に置く。シュアは生返事を返すと布団に潜り込み、そのまま眠ってしまった。灯りを消して俺も眠りにつく。
 その夜、俺の目が覚めている間にシュアが部屋を出て行く気配は無かった。



 次の日は同じ部屋を取りおきして宿屋を出、南地区と中地区の一部を回った。中地区は、行政地区といっても街庁や役場ばかりではなく、図書館や学校、遊び場に住宅地というものも多かった。
 しかし当然のように何も見付からず、夕暮れになると諦めすら見えない顔でシュアはいつもの言葉を言った。
「今日は帰るか。明日だ明日」
 何十日この繰り返しが過ぎたのかも覚えておらず、落胆すら消えかかっていた。宿に戻ってからシュアは、まだ夜も訪れる前だというのに布団に潜り込んだ。人間界の地図を真ん中の机に広げていたが、程なくして窓からの赤い光を布で遮り、俺も布団の中で待った。
 窓の外の騒がしさはしばらくすると消え、布から漏れた光も色を失っていった。ゆっくりと息を吐き出しながらも、じっと後ろの物音に耳を澄ませていた。
 落ち着いて、しかし眠りはしないように、様々に思いを巡らせていく。それはこの命に関するものに留まらず、十数年前の思い出にまで及んだが、やはりある時の記憶だけはぶっつりと無くなっている。糸の二箇所を切って、一部分だけを除いたまま繋ぎ合わせたようだった。
 俺の家に父と母がいたことも、その近くにノディエ一家が住んでいたことも知っている。ヴェイン大臣の研究所で過ごした少年時代も、その後ライアが来るまで一人で過ごした家のことも覚えている。その二つを繋ぐものが欠けているのだ。
 突然、寝息の間隔が変わった。布団を折る静かな音がして、寝息としか思えない静かな息の音はゆっくりと遠ざかっていった。鍵を開ける冷たい音がして部屋の扉が開き、閉まる。
 少しずつ霞がかってきた視界は今や完全に晴れていた。これで仮説は証明されたようなものだ。今、シュアは部屋を出て行った。
 こちらも起き上がると、畳んでおいたものをいくつか丸めて布団の中に詰めた。ローブだけを頭から被って窓から外へと降り立つ。
 ライアが見付からない今、不可解な全てを相談できそうなのは一人しかいなかった。二人目の父親と言うべきヴェイン大臣だ。
 シュアの許可証無しにはこの街の門を通ることができない。人通りのない裏道を選んで風をかき集める。やはりこんな壁に囲まれた街の壁に囲まれた裏道では、風も縮こまってなかなか形を成さない。両手に力を篭め、強引に空へ飛べるだけの座を作った。
 もし途中で崩れそうになったら、またそこで風を集めればいい。少なくともここよりは質の良い空気があるだろう。そう自分を納得させると、勢いをつけて空高くまで飛んだ。耳にごうっと音が吹き込む。目指すのは、斎占師の館とは逆の境界沿いにある岩山だ。
 見付からないくらいに高くまで飛び上がり、ローブから翅羽を解放して全力で西へと飛んでいく。右手に見えていた湖はすぐに後ろへ流れていき、平原と川が現れた。森が見えてもう一つ小さな湖が見えた後は、険しい山と深い森が続く。これを抜けると大臣の研究所だ。
 夜霧は濃く冷たかった。霞んでいるというよりは滲みに近い、妙な霧だ。しばらくして針のような岩場が見えてきたところで高度を落とし、降り立った。その途端、吹き付ける風に足を掬われそうになって踏みとどまる。
「うわっ、寒……」
 この辺りは季節に関わらず雪の降ることが多い。風にさらされた汗が急激に冷えて、体から熱を奪っていく。翅羽をローブにしまい込んで岩だらけの足場をつたい、灯りのある場所を探した。
 軽く空に飛び上がって辺りを見渡す。わずかにぽうっと光っている一帯を見付け、そこへ飛んだ。
 その穴は岩々に隠されるようにして空いていた。道は途中で曲がっていて、奥に大臣がいるのかは見えない。中へ入ると風の狭められる音が耳についた。
 明るい方へ歩いていくと曲がり道の手前で、こちらへ伸びた大きな影が見えた。
「お久しぶりです、ヴェイン大……」
 角を曲がって見えた彼の顔は、厳しく来訪者を睨めつけていた。深い皺がいっそう濃くなり、逆光であることで凄みが増す。どきりとして足を止めたが、それはすぐに驚きへ変わり、いつもの優しい顔へと戻った。
「なんだリンクか、どうしたんだ」
「大臣こそ……どうしたんですか、なんか嫌な客でも待ってたみたいですけど」
 大臣は少し自分の影を見つめ、横に首を振った。久しく見ないうちに髪も髭も白っぽく変わってしまっている。服も薄汚れていて、何日も研究に没頭していたのかと思わせた。
「今お前が来たのは好都合だ。中へ入れ、早く」
 彼は俺の背を押すようにして招き入れ、硝子瓶や覚書だらけの研究所を通って奥の部屋へと通した。そちらにも小さい穴があって、外へ出られるようになっている。こちらでも耳障りな風の音がした。
 彼の背中が研究所へと消える、かと思えばすぐに戻ってきた。
「どうしたんですか本当に。そうだ、俺ちょっと相談したいことがあって来たんですが」
「そんな暇は無い。これを持て」
 大臣は首を小さく振って苛ついたように言うと、俺の手に何か冷たいものを押し付けた。それは透明な丸い小瓶で、中に白い粒がいくつか入っている。軽く振ると、からからと音を立てて中でぶつかり合った。
「もう地上が滲み出した。お前にしかどうにもできない。それを飲め」
「飲……え? これ何なんですか、どうして俺に」
「説明している時間は無い!」
 彼が声の荒げるのに合わせてまだらの髭が動く。それを見つめて躊躇していると、俺の来た方から足音が響いて聞こえた。何十にもはね返っているから来訪者は複数だ。
「いかん、お前はもう行け!」
 囁くほどの怒鳴り声が聞こえたかと思うと、考える間も与えられず、骨と斑の浮き出た手に胸を突かれてそこから落とされた。
 一瞬の浮遊感の間に、慌てて風を掴まえ、岩に沿って背中をぴたりと張り付ける。幸いこんなに風の吹き荒れている場所では、風のほうから勝手に腕に飛びついてきて足場を作り上げた。
 目を閉じて耳を澄ませる。ぼうっとしていると、轟々たる風の音に打ち消されそうだった。
 大臣の足音は何事も無かったかのように遠ざかり、反対に遠かった足音は研究所あたりまで侵入してきたのだろうか。反響と風に邪魔されてはいたものの、足音のうち一人の声はよく通って聞こえた。
「王国大臣ヴェイン・ディーツェ、枷と牢がお待ちだ。罪状は自分でもお分かりだろう……来い。お前たちはここにあるものを全て集めろ」
 それは、ヴェイン大臣と対であるアーティ大臣のものだった。