朝と夜に、わずかに寒さを感じるようになった。目が覚めてからも布団の中でぐずぐずしていると、遠くから床のきしみが近付いてきた。慌てて布団をはねのけると同時にノックが聞こえる。 「チェイン、起き……」 「起きてる。入ってくんな」 「あらそう。朝食の用意はできてるから、後は自分でやってちょうだいね」 足音が十分に遠ざかってから、やっと息を吐き出すことができた。今は、できるだけ顔を合わせないようにするばかりだ。最近はルナ自身も居間にいることが少ないから、それは容易なことだった。 やっと俺に愛想が尽きたのかもしれなかった。 厚手の服と薄いものを入れ替えて、今日着るものを適当に取り出す。起きた時の寒さが念頭にあったのか、手が選び出したのは厚手のものだった。カーテンと窓を開けると、鳥の声が突然大きくなる。 立ち並ぶ家々の向こうに、役場の屋根の回らない風見鶏が見えた。その向こうには平原、そして光の差し込む森がある。墓のある場所だ。 墓石にLunaと刻ませないと意地のように心に吐き捨てたのはいつだったか。メリッサと出会ったばかり、緑の季節になってしばらくの、まだ暖かい頃だったように思う。その思いは今も変わらない。 ルナはここを出ればいいんだ。無為なだけの暮らしで死人みたいになっていく俺に尽くして、同じように死人になることはない。 ここにはもう、彼女の愛した父さんはいないんだ。 居間へ下りるが、やはり今日もルナの姿は無かった。平べったい籠の中に無造作に置いてあるだけの卵を取り、フライパンに油を引いて割り入れる。途中で黄身が崩れたので、結局は全部ぐちゃぐちゃにかき混ぜて固めた。 火を消すとバスケットに置いてあったパンを割り、その中にどうにか詰める。それが終わると卵がこぼれないうちに口の中へ押し込み、ミルクで流し入れる。皿へ盛ることも、机へ運ぶことも、椅子に座ることもない食事だった。まずくはないが味がよく分からない。 食べ終わってフライパンに水を張ろうと立ち上がったところで、部屋が暗いことに気付いた。明かりを灯すのを忘れていたらしい。今更点けるでもなく、薄暗い中で洗い物を済ませる。 水の音が止んだ後は何の音もしなかった。目をつむって開け、どのくらいここに立っていたのかと考えた。 この家には誰もいないのではないかと、玄関途中の壁に付いた扉に目を向ける。その隙間からは扉の形に明かりが漏れていて、確かにルナはそこにいるはずなのだ。安心するとともに、どこかへ行ってしまえと祈るように思う。 どす黒いものが溢れ出す前に、軍手をはめて外へ出た。実りの季節は盛り、前の草むしりから少し時間も経っており、そろそろ畑に雑草が生えてくる頃だ。全部むしって、休ませていた方の土に播種をしなくちゃいけない。そちらには、氷の季節を越して収穫できる類のものを植えるのだ。 役場で配られていた新しい種も蒔いてみよう。あれも確か氷越しのものだったはずだ。 それが終わったらどうしよう。裏の家のおばさんに、厩舎の掃除でも申し出たら何か貰えるかもしれない。森へ入って何か果実を採ってもいい。 何か、することが必要だ。草を根から抜きながら、頭の中は次すべきことで埋め尽くされていた。 薬草も確か切れかけのものがあったはずだ。今なら大抵のものは手に入る、ついでに摘んでおこう。特に血止めのものは氷の季節近くになると取れなくなるから、忘れないようにしないと。 種の袋に手をかけて紐を解いた。それから先はどうする、それが終わったら? 袋を地面に置き直し、額を強く押さえた。 「だめだ……」 誰かに会いたい。年中楽天家のユクスも、さすがに今は忙しい時期だろうか。ルナの顔が浮かびそうになっては消えていく――メリッサ、彼女に会いたい。 この前、緑と実りの季節の変わり目に会って神殿まで一緒に行ったばかりだというのに、不思議なものだった。まるであれは全て夢で、とんでもなく昔の出来事のように思えてくるのだ。 王都の宿に泊まって以後のことは、ついに思い出すことがなかった。まさか場所を飛び越えたわけじゃあるまいし、体験しているはずなのだ。メリッサにはその間のことも聞いておきたかった。 種を蒔き水を撒いていく。片方の畑は、早ければもう収穫できるものもあるはずだ。 そっと動きを止めて目をつむり、呼んでみる。メリッサ。 「チェイン」 後ろから声がした。心臓が跳ね上がる。期待と恐怖を覚えつつ振り向くが、そこにいたのはルナだった。いつもの金髪を後ろで無造作にまとめている。 「ああ良かった。今日は寒くなるから厚着しなさいって言いに来たのよ。大丈夫だったわね」 そしてすぐにどこかへ消えてしまう。ルナが現れたことに動揺は感じつつも、期待通りにメリッサが現れないことへの安堵も感じていた。 袋の口を元通りに紐で縛り、軍手をはずして家へ置きに帰った。次は森へ入ろうと、向かう道すがら畑を眺め見ると、遠目にルナが立っているのが見えた。 「ルナ?」 声をかけた後で、服装がさっきと違うことに気付いた。驚きに満たされる。よく見れば身長も髪のまとめ方も違う、あれは……。 「チェイン。課題が早く終わって暇になっちゃったから、また遊びに来たの。今日は仕事中みたいね」 それはメリッサだった。こちらへ近付いてくると共に、ルナとの違いが明らかになる。肩にかかった金髪はふわりと柔らかく、碧の眼をきゅっと細めて笑う姿は今までのどれより魅力的に見えた。 首を傾げてちょっと笑い、驚いたままで表情を変えられない俺の頬に軽く触れる。 「どうしたの。そんなにびっくりすることないじゃない」 どうにか笑顔を作った。今ルナに揺れ、ルナといることが苦痛になっている。そんな時に彼女がいてくれるというのは何よりじゃないか。どんどん露骨になっていく自分の卑怯さなど、いくらでも目を背けることができた。 「……今から森へ行って薬草や果実を採ろうと思ってたんだ。それにメリッサを連れて行きたい場所もあるし」 「本当? そんなこと言われたら期待しちゃうわよ」 「果ての村辺りのほど深くなくて、光が差し込む森なんだ。一緒に行こう」 メリッサはうなずき、俺の後ろに付いて歩き出した。ヒルドの式で教会へ行く途中にルナが通ったような、大きな通りばかりを選んで行く。役場へ村の入り口へと見慣れた景色を通り過ぎると、平原と森はすぐそこに見えていた。 森の中は今までより風が少なかったが、肌に感じる温度は少し低かった。メリッサがごく自然に手を絡めてきたが、その指先は冷たかった。 ぎゅっと握り返して墓場までの道を歩いていく。途中メリッサは何度も立ち止まり、木漏れ日がどこから差しているのか、どんな童話で似た光景を見たかを事細かに話してくれた。 相槌を打てば彼女はすぐに満面の笑みを浮かべたが、それ以上の何も感じなかった。俺にとっての相槌はもはや、彼女を微笑ませる為だけのものになっていた。 「静かね、なんて素敵な場所なのかしら。雨上がりだときっと違う趣があるんでしょうね。やっぱり私、生まれる場所を間違えたみたい」 彼女は夢でも見ているような顔で、囁くようにそう言った。それは、夢の中にいる自分を起こさないための策であるようにも思われた。 「でもあの場所に住んでるからこそ、神殿に通えるんじゃないか」 「うーん、それもそうね」 森に入ってからは俺がメリッサの後に付き、背中を見て歩く形になっていた。彼女の情緒は声だけで十分に伝わった。 「それより俺は、どうして君がこんな田舎へ簡単に来られるかの方が不思議だ。王都や神殿へ行くよりずっと遠いだろ」 冗談めかして言ったのだが彼女の返事は無かった。こんなことを言うんじゃなかったと小さく後悔したが、メリッサはこちらを振り向いて、いつもと同じ満面の笑みを浮かべる。それを見るだけで、彼女は気を悪くしなかったのだと思うことができた。 「そんなにこういう場所が好きなら、いつかこっちに住んだらいい。通う必要も無くなるだろ」 「やだ、それってお誘いなの。軽々しく言うものじゃないわよ」 笑い飛ばす声とは裏腹に、握り返す手の力が強くなった。その指は冷たいくせに全くかさついてなどいない。この前見たとおりだ。田舎育ちの俺には生きている人間のものと思えないほど、傷一つない美しい手。 やがて道は開けた。並んで埋められた石は、天から差した光に照らされて控えめに輝いている。俺の家のもののように白さを残したものも、まばらに雑草や苔を生やしたものもあった。 「ここ、お墓?」 「ああ。メリッサならこういう空気も好きかなと思ったんだけど、どうかな」 メリッサの碧い目はじっと、整然と並ぶ墓石を眺めていた。後ろから風が吹き、細い肩から金の髪がさらさらと零れ落ちる。何の前触れもなく、俺を起こす時の可愛げのないルナの声が蘇った。慌てて振り払う。 「そうね、ちょっとびっくりしたけれど嫌いじゃないわ。ありがとう」 その微笑みは俺が望むままのもので、果てしなく優しく柔らかい。こんなに簡単に手に入るものなんだ。少し自分を偽って、話の合間を見付けて相槌を打てばそれだけでうまくいく。 なんて楽なんだ。あとは自分をごまかすことが出来れば万事うまくいく。自分をごまかすことが簡単に出来たなら、全ては順調だった。 でもそれが本当に望むものなのか。 目を閉じて浮かぶのは、今隣にいるメリッサではなくルナだった。欲しいのは美しい微笑みでも服装でも、可愛らしい性格でもなかった。 「チェイン……?」 触れたいのは彼女ではなかった。それでも頭の中に蓋をして、手に感じる柔らかさに力を込めた。強く握りすぎたからか、メリッサの指が解けて掌の合わさる感覚だけが残った。 目を閉じる俺にはメリッサが見えない。彼女も何も言わずに手だけを預けて立ち尽くす。風が葉擦れの音を立て、たたずむ俺たちの温度を下げていった。 これは俺の額に触れたあの手とは違う。あれはもっと乱暴で、逆むけもマメもあるし、傷だらけでかさついている。畑仕事の手伝いや水仕事をしながら、三年間俺を支え続けてくれている手だった。 あんな女に想いを寄せちゃいけない。憎んで憎まれるくらいで丁度いい。ぎゅっと強く、もう一度だけ手を握る。 でもメリッサに寄りかかって周りから目を逸らすのは、想いを断ち切ることとは違う。違う道を選ぶとしても、自分一人で決めたものでなくてはならなかった。寄り添いながら今のままであるように願ったとしても、それは本当の選択ではないのだ。 強く絡めていた指をそっと離した。しがみついていただけの体の繋ぎ目は解けて、また二つに戻る。 目を開け、どこから説明をしようかと考えながら隣を見る。怒られることも罵られることも引っぱたかれることも覚悟していた。許されることも、またこうして会えることも、期待してはいなかった。 しかしそこに誰の姿も無く、誰かが駆けて行ったような音も、そんな跡も残されてはいなかった。どこかへ溶けたかのように、もしくは初めから何も無かったかのように彼女は俺の隣からいなくなっていた。 「メリッサ……?」 こめかみに鈍痛を覚え、頭を抱えてうずくまる。頭の中にぐるぐると渦巻いた霧が外の世界へ流れていくようだった。吐き気にも似た眠気と、肌寒さを増した森に一人たたずむ自分、それを見下ろす自分。 眩暈がする。耳の中でごうごうと、刃物のように鋭くなった風が鳴いている。彼女の名前は何だった、本当にメリッサという名前だった? どんな顔をし、どんな声で笑い、どんな仕草をしていた。 来た道に沿って、引きずるように自分を歩かせる。 痛む頭を抱えて帰る道のりはどこか現実から遠く、覚めようとして夢から逃げるのに似ていた。 戻 扉 進 |