南東へ歩いて数日が経った。夜は人目につかない森の上を飛ぶこともあったが、次の街の周りには森がほとんど無かったので、最後は足だけが移動手段となった。
 湖を右手に眺めながら、ただ歩く。地図を見る限りではかなり距離があるようだったし、行き交う人もほとんど見かけない。
「次のってどんな場所なんだ」
「さあ、こっち側にはオレも来たことねぇからな。それよりリンク、湖はもう見飽きたんだ、どうにかしてくれ」
 あまりに突飛な冗談に、こちらもつい表情を崩して笑うしかなくなる。
「無茶言うなよ。どうしろっていうんだ」
「だからもっと面白いもんに変えてくれって言ってんだよ。大体なんだ湖って。小さい海だなんて言うが、じゃあ海って何なんだよ」
 空を仰いで時間を確かめる。この分だと今夜も野宿だろうか。ひとたび肩に頭を凭せかけると、地平線から地平線までずっと空であったのだと当然のことを新鮮に感じて、もとの狭苦しい視界へ戻したくなくなる。
「知るか、俺だってそんなもの見たことないよ」
 そしてまた会話が止まる。やがて堪りかねたかのようにシュアが会話を振った。
「こっちの仕事を初めて頂いた時は単純に嬉しかったんだ。でかい仕事ってことよりも、いや、それもあるんだけどさ、それ以上にこっちの世界に憧れるもんがあったから」
「お前が人間界の仕事に就いたって最初に知った時、俺も驚いたよ」
「オレはさ、こっちの世界に海があると思ってたんだよ。こっちの奴らはやたらと神に愛されてやがるから」
 愛されているとシュアが断言する根拠は分からないが、人間界で長く時を過ごしてきた奴だから、何か思うところでもあるのだろう。
「海は無かったな」
「そうなんだよ! くそ、じゃあどこにあるっていうんだ。天上かな」
 シュアは首が痛くなるほど雲を眺める。その子供っぽい表情を見ていると、ガイルの来たあの晩のシュアはまるで嘘のようだ。あちらは任務中の顔ということか。
 何かがあるとか、人間の動きとか言っていたが、今受け持っている以外の仕事のことだろうか。確かめることもできたが、あの時の顔が異様だったためかどうも踏み切れずにいた。代わりに違う質問を投げてみる。
「シュア。お前って昔、今俺がいる所の近くに住んでただろ。いつ岩場へ移ったか覚えてるか」
「ん? ……悪い、お前が近くに住んでたこと以外ほとんど覚えてねぇんだ」
 俺より年下ならそんなものか。それなら、いつ俺や奴の両親が死んだかなんて覚えているはずもない。
 そろそろ湖の側の空は真っ赤に染まり、湖自体もその光を浴びて赤く変えられていた。今日は野宿決定だ。木立の場所を確認して、日が落ちる前に足を休めた。





 歩きどおしで着いた街は、中心の湖へ伸びる川のすぐ手前にあり、数々の水路を街の中に引いた造りだった。道の半分近くが橋だ。水路自体も大きなものは道として使われているようで、小舟に箱を乗せて櫓を漕いでいくのが時々見られた。
 建物のほとんどは橙色の煉瓦造りで、水辺に生い茂った草との対照が美しかった。水の流れる音や水路をまたぐ橋の曲線、絡みついた蔦は平和を象徴しているかのようだ。時々何かの動物の低く間延びした鳴き声も聞こえる。
 王都ほど先進してはいないらしく、古びて蔦だらけの大きな建造物がいくつか建つ他は、民家や田畑ばかりだ。所々の水路には、同じ場所で回り続ける巨大車輪が見える。
「あれは水車だ。ああやって回ることで、隣の家に力を送ってるんだと」
「小屋をどっかに運んでいくんじゃないのか? この前神殿に向かった時の、馬についた箱みたいに」
「オレも最初はそう思った。でもそうするなら反対側の壁にも車輪がいるだろ」
 では小屋が力を蓄えてどうするというのだろう。分かったような分からないような説明を聞きながら、役場や書物庫など様々な場所を見回る。気候も穏やかで静かだし、最初に都や神殿を周った身には驚きばかりだった。
 シュアは観光案内でもするような調子で人間界のものを説明してくれた。
 俺が監視から外れて一人で行動するぶんにはひどく厳しかったが、王から下された命を急いでいるような部分は見られなかった。
 人間界の仕事は難しいと聞いていたのだが、いつもこんな調子なのだろうか。しかしそれを考え出すと、ガイルと話していた時の恐ろしい表情が浮かんでくるのだった。あれは間違いなく仕事の表情だ。
 数日留まっても何の問題も見受けられず、その街を抜けて南西にあるという街を目指した。そこへは、今の街の傍にあった川を渡り、もう一つ川を越えればすぐだ。
「今度は森もあるし、すぐに着くだろ」
「行ったことはあるのか」
「ああ。だがどうってことのない、ちっぽけな村だったよ」
 川を越え、右手に森と湖を見ながら歩き続ける。シュアの言動に焦りは無い。
「歪みってのは何か、ちょっとでも見当はついたか」
 前を歩くシュアが振り返り、呆れた顔をした。もうこの表情も見飽きたし、次の台詞も分かりきっている。俺の顔にだって呆れが滲み出ていたことだろう。
「まだそんなこと言ってんのか。焦りは禁物だ、全部回ってからだって……」
「それは分かってる。しかし、人間界の仕事っていうのはいつもこんなものなのか。お前のいつもの仕事ってどんな感じなんだ」
 シュアはまた前を向き、その表情は掴めなくなった。わずかに吹いた風に乗って、呟くように声が聞こえた。
「適した速さってもんがあるんだ。お前は何も気にせずいりゃいい。お前の力が必要な時はそう言うから」
 程なくして次の川が見え、小高い丘を越えた向こうに小さい集落が見えた。湖側に大きな建物が見える以外は、小ぢんまりとした家々が並ぶだけだ。
 丘の上から見る湖は、今まで水平線で眺めるよりも迫力のある光景だった。向こう岸は見えないが、さっき渡った川が霧の向こうにかすかに見える。目指す村は二つの川が合流する場所にあった。
「そういえば、湖に集まった水ってどこへ行くんだ」
「どういう意味だ。暑くなったら大気に還って、また雨になるだけだろ」
「でも大して暑くなくても、川からはどんどん水が流れ込んでるじゃないか」
 シュアは何も言わずに先を行った。川の流れるのと同じ方向に下っていく。
 丘の所々には岩が露出していた。風が吹けば草が揺れ、丘全体が揺り動いているようにも見える。少しずつ集落が迫ってきたが、そこを覆う柵は膝くらいの高さしか無かった。開放的だと好印象を抱いたが、王都の高い壁に囲まれて暮らすような人間はこれをみすぼらしいと感じるのかもしれない。
 子供が駆け回っているのが見える。その首根っこを掴まえて叱っているのもまだ子供だ。どちらも似たような服を着ている。
「あのでかいのは孤児院なんだ。ほとんど寄付で賄われてる」
 シュアが指差した先の窓から子供が顔を出し、こちらを見つめていた。手を振ると、いくつか振り返す腕が見える。
「リンク。あんまり目立つ行動を取るんじゃない」
 ぴしゃりと言われてすぐに手を引っ込めたが、窓から伸びた腕は止まらなかった。仕方なくローブのフードでがっちりと顔を隠し、道を曲がって孤児院から離れた。
 村は、日が落ちる前に全部回ってしまえるほど小さかった。
「この村には宿は無いんだな」
「見に来るような場所でもないしな。来る奴は孤児の後見人がほとんどだから、孤児院に泊めてもらうみたいだし」
 西側の空は赤みを帯びていた。今はまだ実りの季節になったばかりだが、すぐに冷え始めて氷の季節へと向かうのだろう。
「なんか手伝ったら泊めてくれたりしないかな」
「誰か引き取る契約でもしたらいいんじゃねぇの。新しい召使いでも貰ったらどうだ」
 軽く笑った後、シュアは俺を孤児院の脇に立たせて自分は中へ入っていった。しばらくしてから一人の女と共に戻り、俺も建物の中へ招き入れられた。
 続いている廊下は狭く、内装も必要最小限の簡素なものだった。女はシュアに袋をいくつか渡すと、先に立って歩いていく。
「そうしましたら、遊び部屋と寝室の片付けを頼みますね。特に寝室のごみ集めは、子供たちが食事を終えるまでの間にお願いします。遊び部屋はそちら、寝室は二階から……」
 通路の向こうで子供の泣き声が聞こえる。女は言い終わらないうちに腕をまくって駆けていってしまった。
「ほら、お前が言い出したんだから頑張れよ。ローブを剥がれないようにだけは気を付けろ」
 持っていた袋の半分をこちらへ手渡し、シュアは遊び部屋へと行ってしまった。廊下の一番奥にあった階段から最上階へ上り、俺は寝室を掃除していくことにした。
 今はほとんどの子供が下へ降りているらしい。三つの踊り場を経て四階へ着くと、ほとんど声は聞こえなかった。
 各部屋の前には四つ、文字の書かれた紙が貼り付けてある。部屋の中は二階建てのベッドが両側にあるだけの単純な造りだった。奥の窓は危険を予測してかあまり開かなかったが、わずかな隙間から見える湖は静かに闇へ溶け込んでいた。その前に見えるのは森と、二つの川の合流点だ。
 急ぐんだったと思い出し、隅に置いてあったごみ箱の中身を袋に詰める。次の部屋へ行ってごみを取り、また次の部屋へと繰り返していく。
 その次の部屋はL、T、F、Gと貼り付けてあった。今までと同じように無遠慮に扉を開けてどきりとする。そこの一階ベッドの両側には小さな男女の子供が腰掛けていた。十かそこらだろうか。男児が俺を見上げて口を開く。
「レイラ……あれ、違う」
「初めまして、今日だけのお手伝い兄さんだ。この部屋にごみ箱はあるか」
 女児の方が奥から箱を持ってきて、俺の顔をじろじろと見た。その胸にはGという札が付けられている。
「それは何?」
「これ、私の名前。頭文字なの。部屋の前にもあるでしょう」
 男児の方を見ると、胸にはFと付けられている。つまりこの部屋には、あとLとTという頭文字の子供がいるというわけだ。レイラというのはLのことだろうか。袋の中に渡されたごみ箱を入れて逆さまにし、中の物を全部出してしまう。
「俺もリンクって名前なんだ。Lだな」
「本当? ちょっと前までは、レイラ以外にもLのお姉ちゃんがいたの」
 ごみ箱を返し、そろそろ夕食だとだけ告げて次の部屋へ移った。その他のどの部屋でも子供に会うことは無く、いっぱいになったごみ袋一つと二つ目の袋を抱えて四階を後にした。



 二階でごみ集めしているシュアに追いついたあたりで子供が戻ってきたが、なんとか全ての仕事を終え、俺たちは一階の端にある小部屋二つを貸し出された。シュアが選んだのは行き止まりに近い方だったので、俺はその一つ手前の扉を開ける。
 部屋に布団を敷いてぼんやりと横たわる。隣の部屋からは物音一つしない。
 あれからシュアがガイルと会っているところを見ることは無かった。もしかすると今も抜け出して、どこかで人間界がどうの精霊界がどうのなんて話をしているのかもしれないのだが。
 ふとライアの顔が浮かんだ。しばらく会っていないが、奴の性格からすれば、今も失敗を繰り返しながらのんびりと俺の帰りを待っているのだろう。
 こちらの世界へ来てからシュアと部屋が離れるのは初めてだった。そして、この村より西へ進むとこちら側の境界は遠くなる。もし会いに行くとすれば今だ。思い立てば行動はすぐだった。扉に鍵がかかっていることを確認する。
 子供が近寄る危険が少ないからか、近寄っても危険じゃないからかは知らないが、この部屋の窓は全部開くようになっていた。どうにか肩を通し、外へ降り立って森へと歩く。村から十分離れたところで風を集め、夜の空を境界へ向かって飛び立った。夜には、風の塊が仄白い色をしていることもよく分かる。
 水車を見た街の傍らに流れている川に沿って、風を受けて飛んでいく。夜風は冷たく、そのうち裸の頬に痛みを感じるようになってきた。やがて細い葉ばかりの森が見えてくると、自分の世界へ帰ってきたのだと感じて心が安らいだ。
 ここから王都へ近付くほど暖かくなるし、植物の緑も大きくなる。俺の住む場所も見えてくるはずだ。
 夜の静寂をどこまでも飛び、見慣れた植物群が目に入ったところで高度を下げた。緑のまばらなところで風から降り、葉を何枚も滑って地面へ降り立つ。暗い道はわずかに湿っており、霧が差している。どこからか細く鳥の声が聞こえた。
 家の入り口である岩間が見えた。そっと足音を忍ばせて中へ入ると、足元でがさっと何かを踏む音がした。どきりと足を戻すと、それは家の中に吹き込んだままの枯葉だった。水分の抜け方からすると、ずっと前に落ちたもののようだ。
 ライアは掃除にはこだわる奴なのに、もしかしたらどこか具合でも悪くて寝込んでいるのだろうか。
 中へ入って机や寝床、わずかな隙間をも探したが、ライアの姿は無かった。それどころか家の中は俺たちが送り出されたその時のままで、何かが動かされた形跡すら無かった。部屋の汚れ具合も丁度そのくらいだ。
 俺が出て行ってからすぐ自分の家へ帰ったということか。自分からここに留まることを希望したのに意外だ。
 ふと入り口に誰かの影が差した気がして、心臓が大きく鳴った。シュアだと思った。奴が恐ろしい形相で立っているのを、この目は確かに見た。
 しかしそこにシュアの姿は無く、恐怖を抱いた俺が一人家に佇んでいるだけだった。