人がいないのを確認して素早く扉から出、来たとおりの道を急いだ。さっきの部屋に戻ると、メリッサは既にそこにいた。隣にはあの鼻男もいる。
 俺を見るとメリッサは、すぐ傍まで走り寄ってきた。
「チェイン! もぉ、どこに行ってたの。待っててねって言ったじゃない」
「悪い悪い、メリッサが遅いから探しに行ってたんだ」
「心配したんだから」
 ふくれ顔のメリッサの後ろで鼻男が静かに笑った。髭がそれにあわせて上下に動く。
「すると、あちらの廊下にも?」
「はい、あ……あの壁画は凄いですね、つい見とれてしまって」
 内心どきりとした。この男はあの階段のことを知っているのだろうか、そうだとしたら今のは俺の動向を探るためじゃないのか。メリッサは無邪気さを顔に満たして、目をきらきらと輝かせた。
「壁画なんてあるの、どこに?」
「まあまあ、今度ゆっくり見ていけばいいでしょう。その時は私がお傍について解説致しますよ。今日はもう、日も傾いたからお帰りなさい」
 そして俺を向いて優しく笑った。眼鏡の奥の目がきゅっと細くなる。
「神殿内は原則として、聖職者とその許可を受けた者以外が自由に歩くことは禁じられております。今後はお気を付けください」
「分かりました」
 そして、壁画を見たいとごねるメリッサの手を引いて外に出た。硝子で作られた絵を背に、左の胸に強く手を当てる。
「チェイン、大丈夫? あなたちょっと変よ」
 振り向いて、安心させるように笑った。大丈夫、後ろめたさがあるから恐怖を感じるんだ。大丈夫。
 少し待つと、今日最後の馬車がやって来た。乗っていたのはほんの数人で、鼻男と二三言話すとすぐに馬車に戻った。それに続いて乗り込むと、鞭の音がして馬車はゴトゴトと不安定に動き始めた。
 メリッサが壁画への憧れと今日の教えの感想を語り始める。それを聞きながら、ふと後ろの窓を見た。神殿の前に鼻男が立って、笑顔でこちらを見送っている。その足は馬車が遠く離れても動こうとはしない。そんな何でもないことに、いちいち寒気が走った。
 王都に着いた時にはもう日も落ちていたが、都の所々に明かりが灯され、いまだ騒がしさをとどめていた。
 宿に入ってからも、喧騒が耳にこびりついているようでなかなか眠れなかった。体を起こして後ろを見ると、少し離れたベッドに眠るメリッサの後姿は穏やかで、彼女はやはり都会の人間なのだと思い知らされた。
 布団を耳までかぶる。真っ暗で静かな森と、小さな村、その中にちんまりと佇む家、塗装の剥げた屋根、泥臭い皆の笑顔がひどく懐かしかった。





 目が覚めると、そこは見慣れた部屋だった。白い天井に、カーテンの向こうから差す光。ここはどこだ。ここは……。自分がどこにいるか分かった、だからこそこれが生々しすぎる夢であると思った。
 もう一度眠らなくては。そして俺に、本当に起きる機会を与えてやらねば。
「チェイン、起きてる?」
 しかし目を閉じるよりも早く、扉の向こうからコンコンと軽い音がした。聞き慣れた声であり、あまりにも今にそぐわない声だった。
 起き上がり、寒気を感じて布団を体に巻きつける。扉を叩く音は止んでノブがゆっくりと回り、隙間が広がっていく。息を止め、布団を握りしめてその隙間を凝視した。扉が開ききった時、そこにいたのはルナだった。
「なんて格好してるの、風邪でもひいた?」
「ルナ……」
「どうしたのよ、怖い顔して。何」
 どうしてここは俺の部屋なんだ、どうしてお前はここにいるんだ。いや違う、どうして俺はここにいるんだ。不可解さは口の中に留まるばかりで、ちっとも言葉にならない。
 メリッサはどこだ。俺は彼女と共に神殿へ行き、王都の宿に泊まったはずだ。
「驚いたわよ、急にいなくなるんだもの。今度からはちゃんと言ってね」
 ルナは何でもないように言い、カーテンを開けた。部屋が一瞬白に染まって、過剰な光を追い出そうと目を細める。
「俺が……いなくなってた?」
「なあに、とぼけるつもり。何も言わずに十日間も出て行っちゃって、何の連絡もよこさずに帰ってきたのは誰だと思ってるの」
 何も答えずにゆっくりと首を振った。いなくなっていたというのなら、それはそれで結構だ。俺は確かにメリッサの学園都市を通り、王都の喧騒に呆れ、神殿の居心地の悪さに触れたんだ。妙な夢を見ることが続いていたが、ついに今までの全てが夢になったのかと思った。
「えっと、いつ帰ってきたっけ」
「昨日の晩よ。畑から帰ってきたみたいな、どうってことないって顔してたでしょ。こっちは心配で心配で仕方がなかったっていうのに」
 そちらの記憶が無いんだ。王都の宿に泊まってから帰ってくるまでの、三日はゆうにかかる記憶がどこかへ抜け落ちている。疲れて忘れてしまったとでもいうんだろうか。
「せっかくなんだから、ヒルドさんの式に出たら良かったのに。すっごく綺麗だったのよ」
 窓を開けて流れ込んでくる風に髪を押さえるルナを、ぼんやりと眺めた。ここを離れてメリッサばかり見ていたせいか、ふと混乱しそうになる。髪の色も目の色も同じだから尚更だ。
 俺はこの村を出た、それはヒルドの式に出るのが嫌だったからだ。否応無しに、父さんの式に思いをめぐらせてしまうことになる。
 寝起きの頭の中というのは便利なものだった。ごちゃごちゃしたものが無く、一つのことにしか考えが回らない。さあ俺、どうして父さんの式のことを考えたくないんだ?
「今日は静かなのね。珍しいこともあるもんだわ」
 ルナの手が伸びて俺の額に触れた。前髪をのけて、掌を押し付ける。そういえばメリッサの手は恐ろしいほど綺麗だったと、額にかさついた指の感触を感じながら思い出す。
「熱は無いわね。今日、役場まで行ってくれるかしら」
 曖昧にうなずくと、手はすぐに離れて額に前髪の感触が戻ってきた。
「ヒルドはどうだった」
「うん? ええとね、もう言葉じゃ表せないくらい素敵だったわよ。ヒルドさんもお嫁さんも幸せそうでね。あの場所にはきっと幸福しか無いんだわ。結婚式を見るのは初めてだったけど、見る人まで満たしてしまうのね」
 そう言うと、立ち上がって扉の方へ歩いていく。その背中には見慣れた金髪が揺れている。
「お前は?」
 呟くように言ったし、ルナも足を止めなかったので聞こえなかったのだと思った。しかしルナはドアを開けた後でこちらを振り向いた。
「え?」
「お前は式挙げてないのか。三年前、父さんと一緒んなった時に」
 ルナは体ごとこちらに向き、笑った。
「私たちにはね、そういうものは必要無かったの。あの人やあなたのために何かできるだけで幸せなのよ」
 そして扉の隙間に滑り込む。早く起きていらっしゃい、という声が聞こえてがちゃりと扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
 悪態をつく気にもなれなかった。閉まった扉に向かって、窓からまっすぐに朝日が差している。それを見つめながら父さんの顔をぼんやりと思い出した。拳を固め、一度だけ布団を殴る。腹の中が熱くて、息を作り出すところからぐしゃぐしゃと崩れていくような気がした。
 あいつはどこまでも母親のつもりなのだ。花嫁でも後妻でもなく、ただ父さんの妻であり俺の母親。ずっと昔からそうであったかのように振る舞う。
 式を挙げなかったという話も、そんなことをしなくても壊れはしないのだと絆を見せ付けられただけのように感じた。自分から訊いたくせに馬鹿げている。
 そうだ馬鹿げているんだ、こんなことを考えるのはやめろ……どこかで聞こえる声に頭を振って先を続けた。
 父さんはどうして母さんの代わりとなる女なんか連れてきたんだ。母さんへの想いは女を連れてきた時点で終わり、自分の余生と死後は女に捧げるということか。頭は働き始め、また本心に靄をかけようとしていた。
 考えてはいけないと、またどこかから声がする。黙れ、俺。まだ覚めるんじゃない、まだ自分を情けなく守るには早すぎる。
 その前に一つ、明らかにしておかねばないことがあるのだ。息を止め、頭の中で一気に言葉を吐き出した。
 俺が父さんを恨んでいるのは、あの人が母さんのいた場所に新しい女を宛がったからじゃない。
「その女が、ルナだったからだ……」
 声にした後、沈黙が続いた。頭は忘れようとしたが、耳はしっかりとその言葉を捉えていた。
 耳を塞いで目をつむる。あの鼻男の笑顔を見たときよりも寒気がひどかった。俺は今、一番言ってはならないことを言った。
 違う。あの女が嫌いだ、今まで通り憎めばいい。あんな女はこの家には要らない。父さんに取り入り、母さんの場所を奪った。本物の母親でもないくせにいちいち口を出してくる。母親になり切ることもできないくせに、誰よりも母親たろうとする。
 万一あの女のことが「そう」なのだとしても、そんな面倒はごめんだ。何が悲しくてそんなごちゃごちゃに身を置かなくちゃいけないんだ。こめかみを両手で叩いて言い聞かせる。忘れろ、打ち消せ、冗談はやめろ。好んで不毛な道を選ぶなんて馬鹿のすることだ。
 起き上がり、布団を半分に折った。いつもよりやや厚手の服を選んで着替え、居間を通り抜けて顔を洗いに行く。
 居間にルナの姿は無かった。今はその方が好都合だと考え直し、機械的にいつもの朝の行動をなぞった。顔を洗い、寝癖を直し、朝飯を食べて、歯を磨き、畑の様子を見がてらその日の仕事をする。
 その生活からはみ出してはならない。
 俺にはメリッサがいる。少しばかり話を合わせれば、あんなに安らげる子はいない。
 全てから逃れるように、人と会わない裏道ばかりを選んで役場へ向かった。この村ではまだ人の集まる場所だが、王都や神殿という華やかすぎる場所を見てきたせいで、ひどく物静かな場所という印象を受ける。実際そうなのだが、これではまるで人などどこにもいないかのようだ。
 ぬかるんだ日陰道を多く歩いたせいで、靴は少し重い。この土の様子では、昨日か一昨日に一雨あったに違いない。俺の失われた数日のうちでだ。ようやく草だらけの道を抜け、柵を越えて役場へ辿り着いた。
 所々白く色を失った赤い屋根の上には風見鶏が佇んでいたが、昼に近付いた今は風など少しも告げず、風が無いのかただの飾りなのかは今日も分からない。何をするのかは聞いていなかったが、この時期なら多分、畑や家畜の登録更新だろう。
 扉を押すと、横に三つ並んだ受付が目に入った。それぞれの向かって左には戸棚が置かれ、書類だの何だのが整然としまわれている。向かって右には各一人が背をしゃんと伸ばして座り、その奥にはいくつか机があって数人がそれを囲んでいた。机の上には、戸棚に詰め込まれているような書類が多く散らばっている。
 いつもルナがやっていた作業なので勝手が分からず、入ってすぐ近くにいた役場の者らしき女に話しかける。
「すいません、畑の更新がまだだと思うんですけど」
「登録更新ですね。過去十年間に転居されてきた方ですか」
 首を横に振ると、彼女が指し示したのは一番左の窓口だった。こんな村に引越してくる者がいるものかと思いながらも、そこへ行ってさっき言ったのと同じことを繰り返す。そこで対応していたのは、俺の父親くらいの歳の男だった。
「お名前をどうぞ」
「チェイン・アトリーです」
 男の手が戸棚からAと書かれた分厚い本を引っぱり出し、ぺらぺらと素早くめくっていく。そこに書かれているのは一つの家に住まう家族の名や数、畑など所有する財産のことだ。
「アトリーさん……ええと、こちらですね」
 男の手がその中の一頁で止まり、こちらを向けて差し出される。右側にAttleeと俺の姓が書かれており、左にはその前の順であるらしいAstorという姓が記されていた。
「昨年からの変更点がありましたら記入して頂いて、署名をお願いします」
 ペンを受け取ってざっと目を通すが、畑の大きさや作っているものなんて昨年から代わり映えしない。そのまま署名しようとして上の項を見ると、アトリー家の者は俺だけということになっていた。ルナが来て三年経つというのに随分ずさんなものだ。
 署名し終わると男は本を引き寄せ、インク部分に一つまみの砂をのせた。本を縦にしてそれを払い落とすと、本とペンを元の位置へ戻す。これで更新は終わりらしい。
 家まで歩き、二軒隣の羊の毛を刈って、申し訳程度に畑の面倒を見た後は、もう自分の部屋に閉じこもった。その途中の居間でもルナの姿は見えず、彼女の部屋から光が漏れているのを確認しただけだった。