扉に近付くと、中から歌声が聞こえた。今入っていくと目立ってしまうと、シュアは扉の脇でそれが止むのを待った。
 すぐそこでは馬を扱う男が退屈そうに頬杖をついている。口に何かを咥えており、その先からは細長く煙が上がっていた。
「入っていっても構わんと思いますよ」
 じろじろと見ていた俺に気付き、男が咥えていたものを取る。慌ててフードを深く被り、頭を下げた。
 やがて何かの楽器の重々しい音が止み、ざわめきが近付いてきて扉が開く。最初の一団が出て行ったところで中に入った。
「うわ、凄いな」
 思わず口をついて出た言葉がそれだった。
 宗教じみたステンドグラスも豪奢な造りだったが、内装も凝っている。整然と並べられた長椅子には目立たない部分にまで細工があるし、通路に隙間なく敷かれた紅い絨毯は、差し込んだ淡い光に絹のような輝きを返していた。周りの壁には目立たない色ではあるが宗教画が描かれている。目の高さの壁には金で彫刻が施され、そこより上は浮き彫りになっていた。
 遥か上の天井にもやはり絵が描かれているが、そちらは明暗もはっきりとしたものだった。いくつかの太い柱が建物を支えている他は、みな柔らかく曲線で作られていた。
「これって城くらいあるんじゃないか」
 近くに人が見えないのを確認してシュアに囁く。
「王の作られたものはこの程度じゃない。所詮こっちは、オレたちの所とは技術も文化も違うんだ」
 異論はなく、まだ中に残っている数人を眺めた。分厚い本を読んでいるひょろ長い男、壁の絵を眺めている幼い兄弟、そして一心に何か祈っている老女。シュアがそれらを一瞥して言った。
「ちっと奥の方を見てくる。ここで待ってろ」
「俺も行こうか」
「いや、一人のほうが身軽に動ける。今回は遠慮してくれ。いいか、絶対に動くなよ」
 シュアは何度も念押しして、左側の扉から廊下へと出て行った。もう一度辺りを見回すと、男も幼い二人もいなくなって老女だけが未だに祈りを続けていた。ぴくりとも動かず、まるで壁の絵の一部にでもなったかのようだ。
「どうなさいました」
 老女がこちらを振り向いて一礼した。体ごと向き直ってもう一度礼をする。
「祈りを捧げておりましたの。もうそれしか私に出来ることが無くて」
 その声は意外と若い。容貌ほど年老いてはいないらしい。
「何か困ったことでも」
 身なりはきちんとしているし、特に憔悴した様子でもない。空色の髪はきっちりと纏められているが、根元が不自然なほど真っ白で、このせいで年老いて見えたのだと納得する。
「いえ、こんなことを話してもいいのかしら……そうね、聞いてくださる。娘の話なんですけれど」
「娘さんが何か?」
「帰ってきませんの」
 この髪はそのせいだろうかと考える。家出娘の心配にしては、やけに白髪の部分が多い気がするが。
「一年ほど前から。ほら、未だに捕まっていないでしょう、あの事件」
「一年? 事件、ですか」
「都でももう忘れられかけているのかしら。女の子が連れ去られる事件があって、確かではないのだけれど、多分私の娘も……」
 王都で見かけた立て札が頭に浮かぶ。誘拐が起きている、これらの人物を探していると書かれていた。頻発していたのは二年前だとシュアは言っていたが、未だに続いているということか。
 左奥から足音が近付いてきて、シュアが現れた。
「それじゃあ」
「ええ。もし何か聞いたら教えて下さいな、私はきっとここにおりますから」
 礼をしたその直後、シュアの手が乱暴に俺の肩を掴んだ。後ろから押し殺した声が飛びかかってくる。
「動くなっつっただろ」
「動いちゃいない、ちょっと話を聞いてただけだよ。ただならぬ感じだったから」
 老女の後姿が扉から出て行くのを見届けてから、大げさに息をついて、シュアはすぐ近くの椅子に身を沈めた。茶の目が睨むように俺を見上げる。
「オレは一体どんだけ肝を冷やしたらいいんだ、頼むから慎重にしててくれ。ボロは出さなかっただろうな」
 ちょっとくらい信じてくれてもいいじゃないか。乱暴に首を振り、向かい側の席に座った。
「何か妙なもんはあったか」
「いや、通路がずっと続いてるだけだった。ここは何の変哲も無いただの神殿らしい」
 そうか。小さく呟いて、座席後ろにかかっていた袋をのぞく。その中に入っていたのは、さっきひょろ長い男が読んでいた本だった。暗い紫の光沢ある布で装丁されており、表紙の中心には飾り石が埋め込まれている。それを囲むように描かれているのは、ステンドグラスのものと同じ絵だった。
「シュア、これ何だ」
「教典だろ。そういうのは古い文字ばっかだから読みにくいと思うぜ」
 ぱらぱらとめくってみる。文字はなんとかなるものの、神や世界に対する考え方が違いすぎて、いまいち何を言っているのか分からない。すぐに閉じて元通りに戻した。
「出るか。まだまだ回んなきゃならねぇ所ばっかりだ」
 その後について、誰もいなくなった聖堂を出た。あの女性の娘が誘拐事件の被害者かもしれないと話をふってみたものの、シュアの反応は素っ気ないものだった。



 もうあの馬つきの箱はどこにも無かった。傾いた陽は、葉の隙間から見える空を赤く染め上げていた。
「日暮れまでに抜けるのは無理だな。この道は人目も多いから飛べやしねえし。こっち側に寄っていってもいいか」
 そう言ってシュアが指したのは、陽とは反対の方向だった。斎占の館がある方だ。そちら側の空は青が薄まって灰色の雲がかかっている。
「何かあるのか」
「小屋がな。何があるんでもないけど、一晩泊まるくらいなら大丈夫だ。どうせ東から回るんだしな」
 そう言ったっきり、道も無い森の中をどんどん進んでいく。やがて陽が完全に落ちて辺り一面が真っ暗になると、風を作って樹のすぐ上を飛んだ。人間界の風を集めるのは初めてだったが、俺たちの世界のものと何ら変わりはしなかった。
 眼下に見える森は黒々と染まって、こちらへ手を伸ばしているように思われた。少し行ったところで、先の空により高い木々の影が浮かんでいるのが見えた。
「そろそろ見えるな、高さを落とせ。ここらで樹の下に入っとかねぇと、後で葉に切り刻まれるぞ」
 シュアに付いて土を踏んだ後は、ひたすら歩くのみだった。全身を覆ったローブは、寒さよけと怪我防止のどちらにも役立った。
「見えた見えた、あれだ」
 シュアの指差した先には、闇から浮かび上がるように粗末な小屋が見えた。周りの樹も邪魔そうに生えている。
 近づいてみると、壁には苔がむして所々緑色になっていた。屋根もがたがたで、いつ雨が漏っても不思議ではない。建てられてから数十年は経っているようだった。
「少し前に見付けてそれっきりだから汚いけど、まあ死にゃしないだろ」
 そう言うとシュアは扉に手をかけ、下のところを一度蹴ってから開けた。中はどこかじめじめしていて、かびくさい匂いが漂っている。細長い板が縦に張られて壁を成しているが、所々黒ずんで腐っているのが分かった。
「ここ辺りって雨が多いのか」
「そうだな、よく降る方だろうな。けど今日は大丈夫だろ、あんだけ晴れてたんだから」
 どこかへ消えたと思えば、シュアが奥から土色の布を引っ張り出してきた。自分の分を受け取って、外に出てから何度かはたく。もうもうと埃が舞い上がって夜空へ消えていった。何度か咳き込む。
「何か食うんだったら、そこら辺に色々生ってるからな」
 それだけ言うと、シュアは早々と埃だらけの毛布にくるまった。こちらに背を向けると、もう何も言わなくなってしまう。
 それほど空腹ではないが、明日に備えて何か腹に入れておいたほうがいい。外へ出て右の手に火を作り出すと、辺りを歩いて食べられそうな実をいくつか取った。皮ごとかじってみると、斎占の館でオーガに出してもらったものと同じ味だった。そういえば皮は同じ赤色だ。
 戻るとシュアは既に寝息を立てていた。向かい側の壁にもたれ、埃の匂いの取れない毛布にくるまる。程なくして意識が遠くなり、ふっと抜け出るように眠りに落ちた。



 夢を見た。
 そこには窓も何も無かった。ただ壁と、床の中心には下へ繋がる細い階段と、それを囲むように手すりがあった。息の詰まるような殺風景な部屋で、振り向くと壁一面に大きな絵がかかっている。本物と見紛うほどの精巧な絵で、中には白髭と皺だらけの老人が描かれている。
 じっと見つめる俺の前で、その皺はみるみるうちに薄くなった。髭も髪も色濃くなり、背もしゃんと伸びて、その人物はやや痩せ気味の中年男性となった。背中は見えなかったが、耳がはっきり外に出ていたので彼が人間であることが分かった。
 そのうち彼の頬にやや肉が付き、目の窪みも消えて若々しい青年となった。勇ましくはないが優しげな顔立ちをしている。
 彼の変化はまだ止まらなかった。背が低くなり、顔の部品がわずかに下へ下がる。とうとう右も左も分からないほどの幼子になり、人間とは思えない形になり、やがて消えた。

 目が覚めた。息を吸うと埃が深くまで入ってくる。思わず口に手を当てて、もう一度慎重に息を吸った。
 今のは何だ……夢の中ではやけに納得して見ていたが。誰だか知らない「彼」の時間を逆回しにしているようだった。
 一人の成長を順々に描いていくというのは面白い趣向ではあるが、逆にというのは妙なものだ。段々とあどけない表情になっていくのは気味の悪ささえ覚えた。
 第一あれはどこだろう。見たことなど無いのに懐かしさすら感じる。斎占の館に入ったときと同じ感覚だった。
 身を伸ばして窓を見上げるが、まだ空には藍が濃く、夜は明けていないようだ。ふとシュアの寝息が聞こえないことに気付き、向かい側に目を凝らす。夜明け間近の窓の光に慣れた目には、そちら側は暗すぎて少し時間を要した。
 シュアが横たわっていたはずの場所には今、毛布の残骸だけが残されていた。
「……シュア?」
 呼びかけるが返事は無い。立ち上がってゆっくりと近付くが、一歩進むごとにますます明らかになるのは、そこには誰の姿も無いということだった。慌てて小屋の外へ出て辺りを見回す。どこへ消えたというのか。
 どちら側を探すべきか迷って、右へ踏み出そうとしては躊躇し、左へ進もうとしては引き下がる。
 やがて頭の中も覚めてきて、冷静な考えが奥からわき上がってきた。落ち着け、起きて腹が減ったから何か取りにいったんじゃないか。焦る必要は無い。自分で出て行ったのならばここに戻ってくるのは明白だし、万一連れ去られたのだとしても奴に敵う者などいない。
 焦りに満たされていた頭の中を空にし、大きく息をつくと共に、どこからか声が聞こえてきた。
「こっち側に――があるのは仕方がないことだ」
 シュアのものだ。小屋の裏側からだった。
「人間の動きが気になる、特に神殿のな」
 そちらへ回ってのぞくと、シュアの後姿の奥にもう一人背の高い男がいた。夜明けの光の中で灰青に染まった髪と目を持っている。年齢は俺たちとそう変わらないくらいか。服の具合からすると、シュアよりも階級の低い者であるように思われた。耳は俺たちと同じように長いから、それが精霊であるのは確かだった。
 どうして人間界に精霊がいる。こちらでの仕事をこなせるくらいに級の高い塔官なのか、しかしあんな奴の顔は今までに見たことがない。シュアと静かに話し合っていることからしても、敵ではなさそうだが。
 もう少し観察していようと思ったところで、その男が俺を見て小さく声を上げた。同時にシュアが振り向く。
 それは今までに見たことのない、何かに取り付かれたのかと思うような敵意むき出しの表情で、一瞬射竦められたように動けなくなった。
「あ、いや……お前がいなくなってたから」
 その形相に驚きながらも、固まってしまった喉からどうにか声を吐き出す。別に盗み聞きをしようとしたわけじゃないし、会話の内容もほとんど聞こえはしなかったのだ。こちらが申し訳なく思う理由は無いはずだった。
 近付いてもう一人の男を見る。その途中、彼は無表情のままだったが、一度まばたきをした時わずかに眉をひそめたような気がした。
「こっちは?」
「ガイルだ。話しただろ、王に頂いた俺の使いだ」
 もういつも通りのシュアの表情に戻っていた。ガイルと呼ばれた男が一歩下がって一礼する。これが、ライアより優れていると繰り返していた使いか。言われれば確かに聡明そうな顔つきをしている。
「俺がこっちにいる時は、精霊界の様子を時々報告しに来るんだ。ガイル、もう行っていいぞ」
 もう一度軽く頭を下げると、ガイルは素早く風を集めて森の向こうへ飛び上がって行った。さすが、あの岩場高くにあるシュアの家で働けるだけのことはある。まるで見えない段を踏み上っていくかのようで、風を使う能力のみを見れば、それは塔官にも劣らなかった。
 しばらく彼が去った後の赤紫に染まり始めた空を見つめた後、シュアがもう小屋の中へ戻ろうとしているのに気付いた。
「あいつ中途半端な時間に来やがるもんだからな。もう一眠りさせてもらうな」
 あくびをする間の抜けた表情も、やはりいつものものと全く変わらなかった。