時々危なっかしく揺れながら、俺たちの乗った馬車は緑に囲まれた道を進んだ。同乗者は夫婦だったり孫を連れた老人だったり、分厚い本を抱えた学生らしき男だったり足を揺らして到着を待っている幼い兄弟だったりした。
「都会には何でもあるんだな。馬がこんだけたくさん人を運べるなんて思ってもみなかった」
「これは特別よ。私だってそんなには乗らないわ。神殿へ行く人がもっと増えるよう、王がとっても安く貸して下さっているの」
「神殿って、そんなにひいきされてんのか」
「ひいきじゃなくて。神は確かにいて、私たちに恵みを下さっているの。だから歌を捧げたり、下された御言葉を伝えたりしなきゃいけないのよ」
 そうだ。メリッサが不満げな声になっているのに気付いて、彼女を見て微笑んだ。深くうなずく。そうだ、彼女と一緒にいるには無駄な言い争いなんて要らない。俺がちょっと黙っていればいいだけだ。
 進む向きが変わったようだった。窓から顔を出して見ると、わずかに湿った風が頬を撫でた。かすかな霧の向こうに見えるのは細長い建物だ。ひどく高い。塔の伸びるのに合わせて目線を上へ上げていく途中で、メリッサに服の裾を掴まれた。
「危ない。頭ぶつけるわよ」
「あれって、上ってったら雲まで届くんじゃないか」
「そんなわけないでしょ」
 メリッサが軽やかに笑う。視線をそらして座り直すと、隣の老婆が草原色の帽子を膝にのせ、にこにことこちらを見ていた。
「お兄さん、神殿に来るのは初めてかしら。晴れている日にはね、あのてっぺんが見えるのよ」
「なんであんなに高いんですか」
「伝え語りがあってね、神様が御子を地上へ下されるとき、天に一番近いのはあの神殿でしょう、だからあれを使うんですって」
 もう一度窓の外を見ると、霧はいくぶん薄くなっているようだった。窓に描かれた絵の色が鮮明になり、馬車は止まった。そこから下りて、上の方にあるでかい窓を見つめる。黒い枠と色硝子で作られているようだ。
 乗っていた人々は、こんな絵には飽きているのか、ろくに見もせずに扉へ向かう。後ろから追いついてきたメリッサが、俺の横に立って上を見上げた。
「いつか世界が大きく変わる時が来る、神はその時に救いの子を与えて下さる……そう言われてるの。それを描いたものよ」
 さっきの婆さんが言っていた話のことだろう。
 左上から手を伸ばしているのは白い髭を生やした老人だ。その手が右下へ伸び、そこから鳥みたいな羽を背中につけた赤ん坊が飛び立つ。周りのガラスは色々に彩られているが、どれもが鮮やかで、救いを必要とする世界とは思えなかった。
 こんなことしか考えられない奴は素直な気持ちで絵を楽しめない奴なんだ、そう気付いて損をした気分になる。何もかもを受け入れて明るく笑っていられれば、それが一番幸せなんだ。
 一番肯定的な言葉はどれだ。胸の中を漁って引っ掻き回す。
「綺麗だ」
「でしょう。私もね、最初に来たとき、この世にはなんて素晴らしいものがあるのかしらって感激したの」
 まだ絵を見続けている彼女を横目で見て、白い砂と土の地面を眺めた。
「精霊や天使や悪魔も、神の存在も、そしてそれに祈りを捧げる人々の信仰心も。みんな確かにそこにあって、こんなにも美しいんだって教えられた気がしたのよ」
 そんな大層な言葉ではなかったし、こんなに豪華な建物だって無かったが、俺のちっぽけな村にもそういった信仰はあった。もっともそれが神だか救世主だかなんて関係なく、適度に空を晴らし、雨を降らせてくれれば誰でも良かったのだが。
「中へ入りましょうか」
 さかむけ一つ無い綺麗な手が重々しい扉に触れた。俺の手もその上を引くと、扉の隙間から中の様子が見えてきた。
 俺たちの真向かいにいたのは、何やら妙な服を着て分厚い本を持った中年の男だった。髭が顔の下半分を、眼鏡と前髪が上半分を隠していて、鼻だけがよく見える。
 男は本を見ながら朗々と話していた。ただ話しているだけで、何を言っているのかはよく分からないし聞き取れない。古い言葉を使っているようだった。
 床はつややかに磨かれ、彼の足元から扉までは厚みのある布が敷かれている。周りを見ると、両側に椅子が備え付けられており、座っている数人は男と同じ本を見つめていた。神殿の造りは俺の村にある教会とそう変わらないのに、内装が精細だとか窓が割れていないとか天井が高いとか、様々な要因が加わってまるで別世界となっている。
 とりあえず彼の元へ歩こうとしたところで、メリッサに裾を掴まれた。振り返ると、彼女は綺麗な顔をゆがめて首を振り、右側の空いていた席に座った。その左の席をぽんと叩く。
 彼女の隣に座り、小声で話しかけた。
「みんな何やってんだ」
「見れば分かるでしょう、司教さまの話を聞いているの」
 そう言うと、前の座席の背もたれに付いている袋を探り、本を取り出した。みんなが見ているのと同じものだ。
 司教というのはあの鼻男のことらしい。あんな小難しい言葉を、みんな分かって聞いているんだろうか。確か俺より十は若い子供もいたぞ。
「次はここよ。神が神たる命に気付かれた時のお話」
 メリッサの指が本の途中を指す。細かい字だらけで、何行目を指しているんだかよく分からない。
「それどういうこと。神は最初から神だったんじゃないのか」
「私じゃなくて司教さまのお話を聞いてちょうだい」
 あんな古文書みたいな言葉が分かるわけもない。落ち着いて聞いてみるが、彼の発音にも癖があって、聞き取りにくさに輪をかけている。メリッサの指の差している部分を見てみると、こちらはそう古い言葉でもないようだった。

 神とは我々の暮らす世界の創造者、しかしそれも我々の中から生まれたものである。神とは我々の如く生き、その次に神としての生を得られた御方であるが、その存在するところは死と同一ではない。我々は神によって与えられた時間を神へ向かって歩いているのである。
 我々の辿り着くところは死に他ならない。その中で神としての命を見つけ出した者のみが神として生きることを許される。
 我々の云う神とは唯一つのものである。政治、音楽、演劇、収穫、全てを司るのが神という一つの存在であり、それを除いて他に神というものは存在し得ない。我々は神の中に生きているためである。
 つまり神の外には神がいるのである。他の神はそれぞれ世界を持ち、諸人より信仰を受けているが、その信仰は我々の持つものとは似て非なるものである。

 所々によく分からない単語はありつも、大体の内容はつかめた。
 しかしどこまで本気で書いているんだろうか。まるで作り話のようだが、それにしちゃいやに自信ありげだ。まるでこれを書いた奴が一部始終を見ていたかのようだが、そうだとしたらそいつの方が神よりずっと畏怖すべき存在に違いない。
 癖のある発音は未だに続いている。メリッサもこういったものばかり読んでいるから、天使だの悪魔だの変なものばかり信じるようになったんだろうか。縁の黄ばんだページを見るが、字なんて目にも入らず、視界の隅でぼやけてしまう。
 彼女の指に目をやる。ページに落とした影と対照になって白さが際立っていた。すっと伸びた、あかぎれもひび割れも無い美しい手。泥の似合う俺の手とは大違いだ。
 その手が突然本から離れた。顔を上げると、メリッサは席を立ち上がって高みから俺を見下ろした。ガタガタと音がして他の人々も立ち上がる。
 呆然とする俺を取り残して口を上下に大きく開くと、みんなは俺の知らない曲を歌い始めた。どこからか鋭く重々しい楽器の音まで聞こえてくる。
 メリッサの手が肩を叩いた、彼女の碧い目が立ち上がれと促していた。しかし困惑とは違う所で違和感ばかりが膨らんで、今回ばかりは彼女に合わせることができなかった。座ったまま、曲をただ聞き流す。詞もさっきの鼻男みたいに古めかしいものばかりで、理解するには遠かった。
 やがて音がどこかへ通り過ぎて、鼻男がやけにはっきりとした発音で言った。
「今日の話はこれでお終いです。皆さん、それではまた」
 そして右手で拳をつくり、一度だけ左肩と胸の間にあてた。それに合わせるように全ての人々が同じ行動を取る。挨拶だか何だか分からなかったが、形だけでも真似をしておく。
 男は軽く一礼をして、右奥の扉から廊下へ歩いていってしまった。



「ごめんね、最初に説明しておけば良かったね。祈りを捧げて、司教さまの話を聞いて、神に捧げる歌を歌って終わりなの」
 メリッサがもう一度座って、本を元通りに袋の中へおさめた。首を振って愛想を作る。俺の驚いたのはそれだけではなかったが、そんなことはどうでもいいことだ。
「まだ馬車が出るまでに時間があるのよ。ちょっと教主さまに訊きたいことがあるから行ってくるね、待っててくれる?」
 うなずくと彼女は、さっきの男が消えた扉に走って、同じように消えてしまった。さきとはまるで違う静まり返った部屋で、一人考える。俺たちの村にある信仰とこことの違いは何だ。この不快感は何だ。
 俺たちはただ祈り感謝するだけで、神の起源なんて考えたことがない。神はどんなものかなんて聞かないし、教わらないし、教えない。
 きっと俺たちにとって神とは自由なものなのだ。神として思い描くものは一人一人違っていいし、何に神が宿っていてもいい。自分で噛み砕いて理解するものだから、古めかしい言い回しも本も歌もいらない。こんな豪華な建物も絵も、どこか不自然なものに見えてしまうのだ。
 それにしてもメリッサは遅い。立ち上がって布の上を歩く。部屋には左奥と右奥に廊下への扉があり、さっき男やメリッサが出て行ったのは右だった。
 そちらから出ると左右に廊下が伸びていた。右はすぐに突き当たり、左は奥までずっと伸びて、人の気配も感じられない。
 ふとさっきの疑問を思い出した。上へ昇る階段でもあるんじゃないのか。幼い頃の冒険の記憶が蘇り、奥へと歩き出していた。この廊下にも厚手の布が敷かれ、足音はほとんど聞こえない。
 左の壁にはいくつか扉が付いていたが、そのどれも開くことはなかった。突き当たりから左へ曲がると、左側の壁にのみ、さっき窓に描かれていたような絵がべたべたと描かれていた。この廊下は左奥の扉から続く廊下との合流点なのだろう。しかしこの廊下には階段も扉も見当たらない。上へ続く道など無いらしい。
 ここは俺が両手を伸ばしたよりも広い。壁画に触れないよう右側に寄るが、特に絵に興味もないので右側の何もない壁を眺めていた。
 こちら側なんて眺める奴もいないのだろうが、俺の村にはこんな白い綺麗な壁なんて見かけないので十二分に珍しかった。材質は何だろう、木でも石でも金属でもないようだ。
 そのまま廊下の中ほどまで来たとき、無防備な指が妙な凹みに触れた。
 慌てて足を止め、今の場所まで戻る。目で見るぶんには全く分からず、掌に頼って壁を撫で回した。
 やがて、凝視しても分からないくらいわずかな凹みが床から伸びていることが分かった。これは……扉だろうか。凹みに沿って指を滑らせ、床と交わったところを蹴ってみる。凹みはいとも簡単に広がり、扉としての姿を明らかにした。
 ぐっと押していくと、突然扉が軽くなった。一瞬怯んで後ろに下がるが何も聞こえない。恐る恐る扉を開くと、その向こうには階段が見えた。
 覗き込むが、上はひどく暗くて何も見えそうにない。どこかひんやりとした空気が俺を通り過ぎていく。一度戻って左右を見回し、大きく息を吐く。素早く中へ入って扉をきっちり閉めると、一気に駆け上がった。
 さっきの廊下と比べると格段に狭く、腕も満足に振ることができない。それでも踊り場に辿り着き、向きを変えて上へ上へと足を伸ばした。
 突然明るくなり、一瞬目の前が真っ白になる。やっと開いた目に映ったのは、がらんとした無機質な部屋だった。
 手も届かない上方の壁に、採光用だろうか、小さく窓が切り抜かれて曇り硝子が入っている。殺風景で、装飾品どころか椅子すら見当たらない。予想に反して埃の匂いは全くしなかった。
 人が二十人入ればすぐいっぱいになる程度の広さしかなく、その中心部分の床には四角く穴が開いている。そこには俺の上ってきた階段が収まっているのだ。その穴の三面には木製の手すりが付いており、金属製の柵が檻のように嵌まっていた。
 ここは人の暮らしている場所ではないらしい。特に隠すこともないのに、目を引く壁画の向かい側を扉にしたり、取っ手を付けていないのは何故だろう。
 静かだ。ゆっくりと部屋を見回す。
 視線を感じた。
 バッと後ろに向き直ると、そちら側に掛かっていたのは壁一面も覆えるかという大きな絵だった。ほ、と息をついて肩の力を緩める。
 男とも女とも特徴の付かないほどの子供が、少し寂しげに目を伏せて描かれている。額に対してその子供はあまりに小さく、広く取りすぎた四辺の余白が、子供の孤独さを更に濃くしているように見えた。
 陽の光すら淡くけぶり、妨げるものの無いこの部屋で、なんて大切に扱われているんだろう。絵は埃一つ被っていなかった。
 あの鼻男や他の選ばれた者たちが、この絵を大切に世話している様子を思い浮かべた。そうするとあの仰々しい話や歌や絵は、どれもこれを隠すためではないかという気さえしてくるのだった。