彼女は連れ去られたのだ、この世界の狭間へと攫われた。どこからか声がする。それはどこか遠くからのようで、吐息の触れるほど近くからのようで、また自分の中からであるようにも思える。
 またどこかから、今とは違う声がした。――何の為に? それに答える声が聞こえる。新しい命を産むため。全く新しい、可能性に満ちた命を創るため。二つの声は遠くなり近くなり、どこにあるのかも分からない壁にわんわんと響きながら消えていく。
 なんと素晴らしい。
 その通り。もう何十年も前から全ては歩き始めて、今はもう止まることなどできない。誰を騙しても走り続けるしかない。
 何十年も前からとは如何な。
 黙れ、何も言うな、何も見せるんじゃない、何も思い出させるな。黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙

 耳の感覚がそれに支配されたところで、ぴたりと全ての音が止んで静寂が訪れる。やがて、聴覚以外の感覚を自分が有していることを思い出した。ひやりとした掌が頬に触れ、それは指の付け根となり、指先となり爪先となって、やがて離れる。
 この体はもう、耳を持ってはいないのだ。そう思った途端にそれは体の隅々まで染み渡り、痺れを伴って、音という当たり前だった存在を忘れさせようとし始めた。何も聞こえなくなって、聞くという動作の意味すら忘れかけていた。
 だから、その声が「聞こえた」時は、体を強く殴られたような衝撃を受けたのだ。しかしそれは実際のところ、風を忘れた水面のごとく穏やかなものだった。囁きにも満たない、ただのため息のようでもあった。
 ――過去を見据えなさい。振り返ったところに答えがあります。

 目をお開け。お前は騙しているのではなく騙されているのです。
 目をお開け、   。





 ひどく憎しみに満ちた心で、初めての世界での初めての朝を迎えることとなった。滲んだ視界の中にシュアの顔が映る。今朝はめずらしく俺より先に起きたらしい。
「ひっでえ顔してんなぁ。どうした、リンク坊やはそんなに怖い夢でも見たのか」
 何も答えずに起き上がる。頭の中がごちゃごちゃと一杯になっていて不快だった。今の俺に必要なのは、ひやりと背筋を撫でるような朝の新鮮な空気だ。シュアを押しのけて歩き、窓に手をかける。
「リンク、目ぇ覚ませ」
 お調子者の声が一段低くなった。動作をやめて振り返る……思い出す、ここは違うんだ。いつもとは違う場所なんだ。
「悪い。なんか変な夢見たみたいで」
 指を窓から離して額に当てる。やはり何も覚えてはいない、ただ憎んでいた……というよりも、痛いところを突かれて逆上したという感じか。いや、本当にそうなのか。もう夢の中で動いた感情さえも消えかけている。
 今更何を考えるも馬鹿らしくなり、目を閉じて扉の方へ向かった。この宿は各部屋の中に水場がある。顔を洗って寝室へ戻った。
「まず地図を買おう。この街から始めて、一つ一つの街をしらみつぶしに調べていくんだ」
 うなずいて靴を履いた。人間界での行動はシュアに任せていれば問題ないだろう。ローブを取って頭からきっちりと被る。
 背中の翅羽を伸ばしひと呼吸おいて、また窓に手をかけた。確認を取るようにシュアを見る。顎が軽くうなずいたのを確認して窓を開けた。途端に聞こえていた雑音が大きくなる。
 まず目に入ったのは石の敷き詰められた道だった。昨日ここへ来た時は夕陽で赤く染まっていたが、今は青白く陽をはね返している。そこを駆け回る子供、それに引き連れられた大人、道端に粗末な店を建てて何やら売っている人々、時々見える物々しい格好の人々。
 あまり高い家は無いらしく、屋根と木と道ばかりが見える。想像していたよりずっと進んだ光景だった。
「じゃあ降りるぞ」
 驚いて振り返ると、シュアは扉へ向かおうとしていた。俺が心配するまでもなく、扉から外へ出て階段を降りようということだったらしい。窓から降りようとした自分を、無表情の中に隠して後を追った。



 宿の一階は広間になっており、端に受付と待合用の椅子が並ぶだけの広々とした空間だった。階段を下りて背となる壁には扉が二つ付いており、双方が同じ部屋へと繋がっていた。広間よりもやや広さを持つ食堂で、四隅には鉢入りの植物が置かれている。
 シュアが選んだのは、支払い場から一番遠い隅の席だった。そこはひっそりと沈んだ空気を持っていた。喧騒も遠いし、置かれた鉢もどこか萎れて見える。明かりですら、こちらを照らすのは面倒そうだ。
 支払い場に入っていた宿の女主人と何か話していたシュアが、巻紙を手に帰ってきた。ローブで覆った顔を軽く扇いで、俺の向かいの席に座る。
「地図?」
「ああ。つくりはオレらの所と同じだ、でもこっちの地図にはこっちの奴らの世界の範囲しか載ってない」
 巻紙を受け取り、皿を机の端によけて広げてみた。
 机いっぱいに広げられた地図は、思いのほか単純なものだった。土地が数色に分けられているだけで、あとは地名しか載っていない。薄い草色が普通の平原、濃い緑が森で空色は水場だろう。
「この茶色は?」
「山地だ」
 平坦な風景に見えたが、ちゃんとそういうものもあるらしい。地図の見方が分かると人間世界の認識も楽になる。
 中心に大きな湖、それから伸びるように東に一つ小さな湖、北西と南西に一つずつ小さな湖がある。中心の湖の北と南には大きな山地が広がる。
 街は中心の湖を囲むように八つ、南西の湖の近くに二つある。北にぽつんとあるのは神殿らしい。
「オレたちが今いる場所、つまり王都はここだ」
 シュアの指が中心の湖の北にある黒い点を指した。南には大きな湖、西に大きな川を持つ暮らしよい場所だ。その指がつっと東へ動いて濃い緑を指した。
「ここら辺に昨日の場所がある。斎占の館だな。こっからずっと西を向いて歩いてきたわけだ」
「歪みを見付けるまでは、この全部を回らなくちゃいけないわけだな」
「でもオレらの世界よりはましだ。ほとんどの人間は街にしか住んでいないからな」
 うなずく。精霊界には、王都を除いて街という場所が無いのだ。なまじ人間より移動手段が発達しているだけに、仕事場から遠く離れた場所に住むものが多い。
 北の切り立った岩場に住むシュア、そして周りに緑しかない植物群の下に住む俺もその一端だ。もっとも俺たち塔官には、整えられた王城の周りの塔が与えられてはいたが。
「ところでその歪みってのは、人間のいる所に発生してるわけか」
 シュアの動きが止まる。茶色の目がじっと地図を見つめたまま固まって、やがて俺を見た。
「歪みは勝手に生まれるものじゃない。不自然な何かによって引き起こされた、不自然な世界のかたちだ」
 確かにそうだ。今までに無かった、伝説として聞いたこともない「歪み」。それが突然生まれた。何か自然には起きないことが始まっている、それによって歪みが生まれた、という方が自然だ。
 あの斎占師の言うことを信じるのなら、歪みはこの人間界にて生まれている。人間のいる場所で、誰かの手によって生み出されたのだ。
 それを調べるには全ての街を周ればいい。しかしそれは、仮に何も見付からなければ振り出しへ戻るということでもあった。小さく首を振る。それはまだ後の話だ、今は焦ってはいけない。
 椅子を後ろへ引いて立ち上がった。地図を見下ろしてもう一度街を確認する。
「どの順番で行く」
「まずここ、そして次は神殿だ。こういう大きな組織ってのは、見えない部分も山ほどあるもんだからな。それから先は湖の東から南へ周ろう。西の最果てのここに着いたら、また北へ戻る」
 最果てと呼ばれた一番西の街は、森と湖に挟まれて、ひどく控えめにその名を刻んでいる。こんな場所には人間だってほとんどいないのだろう。
 シュアの手が地図を元通りに丸めて懐へ入れる。ローブをきっちりと着直すと、二人分の会計を払って外へ出た。



 初めてヴェイン大臣に会ったのはいつだっただろうか。もう覚えてはいない。覚えていられるよりももっと幼い頃から、父や母と懇意だった大臣は俺の生活の一部だったのだろう。二人目の父さんのようなものだ。
 その頃の俺の両親はもう、今の俺の住む場所で暮らしていたはずだ。だから俺に塔で暮らした経験は無い。
 当時は近くにシュアの一家もいた。俺の一家、シュアの一家、そしてヴェイン大臣に、もう顔も覚えていない大臣たち。昔は、よく一緒に集まって夕食を共にしたものだ。思えばシュアの異常な味覚はあの頃からかもしれない。
 あの頃はシュアもヴェイン大臣に甘えていたような気がする。今よりもっと頼りない、弟のような奴だった。
 いつからそれが無くなったのだろう。全く思い出せない。いつ、シュアが岩場へと移り住んだのか。いつ両親が死んだのか。気付けば俺は一人で、ヴェイン大臣に護られて幼い時を過ごしていた。
 シュアと再会したのは一人前に仕事ができるようになってからだ。もっともその時シュアは既に俺より出世していたから、俺が同じく塔官として働いていることすら気付いていなかったかもしれない。まともに言葉を交わしたのは、今の命を受けたあの朝が初めてだった。
 シュアは全く変わらなかった。茶色の目と髪は陽が当たると夕焼けの色に輝く。鋭い眼光、笑った口元。低くなった声に、わずかに耳につく口の悪さ。
 しかしその中身はあの幼い弟ではなかった。人間界に近い難しい仕事を難なくこなし、次々と位を上げていく。その噂は精霊界中心で行動していた俺の元にも届いた。何より、彼の信ずるものが王という存在のみとなっていた。
 王を敬うのは当然なのだが、シュアはあまりそういったものに関心を示さないように見えたのだ。
 ローブに覆われた後頭部を眺め、彼に何かあったのだろうかと考える。しかしそんなもの、簡単に説明できるはずもないのだ。会わなかった十数年は、一つ一つが積み重ねてきたものなのだから。
 俺だってシュアから見れば、どこか変わってしまったに違いない。だからといってどこが変わったか、どうしてそうなったかなんて言えるはずがない。それはきっと、俺に変化と自認しうるものではないのだ。
「知らない場所にだけは行くなよ、リンク。とにかくオレの後をついてこい。一人で出歩くのも許可しない」
 はっとして、振り返ったシュアの顔に焦点を合わせうなずいた。
 色鮮やかな石畳の道を歩く。この道は常に喧騒の外側にあり、祭のあっている本道とは交わってもいないようだった。樹もまばらに植えられており、その間から家々が見える。遥か遠くには、四角い巨大な建造物が突き出して見えた。
 時々、祭の行き返りの人影や、祭には興味無さそうな影を見ることがあった。すれ違う時には不自然にならない程度うつむいて、できるだけ気を引かないように歩く。しかしシュアは人間を気にすることなく歩いていたので、すれ違って顔を上げた頃には小走りにならねばならないほど間隔が開いていた。
 道と同じ石造りの階段を上ると、どこからか水の音がした。ふと足を止めると、階段を上りきったところにある、最近立てられたらしい立て札に気付く。俺がその前で立ち止まるとシュアも戻ってきて、腕組みして腰をかがめた。
「なんだ、それ」
「尋ね人らしい……けど、なんでこうもはっきり誘拐って書いてあるんだ」
 俺が問うとシュアは表情を変えずに、ああ、と小さく呟いた。
「その頃、この辺りで失踪事件が頻発したんだよ。いなくなったのはオレらくらいの歳の女ばかりで、しかも何の共通点も無かったから、誘拐ってことになってんだ。もうこっちでの仕事を始めてたから知ってる」
 尋ね人はまだ若い女、失踪したのは二年ほど前ということだった。地形にさえ起伏が見られないこっちの世界も、実情は割と物騒らしい。しかしここは平和だった。もちろん何かしらの犯罪は起きているだろう、誘拐だって起きている、しかし歪みなど見付かりそうになかった。
「神殿っていうのを見てみたいな」
 ぽつりと漏らす。そちらの方がまだ手ごたえでも何でもありそうだ。神殿へはこの街からしか行けないのだから、何も無さそうならまた戻ればいい。どうせ湖の周りを一周したらここへ戻るのだから、その時でもいい。少なくとも、祭の最中の今よりも動きやすいはずだ。
 シュアは何か考え込んでいたが、いつもと同じ様子でこちらを振り向きうなずいた。
「お前にも、こんな人の溢れた祭り中の街よりそっちがいいな」
 道の端で地図を広げて、今いる街と神殿の位置を確かめる。
「この街の西を、南北に流れる川がある。それに沿って北上すれば神殿が見えるはずだ」
 地図をもう一度しまうと共に、シュアの手が許可証を取り出す。この街へ入るのに要ったものだが、出る時にも必要なのだろう。
 天へとのびた壁の切れ目へ向かい、門番の脇を抜けて、また草と空と湖の視界に出た。こちらの方が落ち着く。風も元の形を残したまま流れていた。さっきの壁の中では、狭い範囲の中で生まれた不自然な風しか浴びることができない。
 湖へと注ぐ川を見付け、シュアを呼ぶ。その川に沿って歩き始めると、程なくして森が見えてきた。と言ってもそれは暗さも何もない開かれた森で、足元には石段で作られた道まである。
 しかし誰一人として歩いている人間の姿は無い。シュアに尋ねようとしたところで、軽快な足音とガラガラという耳を叩く騒々しい車輪の音が聞こえてきた。
 俺の家のように緑の光の差し込む場所で、前から歩いてきたのは白い馬だった。側面にはいくつかの覗き穴を、下部には俺の腰の辺りまでありそうな車輪を付けた、大きな箱を引いている。きっと人間の乗り物だろう。
 石段の端に寄ると、箱の外部に付けられた席に座った髭の男が横目で俺たちを見下ろして、街の方へ馬を歩かせていってしまった。
 呆気にとられて見送る俺に、シュアが呟いた。
「お前をあんな密閉空間に入れるわけないだろ。話しかけられることも多いし、ボロ出しても簡単には逃げられない」
 唇を結んで前を向き直す。人間界に来た時からそうだったが、兄役をやっていたのに弟役を押し付けられるのは、なかなかきついものがある。離れて仕事していた時には決して感じなかったことだった。
 シュアを追い越して足を速める。どんどんきつくなる坂を、息など切らさぬように歩き続けた。