違う違う気付け、信じるんじゃなく疑え、もうお前の周りには静かな朝など無い、静かな夜など無い。お前が気付いていないだけで世界は動き始めている、お前を残して歩き、お前を遠ざけたまま走り始めている。
 全ては仕組まれたこと。お前の目は未だ塞がったまま、疑え、過去を見据えろ。





 いつもより硬い音がした。常より堅い材質の扉を手の甲が叩く音だ。
「チェイン、起きてる?」
 いつもとは違う声だった。目も開かないままに、違和感だけで起き上がる。目をこすると見慣れない光景が目に入った。がらんとした部屋に冷たく光る床、無機質な匂いのする場所だ。
「入っていい?」
 またあの繰り返しだ。なかば諦めた気持ちで扉を睨んだが、一向にそれが開く様子はない。ああ、と篭ったままの声で返すと、途端にノブが回って扉が開く。
 開いた四角形の中に見えたのは見慣れた金髪だった、が何とも言えない違和感があった。もう一度目をこする。
「まだ眠そうね、慣れない街だから眠れなかった?」
 ぼうっと、向かいの椅子に腰掛けた女を見る。いつものあいつじゃない、彼女の名は……メリッサだ。
「いや、うちよりも随分と寝心地がいいもんだから」
「本当に? 父さんに伝えておくわね」
 メリッサが両手を口の前で合わせて笑顔を作る。ここは彼女の住む街、彼女の両親が経営する宿だった。俺の村だと、宿はただ眠るだけの場所だったし、泊まりに来るほどの物好きも滅多におらず、王都から運ばれてきたものの市場となっているのが常だった。
 彼女が、部屋の隅にあった椅子を引き寄せてこちらへ顔を寄せる。二つ並んだ青い目のそばで金色の髪が揺れる。
「こっちの方へ来たことはある?」
「これが初めて。自分の村より都会には来たことが無いんだ」
「そうなの。王都にも?」
 うなずくと、メリッサの目が大きくなる。
「じゃあまさか神殿にも?」
 これ以上目が大きくなるのだろうかなどと思いながら、もう一度うなずく。彼女は今度は顔を左右にぶんぶん振った。
「そんなの絶対にだめよ! 人生を損してるわよ、チェイン」
 柔らかな金髪が大きく揺れて俺の鼻をくすぐった。あまりに大げさな様子で反応する彼女に、ふっと笑って頬杖をついた。
「損? やっぱり一生に一度は見に行くべきかな」
「そんなものじゃないわ。確かにチェインの村は遠いから、通うのは無理かもしれないけれど、でも一度教主さまのお話を聞いただけで人生が変わったっていう人もいるのよ」
 へぇ、と驚いたように言ってみる。メリッサは椅子に深く座り直した。怒っているようにも見えた表情から一気に力が抜けて、元の柔らかい表情へ変化する。
「興奮してごめんなさい。最初は観光目的でもいいから行ってみたらいいわ」
「じゃあ連れて行ってくれるか」
 メリッサは少しの間俺の顔を見つめていたが、その顔はすぐに満面の笑みへと変わった。ぱんと両手を打ち合わせて椅子から立ち上がる。
「そうね、行きましょう。でもその前に部屋を整えないと」
「メリッサの仕事?」
「ええ、せめて学校の無い日くらいは手伝わないと。下のソファーで待っていて、すぐに行くから」
 うなずいて荷物をまとめにかかった。旅の用意をする暇なんてほとんど無かったから、要り用なもの少ししか鞄には詰め込まれていない。掃除を始めたメリッサを置いて、顔を洗って部屋を出た。
 廊下の向かいの壁には窓が付いており、覗き込むとびっちりと舗装された道が見える。彩度を抑えた橙や黄といった色合いで、少し遠くには噴水もあった。それを囲むように丸く曲がった長椅子、はしゃぐ子供にくつろぐ老人。木もまばらに植えられており、その根元だけ土の色がのぞく。
 その向こうには大きな四角い建造物が見えた。その表面には四角の窓が規則正しく並んでいる。あれが学校というやつだろう。
 ここあたりでは小さいうちから学校に通う子供が多いのだという。この街は特に学校が多く、それゆえ学園都市と呼ばれることもある。どのようなことを学ぶのかは知らないが、少なくとも村長の家で開かれていた「良い土の見分け方講座」よりは高度に違いない。
 そこから見える景色はまさに都会じみていて、ここへ来た昨夜とは比べ物にならないほど鮮やかに感じた。
 自分の村を出てから四日、これまで二つの村や街を見てきたが、ここが一番進んでいる。一つ一つ王都へ近付くごとに、数十年の時をくぐり抜けているような眩暈に襲われた。
 そういえばヒルドの式はもう終わったのだと思い出す。無事に済んだのだろうか。ルナはやはり出席したのだろう。
 後ろで扉の開く音がした。
「珍しいものでもあったの」
 聞き慣れない可愛らしい声は、箒を抱えて隣の部屋へ入っていく。俺の泊まっていた扉の番号札が裏返されて、OPENという文字に変わっていた。
「見るものが無くなったら下の部屋で待っていてね。支度が済んだら朝ご飯を食べに行きましょ」
 扉の閉まる音が聞こえて、また静かになった。窓から流れる風を感じていると、どこかから小さく鐘の音がする。何度か繰り返して鳴り止むが、それと共に、今度は押し寄せる波のように人の声が聞こえてきた。窓を離れて階下へ向かう。
 踊り場の壁には、窓の代わりに絵がかかっていた。すぐには何が描かれているのか分からなかったが、ぼうっと見ていると、ふわふわとぼやけた色の中に妖精のようなものが描かれていることが分かる。はっきりとした輪郭線は一つも無く、色の境目は滲んだようにぼかされている。妖精の背景となっている色は濁った沼のような色なのに、全体としては美しく感じるのが不思議だった。
 メリッサの好みそうな絵だ、と思う。きっとこの絵を選んだのは彼女だろう。階段は、踊り場から一階にかけては段々と幅が広くなっている。それを下りて受付のある広間へと出た。
 向かい側には硝子の付いた扉があり、朝の光を鈍く映し出している。左側の受付にいるのは、昨夜見かけた長身の男性ではなく、目尻や口元に細かく皺の刻まれた女性だった。年齢具合からするとメリッサの母親だろうか。軽く会釈をして、右側の壁沿いに置かれたソファに腰掛ける。その両脇には何かの植物が鉢に入って置かれていた。
 程なくして箒を抱えたメリッサが降りてきた。奥の部屋に入ったかと思うと掃除用具の代わりに鞄を持って駆け寄ってくる。
「待たせてごめんなさい」
 そして受付にいる女性に手を振り、先に外へ出てしまう。もう一度さっきの女性に会釈をして後を追った。



 この世界にはこの一国が広がっているのだという。陽の沈むさびれた方から、この前通った最果ての村、俺の村、そして二つ村をはさんでメリッサの住むこの街だ。
 ここくらい栄えていると村も街も通り越して都市だ。俺の村のような泥臭さはどこにも無い。この街の向こうには最大の都市である王都が広がっている。
「王都はね、私の街なんか比べ物にならないくらい大きいのよ」
 メリッサが両手を大きく広げる。その腕の向こうの空にはうっすらとした雲が広がっており、その中を悠々と鳥が飛んでいく。
「必要なものは何でも揃うしね、人だって驚くほど多いの。もちろんそれだけじゃなくて、劇場や図書館、美術館もあるのよ」
 それが何かなんて知らないが、驚いたふりをしておく。あんな都会に住むメリッサがこんなにも強調するということは、きっと目も眩むような楽園でも広がっているのだろう。
「王様はお城くらい大きな船を持っていてね。一度見たことがあるんだけど凄かったなぁ、湖に新しい街ができたみたいだったもの。その船で湖を渡って、遠く離れた街にも行くことができるのよ」
 それは純粋に凄いと思う。そんなにでかい船なら、オールを漕ぐのもさぞかし大変だろう。
「なあメリッサ、今向かってんのは王都で、神殿はその北にあるんだよな」
「そうよ。森を抜けた先にあるんだけど、道もちゃんと整えられているから大丈夫よ」
 それは最果ての村へ続く森と比較して言っているんだろう。こんな別世界に住み慣れたメリッサにとっては、あの森なんて獣の棲み処のように感じたんじゃないだろうか。それともいつもの調子で、妖精でも思い浮かべて胸を躍らせていたのか。
「その向こうは? 他にも街や村はあるのか」
「もちろんよ! 他にも歴史ある街がたくさんあるのよ」
「へえ、そいつは知らなかった」
「学校では小さいうちから村や街の名前を暗誦させられるんだから。もうすっかり覚えちゃった」
 学校ではそういうことを教わっているのか。俺にとっては良い土の見分け方の方が有用だし、ずっと興味をそそるものだった。学校へのわずかな憧れは簡単に崩れて消えた。
「それにしても、嬉しかったな」
「何が」
 メリッサの碧い目がこちらを見上げて細くなる。
「さっき私、神殿に行くべきって力説しちゃったでしょ。でもチェインって、あんまりそういうのが好きそうじゃないかなって思ってひやひやしたの」
 彼女の向こうには大空が広がっている。今は鳥は見えない。雲だけがゆっくりと影を落として過ぎていく。
「だから、自分から行きたいって言ってくれて嬉しかった」
 メリッサの勘は鋭い。唇を軽く噛んで、前を向き歩き続けた。吹きくる風が草の匂いを鼻腔まで運んできたところで、ふと彼女の笑顔を見てこちらも微笑む。それくらいで笑顔が見られるなら容易いものだ。
「王都まで、あとどのくらいなんだ」
「向こうに川が見えるでしょ、あれを渡ればすぐよ」
 長い指が緑の向こうを指す。ずっと湖を右に歩いていたから気付かなかったが、向こうに見える水は川らしい。そちらを見て、それを指していた指に目を移す。田舎暮らしの目にそれは、はっとするほどの美しさを保っていた。見つめる間もなく彼女はそれを自分の脇へ戻す。
「チェインは大丈夫なの。村を出てから何日か経っているけど、家の人は心配しない?」
 ルナの顔がちらと浮かんだ。まばたきだけで振り払う。
「平気平気。たまの旅くらい大目に見るさ」
「そう、良かった」
 川が近付いてきた。左へ少し歩いたところに橋が見え、その更に向こうにある壁に気付く。天まで突き抜けそうな高さだった。そこの空だけ四角く石の色に染まっている。曖昧に人差し指でそれを指し、怪訝さを隠し切れないままに横の彼女を見た。
「メリッサ、まさかあれが?」
「そうよ。王都は街を壁で囲っているの」
「どうして」
「さあ。でもそんなに変かな、そう高い壁でもないじゃない」
 学校みたいなどでかい建物を毎日見ていれば、こんなことが言えるようになるのか。そういえばメリッサの街にも低い壁と門が付いていた。自分の住処を壁で覆って息苦しくは……ないのだろう、きっと。
「王都から神殿まで無料で馬車が出ているの。まだお祭りは続いているけど、街の中も寄っていく?」
 無言で首を振った。こんな、何もかもが大規模な所に長居したら酔ってしまう。ヒルドの持ち帰った嫌味な洗練ぶりと、この籠の中に所狭しと飛び散っているであろう煌びやかさを、頭の中で混ぜ合わせる。想像しただけで頭が変になりそうだった。
「じゃあ馬車の所まで行きましょうか」
 橋を渡るといよいよ壁は大きくなる。壁の間近では、空など首を痛くしなければ見ることができなかった。壁をぐるっと巡っていくと、それが切れて入り口となっている一辺へ辿り着く。
 しかしその両脇には見たこともない服に身を包んだ男が一人ずつ立っていて、門の右側の男は左手に、左側の男は右手に棒のようなものを持っていた。その先には鋭い金具が付いているから、何か戦いでも待っているのだろうが、それにしては動きにくそうな服だ。生地が厚く、皺一つできていない。
 歩いて行こうとした俺を、メリッサの声が引き止めた。
「待ってチェイン、門を通るには証が要るの」
 そう言った彼女は鞄から小さな紙を取り出し、門番の立っている所へと駆けていった。その様子を見ながら、門番は何と戦うためにあんな仰々しい格好をしているのかと考える。
 メリッサがこちらを振り返って手を上げた。そこまで駆けて門番に会釈し、すぐ目を逸らして門を通る。
 入ったすぐそこはまだ木々も多くて、それほど俺を驚かせるものではなかった。しかし土と草を踏み慣れた足の裏は、隙間もなく固められた道に驚く。やがてくすんだ橙色の道はゆるやかな階段へさしかかり、景色は少しずつ人工的なものへ変わっていく。
 足元を確かめている視界の隅で、メリッサの白い手がさっきの紙を鞄にしまうのが見えた。
「なんでそんな物がいるんだ。王都とはいえ、街へ入るのにも資格がいるのか」
「そうじゃないわ。ここ辺りで起きている事件のせいよ」
 視線を上げて彼女を見る。石の壁と家々を背景とした彼女は、木々の中にいる彼女よりもずっと自然に息をしているように見えた。それが彼女の望む場所であろうと、そうでなかろうと。彼女の向こうに壁が流れていく。
「若い女の子が次々と連れ去られる事件。最初にそれが起きてから二、三年経つけれど、未だに犯人は捕まっていないし何の手がかりも無いの。だからどこの者かを記した証が必要なのよ」
 人さらいか、物騒な話だ。しかしそんなに前の話が未だに伝わってこない俺の村は、一体どうなっているんだろう。どこかで世界が途切れているんじゃなかろうか。
「それじゃあ馬車乗り場まで行きましょう」
 うなずき歩き出す。街の中心部から聞こえる音楽はやけに明るかった。頭の上だけに広がる四角い空が、どこか取り残されたように遠く見えた。