初めて貴方を見た時の私の混乱ぶりをお教えしたいくらいです。
 貴方は遠目にも美しい人で、傍らに立つ彼を見た時は、どうして貴方たちが一緒にいるのだろうと思いました。貴方のような人が彼の知り合いだなんて、どうにも信じられなかったのです。
 貴方に差す陽、貴方から流れる影、揺れる髪の一本一本さえまるで触れてはならないものに思われました。
 貴方の纏っていたのは華やかさではなかった、それでも貴方は私の目を引き付けてやまなかった。しかし私には近付くことも、じっと見つめることすら出来そうになかった。貴方は貴方という存在、私に触れうるものではなかったのです。
 あまりに焦がれすぎたのでしょうか。
 そのままどこかへ行ってしまえばよかった、あるいは私がどこかへ消えてしまえばよかったのです。私はあまりに幼かった。貴方を垣間見ることを単純に喜んでいました。
 あまりに焦がれすぎたのでしょうか。
 きっとそうなのでしょう。だから、貴方が彼のために在ると知って彼を憎みました。彼を愛していた私の上に憎しみが降り積もる、この腕にどす黒い雪が染み込んでいきます。
 彼がいなくなった日も、このちっぽけな体を突き抜けたのは悲しみでなく苦しみでした。彼がいなくなればいいと、ちらとでもそう思ったのは事実ですから。どうか幼い私を守るため、一つだけ言い訳をさせて下さい。

「じゃあ、俺は一体どうすればよかったっていうんだ」





 波紋がその輪を広げるように、その朝は静かに明けた。瞼だけを静かに上げて天井を眺める。
 昨日の蝋燭を思い出す。暗闇の中で燃えていたものではなく、オーガの目の中で爪先を揺らしていた灯だ。
 再び目を閉じる。相変わらず何を見ていたのかは覚えていない。夢を見ていたのは間違いなく俺なのだから、俺が意識的に意識させないようしているのか。忘れてしまおうとしているのか、感情だけは毎日のように爪痕を残していくというのに。
 また目を開けて天井を見る。質素だが堅固な造りだ。むき出しの梁が真っ直ぐに伸びている。
 今見つめているのは斎占師の館の屋根の内側だった。あの後、雨が降り出したので出発を取りやめて留まることにしたのだ。幸いシュアとオーガに面識があったこともあり、入り口に近い一室を貸してもらうことができた。
 自由になるのは一室ながら、生活感が無いだけに片付いているし、こうやって眠るための場所もある。床を探し出して横にならねばならないシュアの家より、遥かに居心地が良かった。
 シュアはまだ眠っているらしい。窓の外の空にもそれほど色は着いていないし、まだ時間が早いのだろう。耳へとそよぐ寝息を乱さぬように床へ降り、靴を履いて翅羽を伸ばす。
 外の風に当たろうと、そっと扉まで歩いて鍵を回した。取っ手を回そうとするが途中で引っかかってうまくいかない。
 鍵は元々開いていたようだった。もう一度鍵を回して扉を押し、絨毯の感触を靴越しに感じる。
 扉上部の窓からは、更に弱い光しか差していなかった。まだ陽が地平線に寝そべっているので、絨毯に明るい赤は見当たらず、薄い影が壁に浮かぶばかりだ。柔らかな光の粒が埃とともに散らばるのが見える。
 扉は来た時よりもさらに重く大きく、闇の中へ沈んでしまうように見える。少し迷って一歩進んだ後で、扉に大きな錠がかけられているのに気付いた。錠が付いたことによって扉は寒々しいようにも見えてくる。
 外せないこともないが、わざわざそんなことをする必要も無い。部屋へ戻ろうか、……いや。
 振り返った先にある闇に興味が湧いた。縦長い四角の上部に弧が付いた形の「洞穴」。その先には何があるのか。来た時は、延々とオーガの部屋のような扉が続くのかと思ったが、それ以外の祭壇や祈りの場所などもあるのだろうか。それとも斎占師は祈りなど捧げないのか。
 足が動き出した。絨毯を踏みしめ、闇へとその身を滑らせる。壁から光が消え、壁に反射するわずかな光以外には何も見えなくなった時、闇の中から何かが顔を出した。
 小さく叫びそうになった声を飲む。頭に連れられて現れたのは首、肩、腕、腰、つまるところは姿一体だった。
 靴が触れ合うか触れ合わないかの距離で双方が止まる。骨ばった指がすっと伸びてパチンと鳴った。俺の目の前に火の欠片が現れてちらちらと光りながら落ちていく。目の前がわずかに明るくなる。
 目の前に見えたのは覚えのある顔ではなかったが、オーガと同じ服装であることから斎占師だと分かった。
「えっと……」
「お戻りくださいませ。ここより先は私ども以外の者の立ち入りを禁止しておりますゆえ」
 低い声でそう言ったきり、口を覆った布も目の周りの皺もぴくりとも動かなかった。やむを得ず後ろへ下がって頭を下げ、自分の部屋へ向かう。
 部屋へ入って鍵を閉め、息をついた。そうして初めて、こちらの方が圧倒的に高地位だったのだと思い出す。しかしあの状況でそれを持ち出すなどと、誰にできるだろう。ここは彼女たちの城で、宗教だの斎占だの、目に見えない異質なもので満たされているのだ。
 あの斎占師に背を向けてからもずっと背中を睨まれている気がしてならなかった。こういう場所は、やはり秘密に包まれたものが多いのか。王が自分の姿を誰にもさらさないのと似ている。
 扉の取っ手を握ったままなのに気付いた。昨夜もシュアのいびきを聞きながら、こうして鍵を閉めた。ふとあることに気付いて、扉をじっと眺める。
 誰が鍵を開けたんだ?

 規則正しく聞こえていた寝息の調子が乱れた。後ろを向くとシュアが目をこすっていた。
「起きたか」
「……もう朝か」
「今日は天気がいいみたいだから出立だ。ちゃんと目ぇ覚ませよ」
 曖昧に答えてまた布団をかぶり直したシュアを小突く。そして自分の寝床に座り、寝癖だらけの茶色い髪を眺めた。
「なあシュア、お前、昨晩に眠ってから一度でも起きたか」
「オレが起きると思うか」
 布を通してくぐもった声が聞こえる。
「だよなぁ。そうか、気にしないでくれ。それより起きるぞ、こら」
 さっき鍵を開けたつもりで閉めたように、昨晩は閉めたつもりで開けてしまったのかもしれない。その証拠に、この部屋の様子は昨日と全く変わってはいないのだ。そう思い直して、シュアの張り付いた布団をはがした。



「あっちはこっちと同じ一国制で、都に王とか大臣とかがいるんだ」
 オーガの運んできた赤い果実をかじりながらシュアが言った。眠る用意は万端といったように、だらしなくベッドに寝転んで肩肘をついており、これが出世頭と呼ばれているなど信じがたかった。それは数年前に別れた、弟のような親友そのままの姿なのだ。
 こちらはベッドに腰掛けてそれを見下ろす。
「それは知ってる。他には?」
「もちろんこっちほど栄えてはいない。特有の力だって持っちゃいないし、オレらの存在だって信じちゃいないから紛れ込むのは容易い」
 不思議な味のする果実だ。王都近くで見かけたことは無かったが、人間の住む地域に程近いここでは取ることが出来るらしい。
 さらに一切れをかじって、同じように問いかける。
「他は」
「他ぁ? えっとな、今、都では祭りの最中なんだってよ。そうだ、美味いもんがいっぱいあんぞ」
「……その他には」
「他?」
 シュアの口に最後のひと欠片が放り込まれた。そのまま仰向けにごろんと転がって両腕を投げ出す。
「無ぇよ。オレだってそんなに詳しくないんだ。お前よりほんのちょーっと人間界寄りの仕事をしたことが多いってだけなんだよ」
 軽くうなずいて自分のひと欠片も口に放り込んだ。立ち上がる。
「つまり今分かってるのは、怪しい行動を取らない限りは正体を知られることはないってことか」
「耳と背中は完全に隠さなきゃな。何か纏うものを借りていこう」
 扉を叩く音がして、オーガがその隙間から顔を覗かせた。頭から被れるくらいのローブを頼んで館の扉へ歩く。先程の錠は、今はどこにも見付からなかった。
 森へと出てオーガが来るのを待つ。斎占の館のもっと向こう、森の向こうを眺めた。そのずっと向こう、この奥に長い館が終わる頃には、人間界というものが現れるはずだった。
 そこへ向かうのはこれが初めてだった。話には聞いたことがあったし、姿かたちや政治体系について学んではいたが、実際にその場へ行き人間という異種族を見るのとは違う。王が時々人間の姿を借りてくるので「確かに存在している」ことを知っているだけだった。
 人間。俺たちと違って翅羽も無ければ、自然を操る力も無い。その代わりの力を持っているかもしれないのだが、しかし一般には四種族中で一番弱い種族と言われる者たち。
 この地上において俺たち精霊と共存する種族。といっても友好的なものではなく、ただ干渉しないというそれだけだ。それでも、対極になる力を持ち対立しあう有翼・飛闇よりは良い関係なんじゃないかと思う。
 錆びた音をたてて扉が開き、オーガがやけに暗い色のローブを抱えて現れた。陽の下で見る彼女はいくらか血色が良く見える。
 そのうちの一つを渡された。腕に抱えておくにはずしりと重い。
「どうかお気を付けて」
 うなずく。ローブを頭から被って胸の紐を結び、風を右の掌に集めた。森を抜ける一歩手前までは低く飛んで近付き、そこからは人間として歩いていくのだ。ここの風は穏やかだが、周りの植物や気候も関係してか、いささか冷たかった。
「そうしたら、行くか」
 シュアもうなずき、オーガに向かって軽く手を上げた。オーガは頭を下げてそれに応えた。



 風に飛び乗って、木々のすぐ上を滑っていく。風に任せて飛んでいく道では境界を抜けるのも一瞬で、これといった不快感や違和感は感じられなかった。今自分がいるのが人間界だということを、疑わしくさえ感じてしまう。
 こちらでは王都に近付くからといって、植物の大きさが変わったりしないらしい。その代わりに、シュアの住むようなごつごつした高い岩山もすぐには見当たらない。森を通り過ぎるだけで気候が変わるということも無かった。とにかく変化が少なく無難な場所なのだろう。
「今はどこに向かっているんだ」
「王都に向かってるはずだ。もし王都より先に他の街が見えたとしても、もう力は使わず歩いていくからな」
「分かった」
 今は不安が大きかった。子供の頃に自分の知らない場所まで、帰り道を気にしながら行ってみたことがあった。行かなければいけないという義務感のようなものと、それに怯える自分がいた。
 今は怯えるよりも義務感が強い。しかしまだ見ぬ地への不安を殺すことはできなかった。
「あれか」
 シュアが呟いて風を止める。俺も少し遅れてそこに止まった。
 視界の先には四角いものがある。草原で形作られた平らな地平線が、そこだけ出っ張っているように見えた。城壁か何かだろうか。その中身は、こちらの王都のように塔が立っているわけでもなく、ただ低い家々が続いているだけのようだった。
 風を消して木々の中へ降りる。地面はわずかに湿り、所々に下草が生えていた。翅羽と耳がちゃんと隠れているか確認して森を歩いていく。
「翅羽が無くて耳が短いっていうのは知ってるんだが、言葉とかも同じなのか」
 今更浮かんできたのは、政治体系なんかよりもずっと身近で具体的な疑問だった。
「大丈夫、知らん言葉がいくつかある以外は全く同じだ。考えてもみろよ、天の有翼と地の飛闇が同じ言葉だっていうんだから」
「身の丈や髪の色も?」
「大丈夫。オレらだって、お前みたいな明るい色の髪の奴もいれば、オレみたいな色のもいるだろ」
 いちいち納得して深くうなずく。自分が何も知らない幼子になったかのように感じた。いつの間にかこちらが弟役となり、気付かぬうちに置いていかれてしまいそうだ。足手まといにだけはなるまいと、ローブの袖の中でぐっと拳を握りしめる。
 森を抜けると陽の下に出た。塔や岩山が無いだけに、空も雲も今までに無いほど大きく感じられる。
「金は無いがその代わりになるものは持ってるから、街に入ったらどこかで両替しよう。まだ祭りは続いてるから活動するにはもってこいだ」
 シュアの提案にただうなずきを返す。ふと気が付くとあんなに平たかった壁は、鮮やかに流れる大空を視界いっぱいの四角で切り抜くものとなっていた。間近で見るとそれが一枚の壁ではなく、小さな四角の石をいくつも積み重ねて作られているのだと分かる。
「大丈夫、きっとどうにかなる。金を替えたらどこか宿を取って休もう。お前は今日は、とにかく人間界に慣れることだ」
 与えられる言葉にただうなずき続けた。
 壁の向こうから流れる陽気な音楽と足音は、向こう側にいる人間の存在を何より強く浮かび上がらせた。