知っている。
 俺は知っている、奴を知っている、あの声を知っている、あの場所を知っている、でも知らない。
 いつ何が起きたのか知らない、いや覚えていない……? 思い出せないのは、思い出すべきものを持っていないのか? それは封印でも風化でもなく、奪い去られたのか。
 あの手は優しいものだったのか、それとも俺を騙すものだったのか。





「おはよう、チェイン」
 カーテンレールを滑る金具の音。目の奥が一瞬にして真っ赤になった。
 薄く開いていた睫毛の隙間から光が差し込む。窓に背いて寝返りを打った。手で目を覆う。
「出て行け」
「なに言ってるの。明日の、ヒルドさんの挙式の手伝いをしようねって言ってたじゃない」
 そういえばルナが数日前、そんなことを言っていた気もする。
 ヒルドはユクスの兄の一人で、今はどこか、中央の湖の近くの都会に暮らしているはずだった。結婚のちも暮らすのはそこだが、式だけは田舎であるこの村で挙げるらしい。俺が奴と遊んでいたのはもう五年近く前だから、張り切って手伝う義務があるわけでもないと思うんだが。
「よく遊んでもらってたんでしょ、ちゃんとお祝いしてあげなくちゃ」
 祝ってあげなくちゃなんてまるで母親だが、ヒルドもその妻となる女性も自分より年上だということを、ルナは分かっているんだろうか。一字一句に文句をつけたくなるが、起きたばかりの舌はそれほどうまく動かない。睨むだけで起き上がった。
「ね、私も手伝いに行くんだから」
 だから何だっていうんだ、そんなのどうだっていい。振り返らずに部屋を出て階段を下りた。
 階下に下りるといつもより外が騒がしいことに気付いた。ヒルドの式の準備はもう始まっているらしい。こんな小さな村では、結婚式なんて収穫祭以上の祭りだ。
 トントンと階段を下りる音がしてルナが現れた。
「ほら、早く食べて行きましょ」
 そしてパンの入ったバスケットを俺の前に置くと、自分はどこかへ行ってしまった。だるさを感じながらもパンを取って胃に流し込む。
 窓の外の空を眺め、蒼の中を雲がゆっくりと流れていくのを見つめる。一つの汚れも無い窓枠を見る。
「食べ終わった?」
 後ろから明るい声が届く。振り返ることもせずに席を立ち、顔を洗いに向かう。
「片付けちゃうからちょっと待ってね、一緒に行きましょ」
 答えずに家を出た。水を汲んで顔を洗い、歯を磨く。疲れているわけでもないのに、どこかだるさが消えない。
 二階へ戻って服を選んだ。今日はさすがに農作業用じゃなくてもいいか。ベッドは起きたときとはまるで違い、きちんと整えられていた。それを崩すように乱暴に飛び乗る。上の服を脱いで後ろにもたれかかると、背中の暖かさに気付いた。後ろは窓だった。
 そこから差す光に近付いて下を見ると、やっぱりいつもより人が多い。あそこででかい布を運んでいるのはユクスの、つまりヒルドの母さんだ。だとすると顔は見えないが、もう一端を支えているのは彼の父さんだろう。
 皆が向かっているのは、役場の隣にたたずむちっぽけな教会だろう。二階の窓からやっと、所々塗装のはげた屋根が見えるだけだ。その隣の役場の屋根にとまっている風見鶏が滑稽なので、教会まで滑稽な付属品に見えてしまう。
 風がなんて緩やかなんだ。
「チェイン」
 あの声がして、扉が開いた。肩ごしにちらと見えた金髪を睨む。
「入ってくんなよ」
「恥ずかしがることないじゃない、男の子でしょ。それより早く手伝いに行かないと」
 ルナの顔が扉の向こうに引っ込み、軽く床のきしむ音がした。どこかへ遠ざかる気配は見えない。俺が出て来るのを待っているつもりらしい。
 男の子、ね。馬鹿にされたもんだ。シャツに頭と腕を通して舌打ちをする。ルナにとって俺は息子だ。たとえ五つしか離れていなくても、血が繋がっていなくても、小さな坊やなのだ。
 頭を振って、一度その中身を空っぽにする。だったら何だっていうんだ。あいつの言うこともすることも、何も気にしなけりゃいいんじゃないか。
 苦し紛れの結論を自分に見せて、扉を開けた。
「やっと出てきたわね」
 起こされた後で初めてまともに向き合ったルナは、いつもより少し華やかだった。髪をきっちりとまとめ、着ている服も比較的新しいものだ。
「今日は手伝うだけだってのに、余所行きの服なんか着てどうしようってんだよ」
 その姿から目を逸らして呟く。どうにも直視できなかった。
「あら、明日はもっとちゃんとした格好をするのよ。ヒルドさん達、きっと待ちかねてるわ。行きましょう」
 手を引かれて家を出る。ルナは俺の通るような近道を知らないのか、行く道は大きなものばかりだった。いつもより多くの人々とすれ違いながら、村の入り口へ向かった。



「お、来てくれたのか」
 教会の扉を押すと、狭い空間が目に入る。両側に長椅子があり、その間には真っ直ぐ通路がある。ヒルドが顔を緩めてこちらへ歩いてくるのが見えた。ルナがヒルドに近付いて軽く会釈する。
 そこに立ち止まって中を見回すが、教会の中は明日の式用に様変わりして、まるでどこか大きな街のもののようだった。いつも閑散としているのが嘘のようだ。ぼろぼろだったはずの壁も修復されている。
 俺は実質的に、明日が出席する初めての結婚式となる。今まで持っていた結婚やらについての考えは、ちょっとした憧れへと変わった。
「チェイン、突っ立ってねぇでこっち来いよ」
 ヒルドが手招きをする。そちらへ歩を進めた。彼の顔つきが変わったとは思わないが、着ている服やちょっとした所作はやや嫌味に見える。つまりそれは、田舎者の俺には馴染めないほど洗練されたということなのだろう。
 言葉遣いは相変わらず崩れているが、時々聞きなれない発音も飛び出す。メリッサやキャスが時々のぞかせていたものと同じだった。
「久しぶりだな。お前、ちっとも会いに来なかったもんな」
「お互い様だ。あんただって最近は、ずっと街から帰って来なかったじゃないか」
「はは、違いねぇ。にしてもでっかくなったなぁ」
 ぐしゃぐしゃと髪を撫でる腕を払った。ヒルドは特に気にかけた様子も無く腕を組んだ。
「この前会ったのが、えーっと二年前? お前の親父さんが亡くなった時か」
 うなずく。まだルナが来て一年目のことだった。彼はわざわざ都会から帰ってきて、神妙な面持ちで同じこの教会に参列した。
「それよりさ、何か手伝うことは。俺はここに、手伝いに連れて来られたんだけど」
「連れて来られた、なんて言わないの」
 いちいち母親ぶるルナを睨む。ヒルドがなだめるように、俺たちの間に手を差し入れた。
「まぁまぁ。お母さんは綺麗な人なんだから笑ってる方がいいですよ。それから手伝うことだけど、もう準備は大体済んでるから大丈夫ですよ」
 ルナが困ったように微笑み返す。割り込むように問いかけた。
「ヒルド、あんたの花嫁は? あんたが寛いでるってのに外で準備してるのか」
「んなわけ無ぇだろ。明日の衣装をな、試しに着てるんだ。きっと綺麗だぞ」
 右側の椅子に座ったヒルドは、滑稽なくらい顔を緩ませる。少し呆れてしまうが、幸せそうなその顔は微笑ましいじゃないか。
 と、奥から馴染みの無い顔の女性が出て来た。ヒルドがそれを見て立ち上がる。
「ど、どうですか」
「ばっちり。すぐに連れて来るから待っててちょうだいね」
 そしてまた引っ込んでしまう。今の会話からすると花嫁の母か誰かか。花嫁が明日の衣装を着終わったのだろうか。
 奥の方から、声と硬質な足音が聞こえる。やがて先程の女性に手を引かれ、白い花びらのような衣装を身に纏った女性が現れた。明日の花嫁だ。
 上から下までをみな白で覆い、頬を紅色に染めている。陰の色さえ淡い。髪はまだ結われず、裸の肩を控えめに彩っている。彼女は感想を伺うように、明日自分と番になる男に控えめに笑いかけた。
 ……花嫁だ、それしか浮かばない。頭の中が白で埋め尽くされるような感覚だった。
 しばらくしてヒルドのため息が聞こえた。口元を押さえて幸せな笑いを殺している。きっと奴も、いや、奴が一番あの美しさに吸い込まれてしまいそうなんだろう。
 そっとその場を離れた。教会の扉を開ける時、ルナがこちらを向いた気がしたが、足は止まらなかった。どうせ、彼らを放ってあの場所を離れることはできない。あいつは俺のように勝手な行動を取ることができない、分かりきっていることだった。
 扉を閉めて一呼吸おき、数歩歩いてすぐ立ち止まった。空を見上げて息をつく。滑稽? 呆れる? 微笑ましい? 馬鹿か、俺は。
 白い雲が蒼い陰を孕んで流れていくのが見えた。追うように歩き出す。
 ルナも三年前、父さんと結婚する時にあんなものを着たんだろうか。あの白さに包まれたんだろうか。父さんはそれを見たんだろうか。
 頭を振る。汚れた空気が胸の辺りで澱んでいるかのようだ。いつまでも留まって流れていかない。
「やめてくれ……」
 視線を落とす。今日はなんて天気がいいんだ、俺の影はあまりに色濃い。草の上を雲の大きな影がゆったりと流れていく。
 明日、俺はどうすればいいんだ。喉がつまって息さえうまくできない。このままどこかへ行ってしまいたくなる。表層に浮かび上がっている許されないものどもを、また底深くに沈めてしまうまで、ここから逃げていたい。
 顔を上げた、その先にはメリッサがいた。
 ――ぱきんと音を立てて視界が切り取られた気がした。
 村を出てすぐそこ、木の下から、不思議そうに俺を眺めている。前に見たのと同じ青い目だ。柔らかい金髪は風に流され、こちらへと揺れている。ざあっと風が動いて俺の髪をも揺らす。
「メリッサ?」
 唇だけで問うてみる。風が俺の口を乾かしていく。メリッサは微笑んでこちらへ手を振った。
 なるべく、なんでも無いような素振りでそちらへ歩いた。途中からは少し小走り気味になって、メリッサのいる木陰まで草を踏んで走り抜ける。
 木まであと少しというところで立ち止まり、何を話せばいいのかと少し口ごもった。彼女に会うのはこれが二度目だし、最後に会ってからは少し日にちが経っていた。
「久し……ぶり」
 無難な言葉をかけると、メリッサは前と同じように柔らかく笑った。
「久しぶり、ちょっと遠かったけど遊びに来ちゃった。一人でこっちへ来るのは初めてだったから、キャスには随分心配されたのよ。チェイン、私一人でちゃんと来られたって証言してね」
 メリッサを木陰のように思ってしまった気がした。望んだ時に現れた彼女は、ひどくこちらの汚さを際立たせた。
 顔をうつむけて近付いたが、彼女はやはり無邪気に、そして悪戯っぽく答えを返してくれた。肩が軽くなる。
「仕事は? いや、学校か」
「学校よ。少しお休みが続くから、チェインを手伝いに来ようと思ったの」
「そいつは嬉しい」
 にこにこと一点の曇りも無いメリッサの笑顔に、情けなくも泣いてしまいそうになる。彼女は俺からひょいと視線をはずして村をのぞいた。
「でも何か、違うのね。お祭りでもあるのかしら」
「ああ、明日にね。だから仕事は休みだ。特に手伝ってもらうことは無いよ」
「そうなの。王都もちょうどお祭りがあってるのよ。キャスはそっちに参加するって言ってたけど、私はこっちの方が興味あるな。私も明日のお祭りに参加していい?」
 言葉が喉で絡まる。どう言うべきか。
「っと、祭りって言ったけど、そんな大掛かりなものじゃなくて結婚式なんだ。だから悪いんだけどメリッサは」
「そうなの、残念だわ」
「でもさ、俺も出ないから一緒にどこか出かけないか」
 メリッサが不思議そうに俺を見つめる。どきりとしたが、彼女は結局何も追究せずに微笑んだ。
「どこでもいいわ、どこか行きたい所ある?」
 優しく揺れる金髪と、深い青の目に、吸い込まれそうになる。
 どこでもいい、「君と一緒なら」? ――いや、ここでないのなら。そのための理由に君がなってくれるのなら。口を閉じて、その端を上げてみた。どこへ行こう、何を持っていこう、どのくらい費用が必要だろう。ただただ、それ自体が目的であったかのように話を続けた。
 彼女の優しさは俺の汚さを、怖気が走るほど際立たせる。