俺はただ憎しみを纏っていた。まるで自分の中にはそれしか詰まっていないかのように振る舞った。「振る舞った」。
 本当のところはどうなんだ、違うんじゃないのか。いくら訊いても答えは返ってきやしないが。
 俺は俺ではない。俺は、俺に理解できない考えを持ち、理解できない行動を取る。それは誰だ、本当に俺なのか。
 お前は誰だ。本当は、こんな黒い感情の中に埋まっていたくなんかないんだろう? 何を怖がる、何に怯える。
 お前は誰だ。





「オレはオレだよ」
 外から声がした。瞼が無理やり上下に離される。
「なに妙な問答してんだ。お前には妖精さんでも見えてんのか」
 焦点が合わない。乱暴な指を払いのけて自分で瞼を開くと、やっと二つの輪郭が重なり、ぼやけつつもシュアになる。
 起き上がって思い出そうとする。どうしてそんな言葉を吐いたのか。「お前は誰だ」、シュアの言うとおり、夢を見ている俺は俺のはずだ。
 しかしいつもと同様に思考は遮られる。起きている今の俺の中には、感情の抜け殻しか残っていない。絡まった髪を解きながら、何度か咳払いをして答えた。
「ただの夢だよ」
「夢ねえ。で、そん中にはどんな妖精さんが出てくるんだ」
 にやりと笑ったその顔に背を向け、翅羽を伸ばす。こっちだって何なんだかよく分からないんだ。
「ほっとけよ。お前だって今朝は珍しく早いじゃないか。怖い夢でも見て飛び起きたか」
「馬鹿言え」
 そこで一旦会話は止む。その間に、今どんな会話をしたのかを、起き抜けの動かない頭の中で反芻した。
 シュアが妖精なんていう妙な言葉を使うとは珍しい。人間界のものに目を通す機会は今までにもあったが、確か子供向けの書物にそういったものが描かれていた。妖精とは、俺たちに姿形は似ているものの、人間たちの想像上の生き物じゃないか。
 シュアの後ろ頭を見る。そこから生えた首と、しわくちゃの翅羽を眺める。夢なんて見るもんじゃねえぞと、誰にともなく呟く声が聞こえる。
「それよりどうする、これから」
「どうするって?」
「簡単にではあるが、一通りの世界は回ったはずだ。しかし何も見当たらなかった。何の見当もつかないまま、どう進んでいく」
 後姿が振り返って、こちらへつかつかと歩いてきた。床に腰を付けたままの俺に目線を合わせることもなく、ただ茶色の目が俺を見下ろした。
「だから焦んなって何度も言っただろ。時間はかかってもいいんだ。王だって、それを御承知の上でオレたちを任じられたんだから」
 間近で見ると前髪に寝癖がついているのがよく分かる。一歩下がって立ち上がった。
「それは分かっている、でも今のままでどうなる。何の手がかりもないままじゃ、時間がかかるだけじゃ済まない。原因を見付けても解決法が分からないってこともあるんだ。原因さえも掴めないなら……」
 眉を寄せて言葉を切ったところで、シュアが口を尖らせ宙を睨む。やっと向き合う気になってくれたか。
 彼から視線を逸らし、腕を組んで考える。そもそもどうしてこんなに手がかりが少ないんだ。夢だとか現実だとか、そういう前例の無い使命だからか? 今までに聞いたこともない、ふわふわとした混乱がまとわりついている。それなら何故問題になったんだ。
「王は、あの日説明して下さった以外の情報を御存知無いんだろうか」
 ふと浮かんだ思いを口にする。
 ひとたび口にした途端、それは疑問となって心の中に染みを落としては滲んでいく。シュアへ向き直り、急いで言葉を続けた。
「こんなよく分からない事態だっていうのに、俺たちを使いにやる。王こそ焦るべきじゃないのか。どうしてあんなに冷静で」
「黙れ」
 返された語気の鋭さに、口の動きが止まった。
「例えここに在らせられずとも、王は王であることを忘れるな」
 一度、汚く散らかった床を見る。今日もガイルとかいう使いの姿は見えなかった。すぐに視線を戻す。いつもとは違い、引き下がって語調を合わせるという考えは生まれなかった。
「王に、もう一度話をお聞かせ下さるよう願いたい。王でなくとも、一人くらいはこの件に詳しい大臣がいるだろう」
「つまり?」
「城へ戻ろう」
「無理だ」
 シュアは短く、たったそれだけの言葉を吐き出す。
「何故」
 俺の語気も荒くなる。いつの間にかシュアを睨んでいた。
「オレたちは試されているんじゃない、任じられているんだ。それなのに王が何かお隠しになっているとでも言うのか」
 確かに、そんなことをする理由なんて無いのだが。唇を噛んで床を眺め、避けようとしている自分に気付いて視点を上げた。
「そして、王はオレたちを自室にお呼びになった。大臣をこの件に関わらせなさるというなら、そもそもの場所が謁見の間でいいはずだし、オレたちをお使いになるはずがない」
 黙って茶色の目を見つめた。
 シュアの言葉は正しい。俺の言う言葉を論理でもって否定する。しかしそれは可能性を潰すだけで何も生み出さない。じっとそのままで待つと、不意にシュアの目が左に逸れた。
「そんなに睨むなって。分かった、どうにかすっから」
「どうにかって?」
「ちょっと前に任務で立ち寄った森の中に斎占師がいた。そこを訪ねよう」
「イミウラシ?」
 聞いたこともない言葉に、意識せずして声が大きくなった。シュアはそれに反して淡々と説明を加える。
「あまり知られた職でもないけどな。斎官って聞いたことあるか、神職って言ったほうが分かりやすいかな。斎の先読みをする奴らだ。斎は忌、不吉のことだってよ」
「不吉を読む?」
 シュアは頷いて、今更くしゃくしゃの翅羽を伸ばし始めた。
「それ以上のことは実際に行ってみれば分かる」
 翅羽がぴんと伸びて、しわだらけの背中と、首にかかるほどの茶色の髪をにぶく映し出した。



 今日はひどく良い天気だった。風の具合も良い。目に痛いほど鮮やかな空と、その所々にうすく伸びた雲を眺める。
 追いつく間もなく風の座を作り出したシュアは、何も言わずに飛んでいく。それを何も言わずに追う。
 斎占師とやらがどの森にいるのかと時々風から身を乗り出してみるものの、俺の知っているどの森でもシュアが止まることは無かった。見知った土地を越え、王都を越え、風を受けてどこまでも進んでいく。
 どこまでも迷うことなく進んでいく背中。そのうち風も冷たさを帯びる。境界に近付いたのだ。
「シュア」
 呼ぶが振り返らない。風の速さを上げて背中に追いつき、風になびく耳を引っ張った。
「シュア! 本当にこっちで合ってるのか」
「なんだよ、合ってるよ! 境ぎりぎりに住んでやがんだ。もう見える」
 そう言ってすぐ、長い指がすっと前を指差した。そちらを見下ろす。確かにそこには、王都付近では見かけないような細い葉ばかりの森が広がっている。
「あれを越えればすぐだ」
 にわかに肌寒さが消え、森の樹にも見知ったものが混じるようになる。しかしそれは人間界の影響を強く受けた、俺の知っているのとは根本から違う樹だ。
 ふと、その中から妙な塔が突き出ていることに気付いた。広範囲にわたって、葉の間からは人工的な色が見える。それも見るとかなり巨大な建物らしく、人間界との境界へ向かって奥に長く伸びている。指差してシュアを見ると、彼はうなずきを返した。
 あれか、と口の中で呟く。本当にここで何かがつかめるのか。分からないながらも、シュアに続いて森の中に降り、歩いてそこへ向かう。
 建物の門はすぐに見えた。周りに溶け込む穏やかな色だが、思ったとおりひどく巨大だ。斎占師とやらが何人いるのか知らないが、こんなに場所を食うものなのか。
 しかしそれにしては、俺たちの足音だけが響く。
「……静かな場所だな」
「そうか? ま、奴らはこういう場所を好むからな」
 確かに占いにはこういう雰囲気の方が合うのかもしれない。シュアに続いて無人の門をくぐり、扉を開ける。
 すぐ目の前に壁があり、左右に通路が分かれていた。中は意外と暗く、最低限の明かり以外は要らないという様子だ。扉の上の飾り窓から一直線にぼけた光が差し込み、赤茶けた絨毯の床に模様を浮かび上がらせている。
 その明暗の知覚の後に広がるのは不思議な空間だった。縁の無いはずの厳かな空気なのに、どこか懐かしささえ感じてしまう。
「何用でございますか」
 見とれていた所に、不意に声がかかった。振り返るとそこには目から下を生成りの布で覆い隠した奴がいた。この暗さの中で灯すら持っていない。唯一見える目は褐色、その周りの肉は余分なものの無い、老いを感じさせるものだった。声がしゃがれているが、どうにか女だと判別できる。
「王の命で出向いた。塔官シュア・ノディエとリンク・ローエルだ。オーガという占師がこちらを知っているはずだが」
「かしこまりました。こちらへ」
 老婆に続いて暗い廊下を左へ進んでいく。少し進んだところで行き止まりとなり、通路は右へ続いていた。壁の両側にずらりと扉が並んでいると気付いたところで、彼女は歩みを止めた。
「オーガの部屋はこちらとなります」
 骨の形の浮き出た手が、左側の壁に付いた六つ目の扉に手をかけた。シュアは軽く会釈をするとその扉を開ける。それに続くと、すぐ後ろでがちゃりと扉の閉まる重い音がした。
 中は真っ暗で、どこまでも果てしなく空間が広がっているかに感じられる。それは王の部屋を訪れた時に似ていた。
「こちらへどうぞ」
 暗闇の奥のほうから若い声がしたと思ったら突然、驚くほど近くで蝋燭が灯る。橙の光の中で目を閉じているのはやはり女のようだった。
「オーガと申します。……ああ、お久しゅうございます」
 オーガという女が蝋燭をそこに置く。どうやら机と、両端には椅子があるらしい。
 シュアが片方の椅子に座るとオーガも反対側の椅子に腰掛けた。椅子はそれだけしか見付からなかったので、シュアの後ろに立って蝋燭を見つめる。紅い光がオーガの目元を照らした。先程の老婆と同じ褐色の目だ。俺たちより十ほど年上だろうか。
「本日はどういった御用でしょう」
「いつも通りだ。斎を読んでもらいたい」
「斎に関するお言葉は?」
「王、夢、現実、境界の崩壊、交錯」
 シュアが言い終わらないうちに、蝋燭の炎が不自然に大きく揺れた。オーガがそれをじっと見つめる。その眼の中で揺らめく紅を、俺たちも見つめる。
 炎の橙の中で芯が燃えている。蝋が溶けて、じれったいほどのろのろと下へ流れていく。殺したはずの息が、この場所ではやけに大きく響く。
 オーガの目は炎に照らされてぎらぎらと輝いていた。その中に映る一つの蝋燭を、蝋が伝っていく。
 やがて、溶けた蝋は机を汚し、根元でまた固まる。暗闇を切るような炎の舞は段々とおとなしくなっていく。
 褐色の目が瞼に隠された。
「何か分かったのか」
 身を乗り出すとオーガは何も言わずに、ふ、と息を吐いた。わずかに紅かった部屋はたちまちにして暗くなる。視界の中を、火の跡だけが泳いでいる。
「しばしお待ち下さいませ。……ええ、見えました」
 オーガはそれだけ言うと、また新たな火を灯す。今度はただの小さな火のようだ。褐色の中にまた橙が浮かぶ。その目がちらりとシュアを見た。
「斎は人間の領域内で発生します。仰ったような『境界の崩壊』とは、あちら側にて起こりつつあるものなのです。いくらこちら側を巡っても何も見付かりません」
「人間の……」
 オーガがうなずくと、シュアは立ち上がった。
「前に世話になった奴に挨拶してくる。お前はここにいるといい」
 それだけ言い残して出て行ってしまう。扉の閉まる音に重なって、後ろからオーガの声がした。
「シュア様がお戻りになるまで、夢占などいかがでしょう」
「イミウラなら今やったんじゃないのか」
「斎占のイミには、凶事の忌と、眠る間に見る夢の二つがございます。といっても夢占も、個人の斎占というだけなのですが」
 ふと、夢の間に見る「俺」のことを思い出した。あの妙な夢たち。火の方を振り返る。
「夢には個人の斎が垣間見えるってことか」
「私どもには未来の凶事しか見えません。大きな斎を見るのを斎占、個人に起こる斎を見るのを夢占と申しております」
 そんなごちゃごちゃした定義はどうでもいい。あの一連の夢には意味があったという、それだけだ。言葉にするのももどかしく、シュアのいた席に座った。
「頼む、見てくれ」
「心得ました。最近はどのような夢をご覧に?」
 問われて言葉が出なくなる。それが分からないんだ。それを覚えていないのが一番の問題なんだ。
 首を横に振ると、オーガは表情を変えずにすっと腕を差し出した。大きく開いた袖の端が床へと伸びる。元は生成りの色なのだろうが、灯に照らされて橙色に染まっていた。
「では私が読めるだけ読んでみましょう」
 白い掌が目の前に伸びて視界を覆う。五本の指に額を押さえられた。流されるように、自然と目を閉じる。どこか眠いような懐かしいような、不思議な感じを覚える。
 自分の息の音さえ聞こえない、それはただ耳の感覚が鈍っているだけだろうか。そのまま長い時間が流れたような気がした。どこかでギィと重い音を立てて扉が開くのが聞こえたが、誰かが入ってきたのだと思うだけで、振り返る気もなかった。……オーガが手を離す。
 ぼうっと彼女の顔を眺める。まるで夢から覚めたばかりのような、ぼんやりとした感じだった。
「お? リンク、何やってんだ」
 シュアが俺の隣まで歩いてくる。俺はオーガから目を離せないままでいた。
 褐色の目は俺とシュアを見、ゆっくりと言った。
「過去を見据えなさい。振り返ったところに答えがあります」
 先程までとは違う、幼子に言い聞かせるような口調も、その時は気にならなかった。