家の中にいた。そうなのだと全く気付きもしないほど、俺は自然にその知らない家の中にいた。
 室内は小奇麗で整っている。所々から木漏れ日に似た明るい光が差し込む、気持ちの良い場所だった。
 だが何かがおかしい、俺以外には誰もいない。生活感はあるくせに、どこかがらんとした寂しい空気が漂っていた。
 俺が今いる場所はちゃんとした部屋だし、端には机などの家具もあるのだが、外へ続いているらしい廊下は岩肌が見えていた。深緑色のまだらは苔か何かか。匂いも土や水のそれが濃く、森の中へ迷い込んだような違和感を覚える。
 馴染んだこの家は見覚えのない場所で、受ける印象は森の中なのだ。こんな野性味溢れる家なんてあるだろうか。ここはどこだ、地下……いや、それにしちゃ差し込む光は緑の色だ。
 何も聞こえなかった、しかし俺の体は何かの音が響いているのを感じ取っていた。ゆっくりと、勿体ぶるように足を運ぶ音だ。その廊下の奥を見た。
 見知った奴がいた。俺は、どうしたのだろうと疑問に思う。
 そいつが何か呟く。こちらへと向かってくる。冷静な顔に一片の怒気を孕んで、手を振り上げる――





「チェイン、起きてる?」
 コンコンと軽快な音が聞こえる。部屋の扉を叩く音だ。その主は向こう側にいるのだろう、少しくぐもった声と音だった。
「チェイン。寝てるの?」
 顔を上に向けたままで起き上がる。なめらかな白い天井を眺めていくと、突然直線の行き止まりへ、垂直の壁へ繋がっている。そこから続くは窓と、カーテンの間から漏れる光だった。紛うことなき俺の部屋だ。
「入るわよ、いい?」
 ノックの音が止んでノブを回す音がする。そちらを睨んで、向こうの景色が見える前に声をあげた。
「入るな。起きてるよ」
 寝起きの声は嗄れてかすれている。小さく咳をしたところで、扉の隙間のルナと目が合った。俺が起きているのが意外だったらしく、彼女の目は丸くなる。
 睨みつけるが、ルナはそのまま取っ手を押して部屋へ入ってきた。眉をつり上げて短く声を吐き出す。
「出てけ」
「カーテンを開けたら出て行きますとも。朝食ももう用意してあるのよ」
「そんくらい自分で開けられる」
「そう、なら明日からはちゃんと開けてから降りてきてちょうだいね」
 すました顔でカーテンと窓を開け、部屋を出て行く後ろ姿。その肩で少し長めの金髪が揺れている。バタンと扉の閉まる音に苛立ちが増した。持っているのは同じ色でも、メリッサとは大違いだ。
 布団をはねのけて立ち上がり、シャツを脱いで今日着るものを考えた。今日は畑を見てやらなくちゃ。それなら着古して汚れたものでいい。
 ふとさっきの感覚が戻ってくる。目を覚ます前に一瞬膨れ上がった困惑、恐怖、どうしてと耳の中で叫ぶ声。最後に見たそれは見知った顔だった、まだはっきりと覚えている。
 じゃあ、誰だ? 問いかけてみるが答えは出ない。見知った奴という感じを覚えただけで、現実に俺が知っている顔ではないのだ。見かけたことのある顔じゃない、馴染みも何も無い。
 じゃあどんな顔だった、どんな姿をしていた? 思い出そうとすると、夢の記憶はどんどん脆く散っていく。掴もうとするほどに思い出せず、後に残るのは恐怖だけとなる。こんな損なことってあるか。
 頭を軽く叩いた。あんな馬鹿げた夢は忘れるのが一番だ。夢っていうのは不条理なもの、その内容はあくまで夢の中に留まっていればいい。
 でかい汚れた服を引っ張り出し、心のうちにもやを引きずりながら階下へ向かった。

「おはよう」
 階段を下りたところで壁越しにルナの声がした。左へ進めば居間全体が眺められるが、ルナが振り向いた様子は無かった。こちらに背を向けて机と向かい合っている。肩と腕が定期的に揺れていた。
「飯は」
「ここに置いてあるから自分で持っていって」
 ルナの前に置いてあるバスケットにパンが入っているのが見えた。すぐ近くにはバターもある。それを横目に通り過ぎて家から出、水場で顔を洗う。
 戻ってきた時もルナの肩は揺れていた。膝を見下ろして何かこちゃこちゃとやっている。その後ろを通って肩のすぐ後ろから覗き込んだ。
「何それ」
「うん?」
 振り向いた彼女の手元には、茶色の毛糸玉と不格好な二本の棒、それと繋がった妙な四角の布があった。椅子から立ち上がると、その布を嬉しそうに広げて俺の首にかける。掌ほどに小さい布は、かけるというより乗せると言うほうが正しかった。
「今ね、新しい襟巻を作って」
 言い終わるのを待たず払いのける。ルナは慌ててそれを掴み、かぎ棒を正しい位置に差し込む。
「暑い」
「今はね。でも編みあがる頃には寒くなるでしょう」
「俺はそんな色、好きじゃない」
 ルナが、自分の手にある小さな布を見て黙る。
「でも氷の季節は寒いわよ。あなたが持ってた襟巻、もう小さくて窮屈そうだったじゃない。汚れちゃってるし、毛玉がぼろぼろ出ちゃってるし。この緑の季節が過ぎて実りの季節が終わったら、すぐそこなのよ」
「寒いのなんか知ってる。お前よりずっと長くこの家に住んでるんだから」
「だから、出来上がったら使ってね」
 何も答えずにバスケットとバターを取る。ルナと対角になる場所にそれを置き、台所へ立ってミルクを注いだ。
「ね?」
 今度は俺のほうへ顔を向けて言った。コップを机まで運んだら、座りもせずパンを取ってバターをざっと塗る。泡のようなパンの表面がバターで埋まっていくのを見つめながら、短く答える。
「父さんの墓前に供えてやったら」
 視界の隅で、ルナが体ごとこちらに向き直るのが見えた。目だけそちらに向ける。
「どうしてそんな意地悪言うの。襟巻は使ってもらわなきゃ意味が無いでしょ」
「俺に編んだって、どうせ使われないとは思わないのか」
 ルナはまた黙った。黙ったまま手を動かしている。手を動かすのに合わせて肩も揺れ、そこにかかった髪も揺れる。
 また向こうに向き直ったルナを見下ろしながら、パンを口に放り込んだ。所々が塊のままだったバターはパンに馴染まず、口の中にへばりつくような不快感を感じる。
「とにかく俺の前でそんなもの編むな」
 コップの中を一気に空にする。その脇から、無言で椅子を立ち、毛糸玉と棒を持って去るルナが見えた。居間の扉が閉まる音、きっと行き先は扉へ続く廊下から繋がっている彼女の部屋だろう。
 最後のパンをかじって短く息を吐いた。胸糞が悪い。どうしてこんなにも苛つくのか、俺があいつの息子という立場だから気に触るだけだろうか。
 口の中のものを全て飲み込んで、空のコップを流しへ運んだ。
「妻としてなら、そんなに良い女だったっていうのか」
 なあ父さん、吐き出すように問いかける。そこに溜まった水を見下ろすと、俺の顔がふやふやと形を変えながら浮いていた。その後方にはやはり輪郭をとどめない窓があり、差し込んだ陽がはね返って強く光を放っている。それだけは水面にあってもぼやけることもなく、まばたきの度に残像を残した。
 目をつむって全てを視界から消し、もう一度問いかけた。どうして父さんや母さんじゃなく、奴がこの家にいるんだ。



 家の裏にある畑は、三つに分けた左側は膝辺りまで苗が育っているが、それより右は土のままだ。特に一番右は冬越しの苗のための場所、緑の季節になってすぐに成長して実をつけ、収穫したばかりだった。ここはまだ土を休ませる期間だ。
 今日用があるのは真ん中の数畝だった。しゃがみこんで土を触るが、去年収穫したときとは比べ物にならないほど良い状態になっている。握った手を開くと、指の形の残った表面から崩れて畑へ落ちた。
 屋根の影に置いた鍬を取って戻り、振り上げた。前の足に力を入れて水気を含んだ黒い土の中へ刃を潜らせ、背筋を伸ばして引き寄せ、後ろの足に体重をかけて土をすくい上げる。一歩一歩後ろへ下がり、自分の足跡の残った土を耕していく。
 時々小さな虫とも出くわす。その時は手を止め、そいつらを別の場所に移してからまた手を動かす。
 ふと父さんの姿が浮かんだ。慈善だか何だかの団体に属していた彼は、この村から離れて遠くにいる時もあったが、家にいる時はいつも畑の世話をしていた。今浮かんでくるのはこうやって畑を耕している姿だ。
 笑顔で声をかけながら、隣の一角に洗濯物を干す母さんの姿も見える。俺は父さんの後をちょこちょこと追いかけては、虫を掴まえて母さんに見せびらかす。
 鍬を下ろして背筋を伸ばした。首を鳴らして、俺以外に誰もいない畑とその横の一角を確認する。
 俺は思い出に固執しているだけだろうか。だからあの女を嫌うのか。家族でもないくせにこの家で暮らし、思い出をどんどん新しいものへと塗り替えてしまうルナを。
 もしそうだとしたら、自分ながらになんてガキなんだと思う。
 母さんとの思い出は心の中にそっとしまっておくんだ、息を引き取った母さんの傍で父さんはそう言った。思い出は心の中にしかしまっておけないんだよ。だから母さんと暮らしたこの家が変わろうが、母さんと見た風景が変わろうが、受け入れるんだ。
 幼い俺はそれを理解したつもりでいた。心の中に母さんをしまっていたから、父さんと二人きりの生活でも泣かなかった。母さんの机が物置きになろうとも見ないふりをした。
 裾で手の汗をぬぐう。最初に触った土が、汗と混ざって泥のようにへばりついた。掌紋の中には茶色の汗が流れている。
 目はそれを見ているはずなのに、頭の中を流れていくのは、掌でも畑でも土に埋まったままの鍬でもなかった。
 ここは家の中だ。すぐそこに階段を見上げられる場所で、しかしうつむいて、俺は隠れるように息を殺していた。視界は移り、俺の部屋へと向かう。やがて窓から見下ろしたのは家の扉へと続く細い道だった。何よりも忌まわしい日だ。
 あの日、母さんと暮らしたこの家に、俺と五つしか違わない女を連れてきた時も文句は言わなかった。母さんの部屋と机を占領されても目をつむった。
「でも父さん」
 鍬を持つ手に力を入れ、勢いをつけて振り下ろす。土に大きく穴が開いた。指を緩めると、木の柄は汗の跡をつけたままゆっくりと弧を描き、まだ耕していない後ろの土に着地した。
「この家に俺とあの女を残して、あんたまでどっかへ行っちまうってのはどうなんだよ」
 もう一度柄を握り、穴を埋めるように耕し続ける。それが終わったら苗に水をやらなくちゃならない。水やりが終わったら、裏の家の牛の乳絞りを手伝いに行って、役場まで肥料を取りに行って……。まだまだやることは沢山ある。俺は今、働かなくちゃ。
 服を引っ張って額の汗をぬぐい、鍬を持ち直した。



 俺の家は村の一番奥まった一角にある。入り口近くにある役場へ行くには、家々の脇の小道を通るのが一番都合がいい。時々は厩舎を抜けて馬から鼻を突き出されたり、柵で囲まれた土地を勝手に通ったりする。
 村の中ほどへ来ると屋根の間から、この村にしては派手な赤が見えてくる。周りより一際高い役場の屋根だ。
 柵を越えてその麓まで行くと、草に囲まれた小道の向こうに村の終わりが目に入る。そこは平原の入り口で、少し遠くには小さな森が見える。果ての村の周りにあるのとは違い、明るい光も多く差し込む森だ。
 今日見えた景色は夕焼けを背にしたもので、いつもに増してそこを訪れたくなった。足を伸ばす理由には十分だ。昼間よりやや赤みをおびた草を踏んで、そちらへ歩く。間もなく日暮れを迎えようとする草原には、他の人の姿は見られない。
 恐れもなく、周りより暗い空気を湛えた森へと足を踏み入れた。根や下草に足を引っ掛けないよう、心もち足を高く上げて歩いていく。
 少し行くと、開けた、より光の差し込む場所が目に入る。背の高い木が一本、遥か上の方で光を遮っているだけだ。地面の草は少なく、所々に磨かれた石が埋まっている。
 それは静かで涼しい場所、この村の墓だ。
 父さんも母さんもここに眠っている。母さんと同じ墓碑に刻まれた父さんの名。その傷口はまだ新しい。
 小さい頃は、この森が恐くて滅多に見に来なかった。しかし父さんの死がきっかけで、ここは、もう森を恐れる年齢を脱していた俺の馴染みの場所となった。墓地と言っても不気味さなど無いし、静かな落ち着ける場所だ。
 しゃがんで、役場で貰った肥料を持ったままの手で墓碑の汚れを払った。刻まれた二つの名前を眺めてみる。それだけで妙に落ち着いた気分になった。錯覚にすぎないと分かっていながら、まるで父さんと母さんが隣にいるように感じられた。
 ふと思う、ここにChainと刻まれる日が来るのだろうと。そしてまた思う、Lunaとだけは絶対に刻ませるものか。
 それは、ただの子供じみた意地なのだろうか。父さんの連れてきた女を後生大事にしてやるのが正しいとでもいうのだろうか。
 遠くで役場の鐘が鳴る音がした。もう日が入ったのだ。肥料袋の口がちゃんと縛られているのを確認して肩に担ぎ、大股で走る。村へ入る数歩手前で振り返った。
 もっとメリッサと仲良くなったら、あの子をここに連れて来たい。墓地ということを差し引いても、彼女はきっとこの穏やかな空気を気に入ってくれるだろう。
 そうだ、ここに刻まれるのは本当に大事な人だ。本当に大事だと思える人をここに連れて来よう。
 そしてまた走り出す。影の濃くなった柵やら家々の隙間やらを通って、愛しかった、それでいて大嫌いな家へ。