少しけだるく、少しうんざりしながらも、どこか安堵した不思議な感じがあった。疲労と昂揚の混じったひどく妙な気分だ。掌が熱い。 遥か地平線の端から反対側の端まで、空が広がっていた。なんて静かな場所だ。小高い丘と小さな家々、遠くには森が見える。夕焼けが赤かった。空の向こうが焼け付き、鮮やかな色になっていた。鳥の姿がその中を踊っている。群れをなし、法則に姿を与えるようにして黒が模様を作る。 全てが来る夜闇に沈んでいくようだった。 少し疲れたまま、少し幸せな気持ちで手を振った。影は赤く赤く陽に背いて伸びていた。扉に手をかける。 「起きて下さーいっ!」 甲高い声に、びっくりして体を少し起こす。その後でやっと頭の中身が追いつき、ここがどこなのか、今のが誰の声なのかと処理していく。 周りを見回すと、暗い紫の髪の少女が拳を天へ振り上げていた。少しでも小さな体を大きく見せるためだと、まるで何かの虫を見たときのように分析していた自分に苦笑する。 「元気だな、ライア」 「あ、リンク様おはようございます。シュア様、早く起きて下さい!」 ライアが布の巻きついた物体の脇に膝をついて、肩らしき部位を揺さぶる。くぐもった声が聞こえて、ライアはそれを頼りに顔の部分の布を剥いでいく。シュアは薄く目を開けて、また瞑った。 ライアの顔が歪む。シュアの両肩をがっちりと掴んで揺さぶり始めた。 「もぉ、起きて下さいってば! 今日はとってもいい天気ですよ、出発なさるんでしょう」 「放っとけライア。ちょっとしたら自分で起きてくるから」 それに、もしライアがシュアを起こしてしまったなら、シュアが無礼だの寝ぼけただの理由をつけてライアに報復するのは見えていた。彼女は困った顔のまま奥へ行き、食事の準備を始めたようだった。 「起こすのは私の役目なんですよ、もう……」 しかしぶつぶつと文句だけは流れてくる。そのお節介さに少し笑みがこぼれた。この元気な少女とも長く会わないことになるのだ。見つめていた後姿が突然振り返って、満面の笑顔に変わった。 「食事は何にしましょうか」 「何でもいいよ。一番楽しく作れるやつで頼む」 「分かりました! じゃあ楽しみます!」 肩を揺らしてまた翅羽を向けるライアに、ふと自分の口を押さえた。言ってしまってから気付いたが、こいつの一番得意なのは恐ろしく辛い料理だった。 立ち上がって翅羽を伸ばす。ライアに背を向けて風の吹く方へ歩いた。外へ出ると、頬を撫でるのは優しい風だ。あれから雨の日が続いて、地面は湿り茎にも細かな滴が残っている。それでも葉の敷き詰められた天は明るく、その向こうの空が明るく晴れ渡っていることを示していた。 いつもより土の匂いが濃いような気がして、目を閉じ大きく吸い込んだ。やはりシュアの住むような高い岩山よりは、生きているものの匂いのする植物群の中が落ち着く。 「よぉ」 眠そうな声に振り向くと、シュアが目をこすりながら立っていた。それを終えると、今度は癖の付いた前髪をぐしゃぐしゃとかき上げる。 「やっと起きてきたか」 「お前、あんなキンキン声の奴とよく一緒に暮らせたな」 「いざ暮らしてみりゃ、そんなに苦でもないぞ。よく気の付く奴だ」 「召使いとしちゃガイルの方が優秀だな。あんなにがなり立てることもない。忠実だしな」 ふんと鼻を鳴らしてシュアが答えた。彼の右手は耳を押さえつけて、そちら側の顔も大げさに歪ませている。ガイルとは例の、王から頂いたという召使いのことだろう。 「お前みたいに生活態度の悪い奴を世話するのは骨が折れるだろうな。仕事ができるってだけ先に聞いてて、今泣いてるんじゃないか、そいつ」 「昇進の見込みもない誰かよりマシだろうがな」 誰のことだよ、舌打ちして呟いた。シュアが隣に並ぶ。長い腕がすっと前に伸びて、その先の人差し指が果ての果てを指す。地平線と接するのは空の青ではなく葉の緑だ。 「今日はここをずっと果てまで行って、ぐるっと周ろう。何か見付かるかもしれない」 「ああ。ようやく雨も止んだしな、これで出発できる」 後ろの方から、何やら涙の溢れそうな匂いが漂ってきた。頭の一部分が過去の恐ろしい記憶を思い出してちりちりと痛む。何も知らないシュアは顔だけ振り向いて、嬉しそうに声の調子を軽くする。 「そろそろ飯かな」 「覚悟しといた方がいいぞ、シュア。とんでもなく辛いからな」 「そうか? 美味そうじゃないか」 やがてライアの声が死刑宣告のようにこちらへ届いて、引きずるように家の中へ戻った。 「訊くんですけど、この前仰ってた使命って何なんです」 寝床だった場所には机が出され、その両側には俺とシュアが座っている。その前には器がきっちり一つずつ置かれているが、その中は真っ赤で、辛いことを全面に押し出している。どこからどう見ても警戒色だ。 脇に立ったライアが目をきらきらさせて見つめてくるものだから、舌の痛いのを我慢して食べ進める。当分会わなくなるのだし、美味かったと言ってやってから別れたい。 「お前に言ったところで分かんねえだろ。オレたちですらはっきり掴めないのに」 なかなか飲み込めずに喋れない俺の代わりに、シュアが匙を突きつけながら答える。さっき美味そうだと言っていたのは本心だったらしく、凄い勢いで器を空にしていく。 「それで、ここには戻ってこないんですか」 「当分は無理だろうな、だからもう自分の家に帰っていいぞ。たまには休みも欲しいだろ」 ようやく飲み込んで、脇に置いてあった水を鷲掴みにする。一気に飲み干すと、ライアは奥まで水を取りに走り、戻ってきて言葉を続けた。 「でも、私にとってここが実家みたいなものですから」 「じゃあここに居とくか。生活できるだけのものは揃ってるはずだから」 そう訊くとライアは笑った。世話焼きとしてではない、ただの幼い少女の笑みだった。 「そうしていいですか。じゃあそうします」 口の前で両手を合わせて目尻を下げたライアに、シュアが器を差し出す。ライアが反射的にそれを受け取って、緊張したように脇を締めた。シュアのつむじを見つめてごくりと唾を飲み込む。 「これ、すげぇ美味いな。まだあるか」 「は、はい!」 ライアは解き放たれたように緊張を解くと、奥へ走っていった。 二杯目を要求するシュアの舌に驚きながら水を飲む。もしかしたら味覚が変わったんじゃなく、ガイルの作るものもこういった味なのだろうか。恐ろしいことだ。 「そういや、王はまた姿を変えられたんだな」 「知らなかったのか、一年ほどあの若い御姿でおられる。その前は勇壮な大男の姿を借りておられたがな」 「あの方も御戯れが好きだな。実の所の姿なんて誰も知らないんじゃないか」 「リンク」 シュアの声の調子が少し変わったところでライアが二杯目を持ってきた。 「あの御姿こそが王の姿なんだよ。王が御自身をそれとお定めになったんだから、オレたちはそれに従うだけだ。そうだろ」 「かみつくなよ。分かってるさ、王は存在の全てであり、俺たちのいるこの世界そのものである」 話を終わらせようと器に視点を落とし、残りの警戒色を口へ運んだ。 しかし本心を言うなら、俺にはシュアほどの忠誠心が無い。俺の親がそうだったのだ、王を絶対視することができない。それが俺へと受け継がれたのだろう。 シュアの親もそうだった記憶があるのだが、彼は俺とは違うらしく、王に心を捧げきっているのが言動の節々から伺える。 「王がどうなさったんですか」 ライアが無邪気に訊いてくる。シュアに睨まれないようにと、できるだけ私感を挟まず答えた。 「御姿を変えられただけだよ」 「えー、またですかぁ」 ライアの反応も俺と同じだった。俺の器はそろそろ空になる。舌は少し麻痺している。シュアは今度は眉を寄せてライアを睨み上げた。 「そういうことを軽々しく言うな」 「違いますよ。批判じゃないですけど、変わった趣向がお好きな方だなぁって思っただけです」 シュアの二杯目の器ももうすぐ空になる。信じられない舌だ。 「ヴェイン様もそう仰いますよ。変わったお方だって」 そういえば彼女をうちへ派遣したヴェイン大臣も、そういう思想の持ち主だった。だからこそ俺とは合うが、シュアには嫌われるのかもしれない。 ようやく器が空になる。水を飲み干すが舌の痛みは止みそうになかった。よく耐えた、俺。 「じゃあ行くか」 シュアが席を立つ。俺も続いて立ち上がる。 「お気をつけて。疲れたらいつでも戻ってきて下さいね」 「お前も好きにしといていいんだからな」 「はい、じゃあずっと待ってます」 ライアが笑う。やっぱり手伝いなんていうのは、このくらい明るく笑っているのがいい。高い岩山を飛べるほどの力が無くたって、俺には何の支障も無い。 「今の赤いやつ、凄ぇ美味かったよ。ちっとだけ見直したぞ」 シュアの意外な言葉にライアも、今度は緊張なく笑い返した。何年も一緒に暮らした家族のような少女の、屈託のない笑顔を焼き付ける。馴染んだ石と苔の通路を踏んで、一歩一歩外へと歩いた。 掌に風を集めた。晴れた日の風は穏やかでよく言うことを聞く。時々湿り気を多く含んだ風も集めて、丁度いい按配に調整していく。程なくして風は形を留め、中空に小さな座を作った。 「じゃ、本当に気をつけて下さいね」 それに飛び乗ったところで、追って出てきたライアが手を振った。シュアは一足先に緑の天目指して上昇する。安心させるようにうなずいて、一気に上空へと飛んだ。途中で速度をゆるめて葉をかき分け、空が見えればまた風へ与える力を強める。 南の果てを目指して飛んでいく。緑の中にある小さな泉を越えて川を越え、やがて地平線の果てに一段薄い緑の平原が見えてくる。 突然先を飛んでいたシュアが風を止めた。急なことに驚いて止まれず、その脇を通り過ぎる。振り返るとシュアは、右の耳を引っ張って片方の眉をひそめているところだった。それが聞こえるほど近くはなかったが、舌打ちするようにわずかに唇が動いた。 「悪い、リンク、ちょっと待っててくれ」 やがて視点をこちらへ合わせると、近寄りもせずに声を張り上げる。仕方なく俺が近寄ろうとするのも待たず、彼は言葉を続けた。 「イヤリング忘れた。取ってくっからここに居てくれ」 見れば確かに、右耳にいつも付けているでかいやつが無くなっていた。 「いちいち外すなよ、早く取ってこい」 小さくうなずいて向きを変えたシュアの後ろ姿がどんどん小さくなって、泉を越えた辺りで緑の中へ突っ込む。 俺のは大丈夫かと、肩まで垂れ下がった耳をぐいと引き寄せた。大丈夫だ、先の方に緑色の小さいイヤリングが付いている。 風の弱い場所を求めて高度を下げ、足を組み直し、肘をつき、じっと戻ってくるのを待った。時々背筋を伸ばして遠く広がる空を眺めるが、シュアらしい姿は無い。あいつのイヤリングはまだ見付からないのだろうか。 視点を落として緑の葉を眺めると、視界の端を動くものがあった。葉のすぐ下を、茎や若葉に引っかかることなく器用に飛んでいる。 思わずその近くの葉まで下りて、隙間から目を凝らしてみれば……シュアだ。ここまで下りなければきっと気付かなかっただろう、こちらへは向かわずに川へ降りて手を洗っている。泉へ流れ込む水は他とは違う色に染まっていた。 「シュアー?」 葉をかき分けて声をかけると、彼はやっと気付いたように俺を見上げた。濡れたままの手で風を集め、こちらへ飛んでくる。その右耳にはちゃんとイヤリングが付いていた。 「どうした、川なんかで」 「お前の召使い、ライアだったか? 奴がつまづいて、さっきの飯をオレにぶっかけやがったんだよ」 あいつならやりかねないと、器の警戒色と、同じ色に染まった川の水を思い出す。苦笑すると、シュアが不機嫌そうに俺を睨んだ。慌てて目を逸らす。 妙な匂いに濡れたままの手を見ると、料理のきつい匂いを消すためか、薬草の粉まで使っていた。その腕が胸の前で組まれ、こちらへ伝わってくる苛立ちも濃さを増す。 「やっぱりガイルの方が優秀だ」 「分かった分かった。じゃあ改めて出発するか」 空へ戻ると、果てに向かって風を進める。まだ昼には遠く、陽は背中から照っていた。ずっと先には青く霞んだ山が見える。 振り向いて、どれかの葉の下にある、しばらくは戻らないだろうあの家を一瞥した。 王都を離れるほどに、植物の大きさは小さくなっていった。 俺の住んでいる場所では葉の上で昼寝できるほどだったし、王都付近になると家ほどに大きい植物さえ見られるのだが、それを遥か離れたここでは細かく緑の点が目に入るのみだ。 やがてこの植物が空から見えないほどに小さくなり、鋭い姿に濃い色を持った葉ばかりが立ち並ぶようになると、国の果てが訪れる。その先は俺たちの立ち入るべき場所ではない。そこへ入れないわけでも暮らしていけないわけでもないが、既に心の中には境界線が引かれているのだ。 生を受けた時――いや、そのずっと前から本能のように知っている。 そこに住む奴らもそれは同じだ。人間という、短い耳を持つ種族。 彼らにとってその境界線とは、俺たち精霊が感じるのよりもずっと濃いらしい。彼らは同じ地上にいる俺たちの存在も知らなければ、天上の有翼、地底に住まう飛闇のことだって知らないのだという。俺も世界を異とする有翼と飛闇については存在だけしか知らないが。 前を行くシュアが、果てまで来た所で進路を変更した。やはり境界を越えることはしないらしい。それに続いて境の上を進む。少し肌寒い土地に入った。 風の立てる音が少し大きくなる。下を見ながら飛ぶが、草の緑色がおとなしいこと以外は変わった点などどこにもない。 ふ、と髪に雪がかかった。触れる前に溶けて無くなる。見上げると空が白かった。しかしそれだけ、いつもと何も変わりはしない。シュアも何かに気付いた様子は無い。 気休めのように時々下を見下ろすだけ、そしていつも通りの世界を目にするだけ。その繰り返しで飛び続け、様々な緑を見、川を見、岩山を見、森を見、山を見、湖を見……延々とそれを繰り返す。 そして結局、この世界には何の変化も見られないということを確認して、シュアの住む岩山へ戻ったのだった。 戻 扉 進 |