明るい、のどかな村に俺は居た。起伏の緩やかな地形にそって短い草が生え、陽の光を浴びて輝いている。朝にはあっただろう露は、今はほとんど乾いてしまっていた。
 土の匂いと水の音、緑の鮮やかさ、葉を通ってぼやける光。鳥の声が時々葉擦れとともに降ってくる。全てが心を穏やかに締め付けて、ここへ留まらせようとする。実際、もう立ち上がれなくなるんじゃないかというくらい、体中から力が抜けてこの場所に浸りきっていた。
 暖かな空気に、足首をくすぐる柔らかい草の感触。瞼の裏が赤くて、一歩先でさんさんと日の照っているのが分かるが、この木陰は涼しくて居心地が良い。投げ出した足の向こうに平らな土地が続いているが、少し行くと下り坂になっていて、湖がその姿を見せる。滑らかな湖面をずっと辿っていくと、湖の中の土から突然幹が伸びて、樹の形を成している。
 その向こうは霧がかかっていて深い色に沈んでおり、何者をも近づけない空気を漂わせている。山の輪郭がおぼろげに確認できるだけだ。水の中から生える木も、晴れているのに白く霞んだ景色も、他で見かけることはない。ここから先は人間の近付く場所ではないと、目に見えない存在に言われているようだった。
 舟が造られてからも樹は壁のように立ち並んでおり、誰かがその向こうへ行ったような痕跡も、行けるほどの隙間も無い。
 積み上げられてきた年月が壊されないまま存在し、それを一瞬の瞬きの中に留められる、そんな場所に俺は居た。

 やがて国境果ての山の向こうから、昏い雲を背に乗せた大きな男が現れる。逞しい体躯、屈強な戦士といった印象だが、重厚な鎧の他には剣も盾も弓も何も持っていない。格好だけ勇猛な男は、厳めしい顔つきのまま空を飛んでくる。
 彼の体はどうしたわけか、向こうの景色が透けていた。屈強な体が半透明なのはひどく似合わない。
 男は何かを探すように辺りを見下ろしていたが、やがて俺で目を止める。ぎょろりとした目に睨められて、自分の息の音が止む。飛ぶのを止めて俺の前まで降りてきた彼は、近くで見ても半透明だった。その向こうには湖と山が映っている。
 彼は不意に透けた腕を突き出した。その大きな手は何に触れてもいない。しかしその手に誘われるように、俺は立ち上がった。
 逃げる事なんかできなかった。腕も足も俺のものじゃないみたいに力が入らなかったし、第一、俺の足は今や地面からわずかに浮き上がっていた。爪先から少し離れて、草の地面に深緑の影が落ちている。
 こちらへ向けられた掌が何かを掴むように動く。それと同時に俺の体が前へ迫り出す。日陰を追い出され、日の光に照らされた。一瞬目の前が真っ白になり、反射的に目を細めた。
 男の口元がわずかに歪み、そこから笑みがこぼれる。その手は何かを掴んだ。それは昏く黒く、布のようであり、何か大きな存在のようであった。
 途端、氷のようだった俺の体は大きな力から解き放たれた。草の上に尻餅をつくと同時によろめきながら立ち上がり、顔を背けて男から逃げ出そうとする。さんさんと降り注ぐ太陽の下で、体には一気に熱が戻ってくる。嫌な汗が背中を伝って腰まで流れる。
 気付いたのだ。俺の足には、そこから伸びる暗い色が無い。俺には影が無い。

 後ろを振り向く。彼は既に地を蹴り、空へと浮かび上がっていた。やって来たのと同じ果ての山と、その先の空を目指して。
 その後ろ姿は鎧を着てもいない、弓を背負っても剣を従えてもいない。さっきまでのような筋骨隆々とした体ですらない。あの男を見た後では、それはか細くひ弱に見えた。あの戦士とは程遠く、黒い服をだらしなく着崩した、見慣れない俺自身の後ろ姿。腕を伸ばして聞こえない声で叫ぶ。
 俺を返せ。





「チェイン」
 可愛らしい声に目を開けた。
 突然目に差し込んだ木漏れ日に顔をしかめ、うつむく。それを遮って誰かの影が落ちてきた。木漏れ日ということは、ここは日向じゃないらしい。目を薄く開けて足元を見るが、そこは全て木陰で、俺に影があるのかどうかは分からなかった。
「チェイン、気分でも悪いの?」
 顔を上げると、金色の柔らかそうな髪が目に入った。腰を折ってこちらへ体を傾けると、肩にかけられたそれがさらりと落ちる。彼女の名前がやっと浮かんできて、今まで忘れていたことをごまかすように呟いた。
「メリッサ……」
「水の採取は終わったわ。二人とも舟に乗ってるんだけど、チェインはどうする?」
「ああ……どうしようかな。メリッサはユクス達と行かなかったの」
「だってチェインと一緒が良かったから。それにあの二人のお邪魔なんてできないわ」
 少しむくれ、それを隠すように早口で言葉を続ける。俺と同じ年頃の女の子ってのはこういうものなんだと新鮮に感じた。一つ一つの言葉の選び方も、それに伴う表情も、今までに出会ってきたどれとも違う。
 目をこすって立ち上がった。そうだ、俺はこんな所まで、あんな変な夢を見るために来たんじゃない。
「ごめんな、もう全快だから。行こうか」
 右の手を差し伸べる。その上にそっと、一回り小さな白い手が乗せられた。
「うん」
 それをぎゅっと握って日向へ出た。陽射しに触れた肌が温度を上げる。
 ふと見た足元からはちゃんと二人分の影が繋がり、濃い草色で俺たちを形作っていた。消さないように日向を選んで坂を降りていく。右手には大きな湖が広がり、きらきらと揺れにあわせて光をはね返していた。果てに近い水ははほとんど色が抜けて、地上に出た幹の像をはっきりと映している。
「ここって本当に静かな所なのね」
「うん? ああ、でも俺の村も結構こんな感じだよ。今みたいな緑の時期や実りの時期だとそうでもないけど、氷の季節なんかもっと悪い。どこもかしこもしーんと静まり返って、自分以外に誰か人がいるのかも分からなくなるんだ」
「それでも羨ましいなあ。物音も聞こえないなんて、私の街じゃ考えられないもの。ここなんて、目を閉じていると今にも精霊の声が聞こえそうじゃない」
 手を繋いでいるという安心感からか、メリッサは目をつむったまま歩き出した。どう繋げるべきか考えて、視線をさまよわせながら答える。
「俺は精霊も天使も見たこと無いけどな」
「あ、それって違うのよ」
 メリッサが目を開いた。碧が見えて、やっと見つめるべき場所が見付かった気がした。いよいよ似つかわしくない童話めいた話になってきたと、表情に笑いを含ませる。
「何が」
「精霊と天使。どちらとも空想の世界の住人かもしれないけれど、本当は全く違うんだから」
「ええ?」
「本当よ。簡単に言うとね、精霊は私たちと同じ世界に住んでいるけれど、天使はもっと高い所、悪魔はもっと低い所にいるの。住んでいる方法も使う力も違うんだって」
 力説する肩に金髪が揺れている。あまりに馬鹿げすぎていて、こちらは何も言えなくなる。メリッサは顎を上げて、軽くにらむように俺を見た。
「本当なのよ。どの本を見たってそう書かれてるわ」
「どこの本を読んだんだ」
「王都の図書館にある文献はあらかた読んだわ」
「そりゃ凄い」
 肩をすくめて、空をぽっかりと流れていく小さな雲を眺めた。下のほうにだけ薄い灰青色の影を持っていて、朝食べたパンもあんな形だったかと思い出す。ちらと視線を戻すとメリッサは頑なな表情のままでこちらを見ていた。この少女自身がまるで、空想の中の登場人物のように見えてくる。右の手を解いて額を押さえた。
「メリッサならきっと見られるよ。精霊だろうが天使だろうが、悪魔だろうが」
「本気で言ってる?」
「本気だとも」
 手を揺らしたまま歩いていくと、湖の岸に一艘の小舟と、それを繋いでいる縄が杭にかかっているのが見えた。名は彫られておらず、誰か使おうとする人の姿もどこにも見えない。腰をかがめて真ん中に乗り込み、メリッサが来るのを待って両側に座った。
 櫂を持って、岸の杭から縄を外すようメリッサに頼む。櫂を動かすと重たい水を掻いて、舟もゆっくりと動き出す。
 メリッサはしばらく黙って周りの風景と湖に映る自分の額を見ていたが、やがて顔を真正面に向けて口を開いた。
「私の家って、上の兄弟が全部兄なの」
「下の兄弟は?」
「いない。だから昔からみんな、私がこういうことを言っても否定しなかったの。最近まで、ゴブリンもニンフも全部いるんだと思っていたわ」
 それもちょっと特殊なんじゃなかろうか。彼女の向こうに広がる緑を眺める。空を目指す緑と湖に映って底を目指す緑が、視界の中をゆるやかに流れていく。
「でも、もういないって分かったんだ?」
「うん……残念、いつか会うんだって決めてたのに」
 舟は水面になめらかな跡を残しながら進んでいく。波紋が広がっては消えていく。
「でも精霊はいるのよ」
「今、いないって……」
「精霊はいるの、絶対そうよ。だって精霊だけが絵本にも出てこないんだもの。きっと勝手に姿を想像したら失礼だからよ」
 黙って櫂を漕ぐ。こういった付いていけない会話以外なら、メリッサは本当にいい子だと思うのだが。
「チェインは兄弟いるの」
「いや、俺一人」
「そうなの、ちょっと寂しい感じがするなあ。私にたくさん兄弟がいるからかな」
 寂しくは、ない。兄弟は一人もいないし母さんも昔死んでしまった。父さんだって、もういない。
 そして今、俺の家にいるのはあの女だけだ。一体あれは誰の家なんだろうか。まばたきをして、浮かんできた雑多なものを底へと深く沈める。
「そうじゃないか。それよりメリッサ、精霊って俺たちと同じ世界にいるって言ったよな」
「広くそう言われているわ」
「どこにいるんだ。見えない姿でそこらをうろついてるのか」
 国の果ての山を見る。空気に霞んだ薄青色のものから鮮やかなものまで様々に連なっている。果ての果てが霞んでいるのは霧によるものだろうか。メリッサも同じように遠くを眺め、首をかしげて下の唇に指をあてた。
「それについてはっきり書かれたものは無いんだけれど、目には見える姿で、私たち同様に暮らしているんだって」
「どこで」
「私たちが無意識に境界を作って、ここは自分たちの住む場所じゃないって決め付けている場所、そこ……で」
 いよいよ分からない話になってくる。本人には作り話のつもりが無いらしいのが、俺には一番不気味だった。
「例えばこの湖。この下って、私たちの暮らせる場所じゃないじゃない」
 声には出さずにうなずいて、碧色の水を眺める。水の中から俺が同じように見つめ返す。あんまり見つめすぎると舟がひっくり返りかねなかったので、ちらと見ただけですぐに元の体勢に戻った。
「でも実は暮らせるかもしれないのよ、無意識に暮らせないって決め付けているだけで」
「つまり何だ、精霊はこの下にいるのか」
「そうじゃないの。例えばの話よ」
 櫂を止めて腕を休ませる。輪が一度大きく広がって、それっきり水面は静かになった。
「住んでいる場所そのものが見えていないだけで、見ようと思えば見られるし、精霊の姿は隠されてなんかいないの」
 再び黙ると、どこかから葉の擦れる音がして右方へと去っていった。鳥がそちらへ飛び立ったらしい。今の俺に分かるのはそこまでで、メリッサの話はちょっと俺には難解すぎる。
「でも見た奴は誰もいないんだろ」
「だから、私が見たいの」
 その目はきらきらとしている。なるほど、夢見がちな部分だけ理解すれば、これほど付き合いやすい子はいないかもしれない。
 ふと、眺めていた山がさっきの夢のものと交差する。果ての向こうから飛んできた屈強な男、俺の影と姿を奪って帰っていった奴。あの妙な夢。あまりに現実との関連が無さすぎるが、どことなく不吉なものは感じられた。
 夢なんて眠っている時にだけ見るもので、起きれば忘れてしまうのが常なのだ。今朝だって何かいつもと違うものを見ていたような気はするが、それが本当に今朝見た内容なのか、本当に見たのかどうかさえ分からなくなっている。
「メリッサ。そういう本をよく読んでるのなら、夢とかについても詳しいのか」
「詳しいってことはないわ。だってチェインが言っているのって、眠っている時に見る夢でしょう」
 幾度かまばたきをした後でうなずく。夢見がちと夢見とは、関係があるようで無いらしい。
「でも夢って、そんなに気にする事は無いんじゃないかな。私もよく夢を見るんだけど、すぐに忘れちゃうもの。夢ってきっと現実に影響を与えちゃいけないものなのよ、だから目を開ける頃には忘れるようになってるんだわ」
「……だよな。悪い、変なこと訊いて」
 櫂を握ってまた漕ぎ始める。そろそろユクスとキャスは岸に帰っているんじゃなかろうか。
 夕暮れに近付いて陽射しの弱まり始めた湖は終始静かだった。小さな雲がいくつも群れを成して湖面を埋めている。
「ねえチェイン。私ね、最初はチェインってもっと恐い人なんだと思ってたの」
「何言ってんだよ、こんなに優しいじゃん」
「うん。でもね、精霊の話とか御伽噺とか嫌いなんじゃないかなって」
 メリッサの勘は当たっている。うつむいて、そんなことないよとでも言うように微笑んだ。櫂と水の立てる音は、沈黙を許してはくれない。それは俺にとっては助けでもあった。
「ちゃんと話を聞いてくれて嬉しかった。キャスだってあまりしっかりとは聞いてくれないのに」
「あ、いや……どういたしまして」
 辺り障りの無い会話の方が楽だからだ、ただ波風を立てたくないだけだ……とは言えず、少しばかり申し訳無くなる。ため息を吐く前にメリッサの明るい声が聞こえた。
「また会いたいな。会える?」
「勿論。いつがいい?」
 顔を上げてメリッサの笑顔を見る。そうだ、そんな妥協だって必要なものに決まっている。相槌一つで好かれるのなら、こんなに良い事はない。互いが笑顔でいるための手段なんだ。
 国境果ての山から遠ざかり、過ぎてきた木々が逆向きに流れる。やがてメリッサの背になって岸と草の地面が見えてきた。

 岸に着くと二人の声が聞こえた。やはり先に帰っていたらしかった。草を踏んだところでユクスが寄ってきて、メリッサに聞こえないように耳打ちする。
「お前、気分悪いとか言っといて、ちゃんと二人きりで舟に乗ってんじゃねーかよ」
 にやと笑ってその胸を突く。お前だってキャスと仲良くなったんじゃないのか。
「そろそろ帰るか。うちの馬車使っても、キャスたちが街に帰る頃には真っ暗になるだろ。それともオレん家止まる……あーそれがいい、そうしろって!」
「ご心配なく、ちゃんと宿を取ってあるから。馬車は遠慮なく明日の朝使わせてもらうわね」
 ユクスとキャスのやり取りを聞きながら湖の方の空を眺める。陽は傾き、空は山との境目から赤く染まり始めていた。
 来た道をまた戻る。来るときよりも少し浮かれ気味に。
 森へ入る前にふと地面を見ると、赤みがかった影はちゃんと足元から長く伸びていた。