起き上がって辺りを見回す。一体どちらだ。ここはどこだ。俺は誰だ。
 光が差し込んでいるのに気付いて、柔らかに広がっているそれをぼんやりと眺める。そもそも、どちらとは何だ。自分が無意識に問うたことが一番不審だ。もう一度辺りを見回して、幼子のように何も知らない自分に、今までを生きて経験してきた自分が一つずつ教えていく。
 怯えずに動けるくらいまで自分を取り戻した所で、肩を上げると痛みが走った。まだ空気は朝の藍さを含んで湿っている。
「えっと、何だっけ」
 言葉にして、今自分がすべきことを意識させる。あとは頭を振って無理やりに覚ますだけだ。改めて自分の周りを見ると、ぐちゃぐちゃの布団にくるまって眠りこける、見慣れた茶の髪の男が目に入った。シュア……シュア・ノディエ。
 その途端、どうにも掴めなかった最後の情報も自分の中に返ってきた。王に呼び出され、密命を告げられ、シュアと共に動く事になった。俺より若い御姿で躊躇いもなく仰った、夢と現実の交錯の理由を突き止めよ。
「んな、無理な」
 思わず本音が出て、シュアに聞かれていないかと口を押さえた。こんな命令は今までに受けた事が無い。前例だって無いんじゃないか。頭を抱えるが、こうしていても何も始まらないのだけは分かる。とりあえず動かなければならない。
 ここは、王都を後にして数年ぶりに訪ねたシュアの家だった。俺の家のある植物群からずっと北上して、肌寒さを感じるくらいの岩山に入ったところにある。家の中の汚さが凄まじいのは、仕事以外では俺以上に無作法なくせに、ライアのような者を寄越すという大臣からの誘いを断ったせいだ。
 床に散らばった布だの紙だの書物だのを見てため息をつく。このせいか、こんなに翅羽が痛いのは。痛む体を叱りながら立ち上がって、窓を塞いでいた板を退けた。
「……にすんだ、馬鹿が……」
 シュアが目を押さえて光から逃げる。布団がぐるぐると巻き込まれて、ついにはシュアの胴を一周した。それでも逃げ続けるものだから、今度はシュアの体から解かれて床にへばりつく。
「ほら起きろ、とりあえず準備でもして出発だ」
「もっと寝かせろよ……お前より遅かったんだから」
「嘘つけ」
 右の手に熱を集めて、掌に作り出したのは小さな炎だ。力を調節して部屋を明るくすると、シュアが眉間に皺をよせてこちらを睨みつける。
「まだ眠いっつってんだろ。だから嫌なんだ、お前との使命なんて」
「俺だって嫌だよ。にしても何だお前、この家ん中の惨状は」
 いつシュアが住処をここに移したのかは知らなかったが、こんな事態になっているとは。ノディエ一家が俺の近所に住んでいた頃は、もっと暮らしやすい家だったように思うのだが。この汚さがシュア一人の限界ということか。
「だからヴェイン大臣の厚意に甘えればどうだって言ったのに」
「オレには必要無い。それにヴェインは嫌いだ」
 茶色の髪をぐしゃぐしゃとかきあげて言う。
「それにな、ヴェインの言葉を断ったから、後で王からの使いを貰えたんだぜ」
「なのにこの汚さか」
「今は暇を出してんだ。どうせ今日ここを出たら、長いこと帰らないんだから」
 そう言えばそうだ。使命というのがどれほどかかるのか、どこへ行かねばならないのかも皆目見当がつかないのだ。昨夜もその前の夜も帰らないままだったが、ライアにはちゃんと言っておいた方が良いだろう。
「飯が終わったら空をぐるっと周ってみよう。歪みとやらがそれで見つけられるかは問題だが、まあ小手調べだ」
「ああ、とりあえずな」
 そう言ってシュアは大きく欠伸した。床に散らばったものを隅に集めながら、この家のどこに食糧が眠っているのだろうと、もう一度首を鳴らした。



 夢と現実。ふと考えてみる。王は言った、夢と現実の境目が薄れている、両方が消し合おうとしている。つまり夢と現実は対極にあるということだ。現実とは今、俺が意識しているこの世界のことで、夢はその反対だ。
 すると、夢というのは「未来に対して抱く想い」と「眠っている間の戯れ」、どちらでも当てはまる?
「……いや、違う」
 未来に対しての願望と、今というこの概念は、対極には位置していない。そちらの夢は現実の延長上に存在しているような気がする。夢とはやはり、瞼の裏に見るあの勝手な世界の事か。それなら何故、二つの全く違う概念を同じ言葉で表す。
 二つの夢に共通するものとは? それはきっと、どことなくおぼろげな、水にも風にもなり得る奔放さだろう。つまり気ままで儚いものであり、それならその対極が現実だというのか。
 そもそも現実とは何だ。「今自分が意識しているこの世界」、そんな言葉で表せるものなのか。現実。今いる世界、今認識しているこの世界、実体化、鮮やかな物ども、共通の記憶。
 そこまで連想したところでぴたりと考えを止めた。現実とは本当にそうなのか、本当にそんな確固たるものなのか。そもそも、今が現実という確かな世界だと俺は信じているが、本当にそうなのか。
「リンク。行くぞ」
 振り向くと、適当な荷物を背中に背負ったシュアが、岩に囲まれた通路を通って消えていくところだった。追いかけると風に向かう崖に着く。少し行くと絶壁になっており、そこからは濃い緑の木々や岩場が遠く離れて連なっている。
 王都から離れたここでは、植物はやや小さい。足場はどこにも無く、空を飛ぶ以外にここへ辿り着く方法は無い。ということはシュアが貰ったという使いは、この高さを飛べるくらいには能力のある奴ということだ。
「空を周ってみるんだろ。早くしねえと、もう黒い雲が出始めてる」
「ああ本当だな、悪い」
 風が体にぶつかっては消えていく。それは俺の家の周りに住まうものよりずっと我儘だ。シュアの手がぱっと伸びて一塊の風を捕らえ、無理やりに座の形を作り出す。俺も同じようにして強引に風を纏め、座らしきものを作った。しかし座ったはいいものの、風は我儘なままでぐらぐらと不安定に揺れて俺を振り落とそうとする。
「こういう日の風は良くないな。力ばっかり有り余って、制御がしにくい」
「早いとこ全部周っちまえばいい。行動は早いのが一番だ」
 いつもより力を持て余し気味な風に揺られ、崖を離れた。空には果てまで大きな雨雲が広がり、大気は水を含んで少し重たい。顔に当たる風もいささか冷たく、時折耳の傍を唸るようにして過ぎていく。
 シュアはまず王都への空路を選んだ。王都まで南下して、そのままぐるりと果てから果てを周る路だ。その背中を時々確認しながらも、視界は地上に注がねばならない。
 昨日、王都を目指した時と同じように、目に見える全てを観察していく。緑、水、空、大気、風、大地。場所によって驚くほど大きさの違う植物、それを育む土、川を静かに流れる水、それが目指すいくつかの湖、それらに囲まれて生きる者たち。川も畑も山も、誰の様子も何ら変わらないように見える。
「シュア」
 風に負けないよう大声で呼びかけると、前を行く風の速さが少し緩まった。
「何か変わったことってあるか」
 追い付いて見えたシュアの表情は変わらない。茶色の髪は、風に流されていつもより散らばっていた。
「今じゃなく、最近だ。前に比べて何か変わったように思うか」
「何も」
 シュアは首を振った。時々肩が揺れるのは、暴れる風の上でバランスを取っているせいだろう。
「だよな。王は地上が滅びるとか、危機だとか仰った、でもその兆候はどこに……」
「リンク。まだオレの家からちょっとしか周ってないんだ、どこに兆候とやらが出てるか分かんねぇぞ。兆候が見えるものかどうかも不明だしな」
 口早にそう言って、少し進み、また止まった。こちらから見えるのは背中のみとなる。重い風がシュアの髪も翅羽も服も耳も、それから下がった赤のイヤリングも、全てをこちらへ揺らす。やがて一瞬、それがぴたりと止んだ。
「何を焦ってんだ」
 シュアとの距離がまた離れる。慌ててどんどん小さくなっていく背中を追った。
 確かにそうだ、俺はどこか焦っている。よく分からない不安が胸の隅にしっかりと食いついている。俺が仕事を急ぐなど決して有り得ないことなのだ、ましてそれがシュア以上などと。
 空を見上げる。相変わらずのどんよりした雲は上に広がる全てを覆い隠しており、先程よりこちらへ迫って、地上を押し潰そうとしているかのように思われた。この天気のせいで気でも滅入っているのか。
 首を振って、頭の中にまで侵入しようとする雲を振り払う。王は、兵卒や大臣でなく俺たちを選んだ。世界の安定よりも民衆の安定を選ぶということは、まだそれほど切迫した事態でもないはずだ。
 俺たちの属す位である塔官は、大臣とも兵卒とも違う。便宜上その間の位に位置づけされているが、仕事内容は両者とは全く違うのだ。王直属の兵でない塔官に求められるのは、静かな行動と確実な結果。この世界を挙げての大規模な力も、焦りも要らないはずだ。
 広々とした植物群と湖を抜けて王都へ入った。光が乏しいせいで鮮やかさは無いが、ここは曇天の下でも変わらない栄えた空気を抱えている。しばらく行くと城の頭が見えてきた。もう少し行くと、城より低い二十四の塔の頭も見えてくる。
 風が強くなってきた。覆われていない顔が冷たく、既に雨混じりではないのかと触れては、まだ濡れてはいないと手を戻す。
 象牙色の塔を通りすぎる。一瞬、その間から精霊塔への通路が見えた。しかしそのまま通り過ぎて、少ししてから名残惜しく後ろを振り返る。二十四の塔がずらっと城の後方を取り囲んでいるのが見えるだけだった。
 あの塔の中には、俺の場所も、シュアの場所もある。あの塔は王城とは全く切り離された、塔官のための場所なのだ。
 しかし俺はあの場所にはいない。どうしたことかはよく分からない。塔に住まっていた俺の親が、何らかの事件によって自主的にあの場所を出たということしか知らない。
 何らかの事件というのは現在もあまり触れてはいけないことらしく、それに関わった一部の人間の間で黙殺されたままだという。親も俺に何も言わないままで永遠に口を閉ざしてしまった。
 ただ何度も塔に戻るよう誘いがあったので、俺の親がその事件の黒幕だとか、まずい位置ではなかったのだと思う。その誘いを断り、俺の親はついに塔へ戻らなかった。
 その姿を見続けてきた俺も、どこかで塔を拒否する。塔に自分の場所があるとしても、塔が自分の場所だとは思えないのだ。
 シュアも俺と同じ境遇で、その親は俺の親と共に塔を出て戻らなかった。しばらくは俺の親と同じように植物群の中で暮らし、いつの間にかどこかへ行ってしまった。
 その事件以後も、わずかな大臣たちは二人と付き合い続けた。その内の一人がヴェイン大臣で、今でも俺たちに目をかけてくれる。撫で付けた髪と口髭にはもう白さが混じり、青緑の目も濁り始めているが、彼は俺の二人目の父親にも等しかった。それはシュアにとっても同じはずで、奴がよくヴェイン大臣の体によじ登って遊んでいたのを俺はしっかり覚えている。
 しかしシュアは大臣を嫌う。
「もう雨が降るんじゃないか」
 シュアが風を緩めてそう言った時、俺の翅羽に冷たいものが落ちた。
「ああ、降るよ」
 王都を過ぎて南の果てまで行き、そこからは東へ進んでいた。ごつごつとした岩山が多くなり、北と南という違いはあるもののシュアの家に似ている。この近くにはヴェイン大臣の研究所があるはずだった。
 ここから北へ進めば俺の家の辺りになる。シュアもそれに気付いたのか、ぱらぱら落ちてくる雨にまばたきしながらこちらを振り向いた。俺はうなずいて返し、彼を追い越して先を進む。
 服全体がしっとりと湿り気を帯びるころ、平原を越えて、眼下には植物群が緑の手を四方八方へ広げていた。見逃しそうなほど小さい泉の傍が俺の家だ。高度を落とすと、吹き荒れていた風が少し弱まる。
 目を凝らして泉を探す。空からだと緑だらけで、一見しても住処があるようには見えない。
「多分この辺りだ、降りよう」
「自分の家の場所もしっかり分かんねぇのか。でかい目印でも出しとけよ。王が兵をお遣わせになっても、受け取れないんなら意味が無いだろ」
「そのために分かりにくくしてるんだ。どうしてわざわざ仕事を増やされなくちゃならないんだよ」
 後ろでシュアが顔をしかめるのが見えるようだった。
 俺の家がゆうに入るくらいの大きさの葉が、重なり合って天を目指している。それはまるで、雨を目指して背伸びをしているようだった。その隙間に泉があるのを見付けて、一気に風の力を弱め、葉に近付いていく。
 どんどん風を緩めながら緑の中へ潜り込んだ。葉に生えた産毛が顔をくすぐる。葉の層は何枚も続いて、やっと最後の一枚が大きくたわみ、地面まで続く茎の空間へ俺たちを放り出した。ここまで来ると、もう風の力は必要ない。茎や若い葉の間を跳びながら地面へ近付く。
 緑の下は全ての光がぼんやりと緑に染まる。湿った地面に降りてそれを眺めていた時、シュアも葉の間をくぐって降りてきた。
「すぐに大降りになるな。お前の家がここらで助かった」
 家へ歩き出して間も無いうちに、葉に当たる雨の音が急に激しいものになった。じっとりと湿った空気の中で翅羽を伸ばしながら、緑だらけの空を仰ぐ。葉や茎に守られているので、雨がここまで辿り着くのはまだ先だ。辿り着いても、それは叩くような勢いは持っていない。
 ざらざらと耳を塞ぐ雨の音で陰鬱な気分になりながらも、常よりぬかるんだ土を踏んで、ライアの甲高い声が響く場所まで歩いた。