泡沫





 目を開けるとともに飛び込んできたのは、白い天井に、カーテンの間から漏れる光だった。ここはどこだ。ここは……。自分がどこにいるのか分からない、何故ここへ来たのかも分からない。どうして俺はこんなところで目を覚ましてしまったのか。
 まだ夢の途中ではないか、俺をどこへ放り出したままに扉は閉じてしまった。
「チェイン、起きてるの」
 コンコンと硬質なものを叩く音が右側から聞こえた。扉だ、それも現実の。それとともに、どこかへ置き忘れていた記憶が波のように打ち寄せ戻ってくる。そうだ、俺の部屋だ……当たり前じゃないか、何を混乱しているんだ。
 こんなに心臓の音を耳の近くで聞くなんて、どうかしている。ごまかすように大きくあくびして起き上がると、まだ寝ぼけているのか視界がぐらりと揺れた。額に手をあててもう一度目を閉じる。
「チェイン!」
 ノックの音は止み、扉が開く。そちらに目をやると、金色の髪の女が扉の隙間からこちらを覗き込んでいた。見たこともない、知らない顔だ……いや、そうじゃない。知っている。
「あら、もう起きてたの。だったら返事くらいしてくれたって」
「うるせぇよ、勝手に入ってくるなって言ってるだろ」
 ルナはわずかに目を丸くして黙った。何度かまばたきすると小さくため息を洩らし、俺を通りすぎてカーテンを開ける。
「今、入ってくんなって……」
「あなた、放っておいたらカーテンも開けずに出て行くでしょ」
 ぐ、と喉で言葉がつまった。当たっているだけに何も言えず、苛つきが胸に溜まる。今まで、もうどれほど積み重ねてきたかも分からない。
「下にお友達がいらしてるわよ」
「お友達?」
「ユクスって言ったかしら、いつもの子。そこの大きなお屋敷の」
 あの約束だ。慌てて布団をはねのけ服を脱ぐと、ルナが顔を背け、慌てていないような素振りで部屋から出ていく。
「ルナ、朝飯の用意しといてくれ」
「さっきからしてあります。あなたが起きてこないだけでしょ」
 扉が閉まって足音が遠ざかっていく。それが階段を下りる音に変わったところで舌打ちをした。毎朝こうだ。あれで母親代わりのつもりか。いちいちうるさい奴だ。
 今日着ていく服だけは、いつものように適当に選んではいけない。どうせ播種で汚れるから動きやすくて汚れた服とか、そういった選び方でもいけない。今日だけは、いつもとちょっと違う日なのだ。散々迷った末に、選んだのは父さんのお下がりの黒い服だった。袖を通して廊下へ出る。
「おーい、チェイン」
 下から聞こえるのは無遠慮なユクスの声だ。階段を駆け下りる。
「遅せーよ!」
 階段を下りて左へ一歩進むと居間がある。左に窓と台所、右には机が見えてその奥には暖炉が縮こまっている。今は緑の季節が始まったばかり、それに火が点くのはまだまだ先だ。
 ユクスは机の左側に座って行儀悪く頬杖をつき、顔だけこちらを向いていた。幸い服の色は俺と違っている。向かい側に座っていたルナが席を立った。
「悪かったって。お前こそ、人の家に来て何だよその態度」
「そう言うお前こそ、わざわざ呼びに来てやったオレへの感謝はどこなんだ」
 辺の真ん中を陣取っていたユクスの脚を蹴って、向こう側へと押しやる。ユクスはにやにや笑いながら台所のルナを振り返った。
「毎朝こんなんじゃ、ルナさんも大変ですよねぇ」
「黙れ、あいつはどうでもいいだろ」
 彼女はコップにミルクを注いでいるところだった。苦笑を聞きながら、彼女がいた席の隣に座り、決して顔を上げるなと自分の首に強く念じる。ユクスの元にあったパンを取り上げ、急いでバターを塗った。
「私は楽しいわよ。チェインの世話が無かったら淋しいだけだもの」
「お前も答えんなよ!」
「こらチェイン、口にもの入れてかみついてんじゃねえよ。お前は食うことだけに集中してろ」
 ルナが俺の右手の届く位置にコップを置いた。白い表面を睨んで、絶対に顔を上げるなともう一度念じる。ユクスがもう一つのパンを真ん中から割り、手早くバターを塗った。
「ところでユクス、相手の子は?」
「そろそろ待ってんじゃねえのかな。怒って帰っちまったらお前のせいだぞ。都会の子がこんな田舎まで来るなんて滅多にないんだからな、弁償しろよ」
 ミルクでパンを流し込む。ユクスからもう一つのパンを受け取った。
「どうやってだよ」
「誰か知ってる子紹介するとか。……ルナさんでもいいぞ、ルナさん」
 最後は俺のほうへ身を寄せて、囁くように言った。一度パンを食べる口さえ止まったが、また急がねばと思い出して噛み、ミルクで流し込む。
「馬鹿言ってんなよ、正気か」
「オレは嘘なんて吐かねぇな。まぁ今のオレにはキャスがいるんだけどな! 誰か知りたいか、知りたいだろ、今日会う子の一人でな」
 訊いてもいないことを話し始めようという時に、ルナが近寄ってきて空になった皿を取った。右手は、俺がカップを返すのを待っている。
「なあに、女の子と待ち合わせなの」
 興味ありげに笑いかけてくる彼女を睨んだ。「お前には関係無いだろ」。この会話だけでなく、こちら側へ立ち入るなという拒絶だった。彼女の顔から笑みが消えて、口元だけを不器用に笑わせたままこちらに背を向ける。
「……、分かりました。楽しんできなさいね」
「言われなくてもな」
 ジャケットを羽織って席を立つ。居間から扉へは一直線だが、その途中の廊下には右側に一つだけ扉が付いている。今はルナのものとなった部屋だった。
「ちゃんと扉閉めてねー」
 聞き流して外に出た。わざと扉を大きく開けて手を離し、家に大きく音を響かせる。すぐそこにある水場に寄って口をゆすぎ、村の入り口へ歩き出す。俺の家は村の奥にあるため、そこまではいくらか歩かねばならない。
「その子らはどこにいる?」
「丘の大木で待ってるはずだ。にしてもお前、ちっとくらい言う事聞いたらどうだ。あれじゃルナさんが可哀相……あ、出てきた」
 振り向くと、扉の所にエプロン姿のままのルナが立っていた。俺の嫌がらせなどどこ吹く風、にこやかに笑ってこちらに手を振る。
「ほら、言ってやれば。行ってきまーすママってさ」
 向き直って早足で歩き、ユクスを追い越す。
「誰がだよ」
「素直じゃねぇな。大体何が不満なんだよ。オレだったら最高に嬉しいけどなぁ」
 ユクスは無遠慮な好奇心で俺に追い付いて、顔を覗き込む。本当に俺の立場になって、そんなにへらへらと笑っていられるものか。……こいつならその可能性もあるが。無視して歩いた。
 家々の壁や柵、厩舎や畑、役場にユクスの家を抜けて、やっと村の入り口へと辿り着く。そこから広がるのは平原に森に丘という一面の緑で、改めてここが辺境なのだと感じさせられる。国の中心であるという湖さえ、何日も歩かないと見られない。
 ユクスは村の裏側にある丘を指差した。一際高い木がそびえている場所だった。



「ちょっと、遅いんじゃないのー」
 木の影に二つの姿が見えた。一人は肩より上に黒髪を揃えた子で、影から出てくると、腰に手をあててこちらへ声をかけてくる。その大声は投げつけると言う方が正確かもしれない。もう一人は幹にもたれるようにして立っており、よくは見えないが笑っているように見えた。駆け寄って、とりあえずは頭を下げる。
「ずーっと待ってたんだから。ねえ」
 黒髪の少女が後ろへ声をかけると、影からもう一人の子が影から歩いてきて苦笑した。陽のもとで見ると、波打った金髪に碧の目を持っていることが分かる。
「大丈夫、言うほど待ってはいないから」
 どちらかと言うと、こちらの方が好みだろうか……ちらっと考えながら、どちらがユクスの知り合いであるかと二人を見比べる。
「ちょっと待った、悪いのはオレじゃなくってだな」
「言い訳は見苦しいよ。悪いと思ったらすぐ謝る、でしょ」
 黒髪の子に言葉を制されて、ユクスはきまりの悪そうな表情になった。まるで母親と幼い息子だが、これはこれで幸せなのかもしれない。この具合からすると、こちらが奴の言っていた少女か。
 その子はこちらへ向き直って目を細めた。少し早口で表情がくるくる動く。
「初めまして、私キャサリア。ユクスはキャスって呼ぶけど。住んでるのは二つ向こうね」
「俺はチェイン。実は今日遅れたのって、俺が寝坊したせいもあるんだ。夢見が悪くってさ、ごめんな」
 あら、とキャスは眉を上げて笑った。一歩下がって金髪の子の背中を押す。容姿からすると、こちらの彼女はキャスとはまるで逆だ。
「メリッサです。キャスと同じ学校に通ってるの。こっちの方って今まで来たこと無くて、どんな場所なんだろうってずっと思ってたけれど……面白い所ね」
「メリッサとは初めてだよな。オレはユクス、宜しくな」
 ユクスはよく馬車で学園都市あたりまで色々なものを運ぶ仕事をしているが、キャスと知り合ったのもそういった関係でだろう。既に知り合いである二人が仲良さげに、実際はユクスがキャスに話しかけてはかわされているのを見て、なんとなく視線を逸らす。と、同じように視線をうろつかせていたメリッサと目が合った。二人を小さく指差して、目元に笑いをのぞかせている。その柔らかさは、うん、なかなか悪くない。
「どこに行こうか。希望あるか」
「はーい。ここの近くに中くらいの湖あるでしょ、そこ連れてってよ」
 キャスが手を上げて答えた。森を抜けると、俺たちの住む場所より更に奥まった村があるのだが、その向こうにある湖だ。そこへ流れ込む川は、俺の村の水源でもある。
「学校の課題でさ、中心の湖あるじゃない、あれとそれ以外の湖のどれかを比較して纏めなきゃいけないんだ」
「私とキャスが一緒のグループなの。東にある湖を調べる人が多いんだけれど、私たちはどうせだからこっちにしようって」
 それは俺の村とこことを結んだ延長線上にあるはずだから、方向は問題ない。うっすらとではあるが道も確認できる。
「おうよ任せとけ!」
 ユクスは大きく腕を振って歩き出す。少女二人がその張り切りすぎた背中を見て小さく笑い、それに続く。俺が後ろから付いて、陽の匂いの溢れた丘から草の匂いに満ちた森へと入っていった。

 西の最果ての村――それより向こうが湖と深い森で立ち入れないからそう呼ぶのだが、それだけに人の行き交いは少ない。暮らしていくにはあまりに寂れた、行き止まりの村だ。
 丘と森をいくつか越えただけの近くに住んでいる俺でさえ、何年も前に父さんに連れられて行ったっきりだ。その時の記憶さえもう朧にしか残ってはおらず、静かな村だということくらいしか分からない。
 苔むした幹と枝、空と地を覆い隠した緑の草葉が、足から伝わる振動にあわせて少しずつ後ろへ流れていく。
「チェイン」
 視界の一部であったものの口が開いて、そう聞き慣れない声を吐き出す。メリッサだ。歩くごとに金髪が小さく揺れているのを眺めて、やっと今の言葉が自分へ向けられたものだと気付く。
「あ、ごめん、何か言った?」
 慌てて返して大きくまばたきすると、彼女の姿は完全に背景の木々から切り離される。彼女は目尻を細めて控えめに笑った。
「どうしたの、そんなに夢見が悪かったの」
「いや、今は単にぼうっとしてただけ」
「それなら良いけれど。でもこんな時には、君に見惚れてた、くらいのことは言うものよ」
 会ったときと同じ青い目が悪戯っぽく揺れる。ユクスが大真面目に言って、軽くあしらわれるくらいが似合う言葉だった。何はともあれ思ったよりも話しやすそうだ。
「じゃ、それはどうしようもなく焦がれた時のために取っとくよ」
 メリッサが笑った。こういうやり取りが一番楽だ。こうして軽い会話のできる少女であったことに安心をおぼえる。
 前を見ると、ユクスとキャスが並んで話しながら歩いていた。ユクスが身振り手振りを交えて何か伝ると、キャスが一言返し、ユクスは気付かれない程度に小さく肩を落とす。しかし次の瞬間にはすでに、次の話題を身振り手振りで騒々しく振りまいている。何やら賑やかだが、こうして見ていると似合っているようにも思える。
「チェインは最果ての村に行ったこと、ある?」
「ああ、ずーっと昔に」
「そうなんだ。どういう所なの? 私、全く知らないから」
「や、よく覚えてるんでもないんだ。本当、こーんなガキの頃だから」
 そう言って腰の辺りまで掌を下ろす。今の半分くらいの背丈だ。何年前だかは覚えていないが、こうも記憶が薄いということはやはり、随分と幼い頃なのだろう。
「国の果てなのよね。地図でも本当に端っこにちょっと載っているだけだし、時々載ってなかったりもするのよ。チェインの村でぶっつり切れてるの。その村が田舎だっていうのは本当?」
「そりゃもう。俺の村でさえあんななのに」
 森を抜けて小さな丘にさしかかる。そろそろ昼に近付いて、影の背が縮まってきた。
「メリッサはどこ。キャスと同じ村?」
「ううん、もう一つ向こう。キャスの村と王都の間なのよ。学園に通ってるって言ったでしょ、そのすぐ傍だから通うには便利なの」
 どこの村の隣がどこだなんて、自分の村にこもりっきりの俺には分からないし、どうでもいい。学園のすぐ傍という台詞で、なんとか次に繋げそうな言葉を作り出す。
「じゃあ学園都市かな。王都にも近いし、かなり栄えてるんだろうな。そっか、俺もそういう所が良かったな」
「そうでもないの。私、妖精だとか天使だとかの話が好きなんだけどね、王都の近くって、そういう伝説や伝統があんまり無いんだもの。だからこういう村の方が好きなのよ」
 彼女の右手が上がって、金髪を肩の後ろにかける。単に新しければ良いってもんでもないらしい。王都っていうのはすると、森なんか無くて、沼も土も無いのだろうか。それはそれで俺には、何か生気を感じないものでも出てきそうな恐ろしさを感じるのだが。
「でも実際、王都や神殿に近い方が便利だし、華やかじゃないか」
「うん、神殿に近いのは嬉しいんだけど」
「じゃあ神殿に通ってるんだ」
 神殿は王都より北へ進んだ所にある建造物だ。そこの長は王より大きい力を持っているだの、祈りを捧げる信徒で行列ができているだの、神が皺だらけの顔でよろめきながら説法をしているだの、俺にはよく分からない場所だ。その情報だって大半はユクスの冗談に違いない。
「そうよ。信じるものがあるのは、生きている価値さえ変えてしまうと思うわ。神殿があって教えを受けられるって、とても幸せなことよ」
 よく分からない……適当に相槌をうつとメリッサは笑った。
 また小さな森に入る。今までで一番距離が長く、深い森だ。葉が競い合うようにして高い所に繁っており、光はあまり届かない。ここを抜けると最果ての村、そして目指している湖だ。