彼が家に帰ってきた。その後ろには、少女を抜け出したばかりの年頃の女が立っている。彼が彼女に何ごとか話しかけると、彼女は笑って答える。次に口を開いたのは彼女で、そこから漏れたのは彼への感謝の言葉だった。
 二人を包んでいるのは穏やかな空気で、それはまるで人目をはばかるかのように慎ましい。
 ――じっと耳を澄ませてそれを聞いていた。先程、彼が帰ってきたときの動揺とは打って変わって、不思議なほど冷静だ。自分の視点がずっと高い所にあって、自分という生き物をじっと観察しているような奇妙な感覚だった。その時見ていたのは自分の足と床板の木目だったはずなのに、頭の中に焼きついているのは自分のつむじなのだ。
 やがて「自分」と呼ばれたその子供は逃げるように階段を上がり、ひとり部屋へこもった。彼と彼女がこちらに気付いた様子は無く、近付いてくる足音などどこにも聞くことができなかった。それでも胸を這い上がってきたのは、彼らの声を閉ざしたことによる安堵だった。





 目を開けると、最初に目に入るのは葉の裏側、その向こうに曇った空がのぞいている。
 鼓動はまだ早い。額にかかる髪をかき上げ、じっとりと汗に濡れた肌をぬぐった。湿った手首を睨みつけて服になすり付ける。大きく息をついて起き上がると、自分の寝転がっていた葉がわずかに揺れた。
 何を見ていたんだ、何を聞いていた。
 自分の名前を唱える、リンク……リンク・ローエル。さっきまでの自分は、今ここにいる自分ではない。じゃああれは誰だ。
 頭がひどく痛む。感情はちゃんと残っているのに、つい先刻まで見ていたはずの映像がちっとも浮かんでこない。もう一度大きく息をつき、言い聞かせる。落ち着け。
 その時、何かの気配を感じて視線を上に戻した。
「うわっ」
 巨大な水滴が見えたと思った次の瞬間には、肩までずぶ濡れになっていた。背中から生えた半透明の翅羽は、折れ目をなくしてしなっと垂れ下がる。顔を覆った指の隙間から、もう新たな襲撃が見えないのを確認した。
 無言で目を閉じ、もう一度ゆっくりと言い聞かせる。落ち着け。目に垂れる水を拭って立ち上がる。
「こら、この野郎!」
 自分のすぐ上の葉を思いきり殴る。きゃ、と甲高い声を上げて落ちてきたのは、俺の家で働くライアだ。俺のいる葉が茎ごと大きく揺れる。滑り落ちないようにと葉にしがみつく彼女を俺のいる辺りまで引き上げて、まだまだ幼さの残る顔を軽く睨んだ。
「起き抜けの奴に何してるんだ、お前は」
「いくら呼んでも起きてくれないんですもん」
「起きてたよ。滴なんか落とす前に確認しろ」
 膨れた顔でライアが起き上がる。暗紫の髪に隠れて、だって起きてくれないじゃないですか、と突き出した唇だけが動いた。
「替えの服を持ってきてくれ」
 不機嫌に言った後で、あの汗ではどうせ替えなくてはならなかったのだと思い直した。
「ちゃんと正装を用意してあります。着替えはなるべく早くお願いしますね」
「正装って、何かあったか」
「さっき王直属の使者が来られて、リンク様を呼んでこいって仰ったんです。何か、じゃなくて謁見です」
 怪訝な顔で見つめる俺に、彼女は慌てて首を振った。
「私、何も知りませんよ。本当にそれだけしか聞いてないんですから」
 ライアをその場に残して茎を蹴り、風を踏んで地に着いた。俺は、同じ塔官の位の者たちと比べると仕事に執着しない方で、与えられた仕事以外をする気も無ければ大臣の座を狙うつもりも無い。仕事が回ってこなくなるのではと不安になるくらい、目立たずに日々を過ごしている。王に呼ばれるほどの目立つ何かを仕出かした覚えなど無いのだ。
 あるいは、俺でさえ必要となるほどの何かが起きたのか。
「正装っていうのは?」
「そこの新芽の上に積んであります。そこら辺で着替えないで下さいね」
 辺りを見回せば、なるほど大人が楽に腰掛けられるほどの大きさの新芽に、ごてごてとした服やら装飾品一式が置いてある。そこだけ緑の風景と馴染まず、絵でも立て掛けられているかのようだ。
 母親のような声に背中を押されながら着替え終わると、彼女は茎を伝って慎重に地面まで降りてきた。ライアは俺ほど風や火を使う力を持たないので、同じ精霊であるにも関わらず空を飛ぶことができないのだ。
 俺の前を素通りして、岩でできた家の入り口に消えたと思えば、戻ってきたとき手にしていたのは彼女の身長よりも大きなマントだった。新芽の上に無かったのは、積んでも自分からは付けないと見越してのことだったらしい。
「いつもみたいに、翅羽が痛いなんて我儘言わないでくださいよ」
 こちらも観念して少しかがむと、彼女は手際よくそれの上二箇所を留めた。肩が重くなったが、気付かれないよう腰を伸ばして、右の掌を天に向けた。
 ライアは俺の姿を前や後ろからじろじろと眺め回し、きちんとした格好をしているか確かめる。俺はいささか呆れながら手に風を集めていく。掌が熱を持ち始めたのは、陽に照らされたためではない。緑に吐き出されたそこらじゅうの空気を集めていくと、透明だったそれは白さを増し、風の動きに合わせて揺れながらも形をとどめていく。
「大丈夫、これなら王の前でも恥ずかしくありませんよ。急いで下さいね。それから」
 最後まで聞かずに跳び上がり、風に乗った。下からきんきんと耳に響く声が追ってくるが、言葉としては聞こえない。
 陽射しに気付いて目を細める。雲が切れてきたのだ。この調子なら、城に着くまでに髪も乾くだろう。肩からなびく布を手前に引いて、背中の翅羽を解放してやる。
 風の下に広がる土地を眺めた。俺の住む場所は深い緑の一色になって、どこに家があるのかもすぐには分からない。俺たち精霊族の住む土地、その中心にあるのは自然という大いなる力だ。時ではなく場所によって決まった気候、王都に近付くほどに巨大化していく植物、豊かに流れる水、風も火も世界を形作る土も十分にある。
 見る限りではいつもと何も変わらないが、では何が起きたというのか。
「随分久しぶりだな、お前も呼び出しか」
 ぼんやりと流れ行く景色を眺めているところに、どすんと横から乗り込んできた奴がいた。一瞬座っていたところが不安定になり、慌てて風を集め直す。
 前に聞いたときから十年以上の時が経ち、かなり低くなってはいるものの、それは幼いときを一緒に過ごしたシュアの声だった。隣を見上げると、陽の光を遮るようにして、わずかに昔の面影を残す横顔がじっと前を睨んでいた。昔と変わらず短い茶色の髪は、真っ向から風を受けて後ろへなびいている。正装でかっちりと身を固めているのは俺と同じだった。
「ってことはお前もなんだな。まあ、俺はお前と違って重大な使命を承りに行くんだが」
 冗談めかして言うと、固く強ばったままだった頬は崩れ、彼はやっと首をこちらへ向けた。髪と同色の瞳が、陽に照らされて橙に染まっている。
「さてはお前、オレの評判を知らねえな。どうせ王城にも来てないんだろ。もしかしたらお前が頂くのは怠慢へのお叱りかもな、覚悟しとけよ」
 シュアは片方だけ口元を歪めて笑うと、左の手を丸めて体から離した。そこに白く風が渦を巻いて集まり、俺の乗った風と相まって何かの獣のように暴れまわる。あまりの不安定さに、立ち上がって風の力をゆるめ、いくらか空へ返してやる。
「じゃあな、お先に」
 横目でちらりとこちらを振り返ると、シュアは俺の作った風を飛び降り、自分の作り出した風に着地した。その後姿は一気に加速し、すぐに見えなくなってしまう。
「なに言ってやがる」
 掌に力を集めて風のほころびを直すと、こちらも王城へ向かって加速した。顔にあたる風が強さを増す。
 やがて地平線の深い緑が切れ、小さな泉とその向こうの平原が見えてくる。ごちゃごちゃと広きにわたって様々な色が集まっているのが王都で、その向こうに見える大小の塔の集まった建物が王城だ。
 頭に手をやって髪が完全に乾いたことを確認すると、少しずつ力をゆるめて速度と高度を落としていった。

 王都の周りに広がるのは平原であるものの、所々に見える植物は細かい葉脈さえ見えるくらいに巨大だ。ここから離れて両側にある「境界」へ近付くほど、葉は掌よりも小さく、鋭い木々が天を威嚇するようにして立ち並ぶようになる。
 王都の上を飛ぶとまず目に入るのは、鮮やかな家々の屋根と賑やかな声だ。精霊界で明確に街と定められた場所はここのみ、ここより人や物の集まる所はどこにも無い。
 都の向こうに並ぶのは石造りの二十四の塔だ。ここには、兵と大臣の間に位置する塔官が住む。屋根はまっすぐに天を目指して空を突き刺しているが、それ以外の壁は丸みを帯び、光を集めて象牙の色に淡く輝く。
 そして全ての中心、塔に三面を囲まれるようにして堂々と構える巨大な白い建造物が王城だ。力の中心でもあれば知識の中心でもある。王も兵の大半も大臣たちもここにいる。
 王がいるのは城の最上部にある謁見の間だろう。その一つ下の階の窓に風を止めて中を覗き見たが、いるのは数人の下級兵士だけだ。そうっと窓を通って中へ降り立つ。
「リンク様?」
 背後から驚いた声が聞こえた。びくりと肩を震わせてそちらを振り返ると、それは顔馴染みの兵だった。息をついて階段へ向かおうとしたところで、呆れた声が追いかけてくる。
「何をなさって……門は何のためにあるとお考えなんですか」
「分かった、次からな」
「ブライス大臣が眉をひそめておられましたよ、規律に厳しい御方ですから。もっとも、神聖なる王城に窓から入るなんて規律以前の問題だと思いますが」
 ブライス――アーティ・ブライスは大臣の一人だ。俺を育ててくれたヴェイン大臣と組であるため面識はあるが、その彼に目を付けられていたとなると多少のばつの悪さを感じる。
「悪かったって、今急いでるんだ。王がおられるのは上の謁見の間だよな」
「いえ、精霊塔におられるはずです」
 精霊塔と言えば、王――精霊王の自室だ。城に隣接して建つ塔の一つであり、そこへはこの城から伸びる回廊を渡ってしか行くことができない。
「シュアもそっちへ行ったのか」
「少なくともこの階は通っておられませんね。シュア様が窓からお入りになるとも思えませんし」
 了解の意として手を上げ、階段へ歩く。一つ下の階に下りると、数多くある通路に混じって回廊が伸びており、それを抜ければ精霊塔だ。
 右に曲がって回廊へ入ると、驚くほどひと気が少なくなる。ここから精霊塔までは一本道で、通る者も限られてくるためだ。少し歩いただけでざわめきも消え、自分の足音が反響して長く続くだけとなる。同じ間隔で響く自分の靴の音を聞きながら、ゆっくりと考えた。どうしてわざわざ自室なんだ、他の大臣にも聞かれたくない話ということか。
 そこまで内密な勅命を俺とシュアに? いや、もっと大勢かもしれない。別におかしな話ではないが、何かひっかかった。本当に、何か重大な事件でも起こったのか。
 横の窓からは光が漏れ、その向こうには回廊の果てと塔の外観が見られる。
 自分の足音が少し早まったのが分かった。また右へ曲がると、そこからは行き止まりの壁までの最後の直線となる。真向かいに見える壁は、塔のかたちを残してやや湾曲しており、黒の大きな扉が付いている。その側には二人の上級兵、その奥に広がるのはこことは全く違う空間だ。
 表情を変えずに歩いていく。と、扉が開いた。思わず息を止めてその場で立ち止まる。
 うつむき気味に出てきて扉を閉める姿があった。彼は顔を伏せるようにして通路を少し左よりに歩いてくる。前髪と鼻に隠れてやっと見える口は、横一文に堅く結ばれていた。俺の脇をすり抜けようとするところで声をかける。
「シュア」
 それまで俺に気付かなかったらしい、驚いて顔を上げたシュアの頬は、どこか青ざめているように見えた。大きく見開いた茶の目も濁っているように感じる。
「何だったんだ、話って」
 シュアはくいっと精霊塔を首で示しただけだった。自分の耳で聞いてこいというわけだ。
 ゆっくりと遠ざかる背中をしばし眺めていたが、向き直って扉へ歩いた。扉の左についた兵が顔色も変えずに言う。
「お名前を」
「リンク・ローエル」
 言った途端に、重々しく硬質な光を放っていた扉は自ら細く開いた。
「間違いありません。お通り下さい」
 うなずき、扉を押して体を滑りこませた。

 部屋に入ると、今までと一転した暗い空間が訪れる。心なしか温度も低い。
 こう暗くてはつまづきそうだが、足に引っかかるような物は何も無かった。ここは空間そのものなのだ。
 部屋の奥には一すじの光が貫き、その中を漂うように、俺よりも若い少年の姿があった。目をつむり、まるで泳ぐように光の中で揺れている。耳が短く、背中の窮屈なものを着ていることからすると、人間の誰からしい。
「今度は随分と若い御姿を」
 ――リンクか、寄れ。
 その声は部屋全体から聞こえた。腹に力を入れ、驚くまいと自分に言い聞かせて歩み寄る。光の中で泳ぐ少年――王の体がゆっくりと目を開いた。
 ――久しぶりだね。ちゃんと日々の仕事をこなしているかな?
 声から少し遅れて口が動く。やはり、目の前にある体が声を発しているのでは無さそうだ。声に合わせて口を動かしてやるなんて、王の好きそうな戯れだ。
「はい。僭越ながら王、御姿によって口調を変えるのはお止め下さい。困惑いたします」
 ――はは。境界近くにいた人間の中から適当に選んだのだが、不服か。
「不服ではなく。困るのです」
「そうかい。でもいいじゃないか、ちょっとした真似事だよ。人間だったり子供の姿だったりさ。どんどん若返ったり、ね」
 突然、今まで空っぽだったはずの体が喋りだした。光の中で泳ぐのをやめ、ゆらゆらとたゆたう。その代わりに、部屋全体から響いていた声は無くなった。
「どなたの?」
「ん、内緒」
 いかにもおかしいと言わんばかりにくすくすと笑う。やがてぴたりと笑い声はやみ、少年らしさを全面に出していた声は、心もち低めとなった。
「では仕事の話に移ろうか。何故お前やシュアをこの部屋に呼んだか分かるかな」
「他の者に聞かれては良くないという事ですか」
「そう。それでいて、兵や大臣ではなく、お前たちを選んだ」
 俺より背の低い姿が、光の中で俺を見下ろす。
「精霊界を騒がせたくはない。お前たちなら秘密裏に行動できるだろう。塔官であるにも関わらず塔に住まないのはお前たちだけだ。何より、仕事に見合った力も持っている」
「……何が起こっているのです」
「うん? 夢と現実が交錯し始めた。漠然としすぎて解しがたいかもしれないが」
 仰せのとおり、漠然としすぎて解しがたい。
 すると王は両の手を前に差し出した。まめのある幼さを残した掌に、淡い二つの光が現れる。一つは黒、もう一つは白だ。その間には薄い壁が浮かんでいる。
「夢、現実、これら二つは別々の世界に居を構えている。これは分かるな」
「はい」
 突然、二つの光が奇妙に揺れた。まるで陽炎の向こうを見ているようだった。壁にひびが入り、細かい欠片が落ちては消える。
「その境界が崩れ始めた。少しでも二つが繋がれば……」
 壁にわずかな隙間ができると、そこから互いの光が漏れ、互いを打ち消していく。
「互いが互いに干渉し、地上はすぐに虚のみの夢幻へ姿を変えてしまう」
 そして最後には何も無くなる。王の手は光を失い、またゆっくりとたゆたう。俺の瞼には二つの光の残像が未だに焼き付いていた。
「分かったかな」
「地上は、ですか。天上や地底は?」
 王が首を振る。
「今はこの世界だけだ。しかしここが滅びれば、天上や地底も遠からずそうなるだろう。地上が一番弱い世界だからな。……神の力の弱まりは、直に地上へ影響をもたらす。小さな傷口が治らなくなる」
 実感が無いだけによく分からないが、俺がこうして生きている、その現実が夢になるということなのか。俺自身も気付かないうちに?
「それで、私たちは何をすれば」
「シュアと共に地上を周れ。原因はどこかしらにあるはずだ」
 どこかしらとはどこだ。見当もつかず、眉を寄せて王を見上げる。
「何か手掛かりはあるのでしょうか」
「あればお前たちを派遣したりするものか。……そうだな、だがきっと歪みのある場所だ。歪みからは歪みが生まれ、そこから崩れが起こる」
「歪み……?」
「見付けたらシュアに報告させろ。お前たちが対処しようとする必要は無い。……どうした」
 じっと見上げている俺を見返して、彼は怪訝な顔をした。黒に近い短髪に灰色の眼、何より精霊界にそぐわない人間のかたち。ここで見るのでなければ、誰もこれが王だなどと思わないだろう。
「シュアにも同じ命を?」
「左様だが、どうかしたか」
「いえ」
 少し不思議に思ったのだ。大命を受けたからといって、シュアはあそこまで深刻な表情をする奴だっただろうか。会わない十数年をどう暮らしてきたかは知るよしもないのだが。
「それでは失礼いたします」
 一礼をして暗闇を抜けた。扉を開けると眩しい回廊が続き、壁に連なった窓からは仄白く輝く城壁が見えた。



「おう」
 静まり返った回廊を抜けて大広間に出ると、シュアが壁にもたれて向かい側の遠くにある壁を眺めていた。俺を見てわずかに顎を上げる。
「聞いてきたか」
 頬にはもう血の気がさしていた。あれは見間違いだったのかと、安心をおぼえて軽くうなずく。
「よりにもよって、お前と二人旅とはな。王も厳しいことをおっしゃる」
「それはオレの台詞だろ」
 腕を組んで軽く俺を睨むが、すぐに表情を和らげた。シュアの茶色の目に、窓の外の空がちらっと映る。
「ごちゃごちゃ言ってたって仕方が無いな。手当たり次第ぶつかってみるか」
 肩を一度ぱしっと叩き、前を向いて歩き出す。果ても知れぬ命を果たすため、地上をめぐるために。





戻