ル ケ リ

 日はとうに落ちた。霧を通してぼやけた月の灯りをわずかにはね返す地面、遠くの景色の前には、槍に似た刺々しい囲いの影が立ち塞がる。
 風を切って枝の一つにしがみつき、肩の辺りに絡みついた汚れを繕う。ただただ静寂だ。
 時折子供達の声がそこらに響き渡る。ギャアギャアとこだましては闇に吸われる。
 風のざわめく夜だ、木の葉の声もかすれる夜だ。
   辺りは暗い、いつも通りさ。私達の姿も溶けてしまう、いつも通りさ。
   うすく霧がかかっているよ、いつも通りさ。風が冷たい、いつも通りさ。
   人がやって来たよ、それはいつも通りではないな。

 そちらに首を向けると、なるほど女らしい影がふらふらと歩いている。柔らかな土をかすかな音で踏みしめながら、私達のもとへ向かってくる。私達は身動きせずに女を見つめる。
 頭から爪先まで全てを白で覆った女だ。この黒い刻限のこの場所にそれはひどく目立つ。
 一続きの白い服に裸の足、色の薄い髪が時々肩で揺れている。しかし白いといっても光を放つのではなく、どちらかといえば特有の昏さを吐き出しているように感じられる。
 正確な歳は読めないが、足元の安定しないのを除けば風貌は若い。
 女は私達を見ようともせずに石の一つを右へ曲がった。おぼつかない足取りのままどこかへ向かって歩いていく。
    迷い込んだか、いやそうも見えない。それでは何の為にこんな真夜中にここへ。
 冷たい風がここら一帯を舐めていく。女は震える様子も無く、何かを目指して揺れている。
 そしてもう一度角を曲がり、一つの石の前で足を止めた。そのまま立ち尽くして足元を眺めている。
    立ち止まったぞ。立ち止まったね。あれは誰の場所だ。さあね。
 女の右手がゆっくりと上げられる。そうして初めて、その手に何か握られていたことを知る。
    あれは何。知らない、霧でよく見えないよ。
 細い月がそれに映った。その光は霧を通ってここまで届く。
    きらきら光っている。光っているね。あれが欲しい。おやめなさい。
 女がすっとその場にしゃがむ。手が大きく振り上げられた。振り下ろす。きらきら光るそれが土に吸い込まれる。土が濡れているせいか音はほとんど聞こえない。
 息も声も殺して、彼女の様子をじっと見つめる。彼女はこちらのことなどお構い無しで、一心不乱に振り上げる、振り下ろすだけを繰り返す。露でちらちら光る土が、少しずつ形を変えていく。どうやらその地を掘っているようだ。
    あの人何をしているの、さあ知らないよ。怖いね、黙って見ておきなさい。
 女はその場に膝をつく形となっていた。白い服が汚れるのさえ厭わぬらしい。それとも汚れるのが嫌だとか、瑣末なことを気にしている場合ではないというのか。
 ただ何らかの刃物を地面に突き刺し続けるその様は、さながら狂気の沙汰だった。女の周りの退けられた土が小さな山を作る。湿り気を帯びた時折柔らかく崩れながら、静かに女を埋めていく。
    あの人何をしているの、知らないと言っただろう。
 寒さを感じる素振りも見せず、休もうという様子も無いまま、女は確かに埋まり始めていた。足だけはかろうじて他と同じ高さにあるものの、腰より上の半身は自らが掘った穴に隠れている。より深くまで、何かを探そうというのだ。
 とうとう女は刃物を捨てた。腕を伸ばして、自らの指で土を掻く。輝く色の髪がだらんと落ち、土に紛れて横たわる。
    あれはどいつの場所だったか、いちいち覚えないな。
 と、女の動きが止まった。ぐ、と下へ向かって伸び、穴の中の何かを抱え出そうとしているようだ。
 細い体は今にも落ちてしまいそうだった。何度も持ち直しては引き上げようとしている。
 女の膝が土にめり込む。足の指は裏に反り返り、爪を立てて沈んでいく。
 やっと女の指が姿を現した。血の気も無かった真っ白な手は、今は泥だらけだ。
 女の両手が掴んでいたのは大きな箱だった。黒い大きな箱、上面に赤い十字が描かれている。膝を一歩後ろへ退き、それを引き上げようと腕を曲げる。
 その大きさと女の華奢さからは考えられないほど簡単に、それは女の膝の前に横たわった。
 女の髪が闇に溺れる十字を光で彩る。檻のような髪をかき上げることもせず、女は呆然とその場に座りつくしていた。
 その指は今はかすかに震えている。躊躇うように箱の泥を払う。手をかけられた箱の蓋は抵抗も無く浮き上がった。まともに釘も打たれていなかったらしい。
 指が曲がり、蓋の端をしっかりと掴む。泥に濡れた白い手首はそのまま空中で弧を描いた。
 蓋は跳ね除けられ、箱の中身があらわになった。
    あれはどいつの容れ物だったか、いちいち覚えないな。
 女は今度こそ呆然と座りつくしていた。
 身動き一つせずにじっと箱の中身を見つめている。髪を揺らしていた風ももう止んでしまった。力なく土の上に横たえられた指だけが、時々痙攣したようにぴくりと動く。
 月が雲に巻かれながら空を滑っていく。
 女が棺の中に見たのは腐りかけた体ではなかったのだろう。かといって無機質な底でもなかったに違いない。
 きっとそれは肉を失くした体、肉片も残さずに白々と輝く不自然に綺麗な骨だったのだ。
    あれはどいつだったか。
    ……いちいち覚えないな。


 月は落ち、陽の欠片さえ見えぬまま朝が降ってくる。
 女はいつの間にかどこかへ消えたようだった。棺の埋まっていた穴は残っているのに、棺そのものが無い。持ってどこぞへ消えたのか。
 首を傾げて町を見る。今日は妙に騒がしい。いつもは町全体が墓場のようなのに今日は人影が見えるではないか。
 ふと教会の方を見ると、霧の奥から仲間がこちらへ向かっているところだった。どこへ出かけたかと思っていたら、今まで町にいたらしい。呼びかける。
 葉がさざめいて枝が揺れる。風を連れ、仲間は私達と同じように並んだ。
    一昨日から親父さんが心配してたぞ、知ったこっちゃないな。
    収穫はあったか、今日は人目が多くってやっていられない。
    一体何があったんだ、さあ、今までどこにいたんだってくらい人が湧いてきて凶事だと騒いでるんだ。

 霧は止まず、今も町を覆い隠す。湿気の多い空気にこの体はだるさを増す。
 町から退くことのない大勢の人々。ギャアギャアと騒ぎ立てているのはご自身じゃないか。
 霧はますます濃くなる。灰色の空がわずかに光を失い、木々から垣間見る天にも夜が滲む。その頃にはもう騒ぎも収まり、群集は地面に吸い込まれたように消えていた。静寂の町を闇が包む。
 冷えた風が一帯を舐めていく。身を寄せて寒さをしのぎ、ただ朝を祈る。朝が来たからといって陽は見えないし暖かくもならない、霧が晴れるわけでもないのだ。それでも闇の中では朝を祈るしかない。
 子供達をはさんでうずくまり、首をうずめる。最近は町の奴らもこちらを警戒するので、簡単には食事にありつけないのだ。それなら寒さからだけでも守ってやらねばならない。
 いくらか過ぎたかという頃、仲間が首をもたげて町のほうへ鼻を向けた。
    人がやって来たよ。
 片方の足を引きずるようにしてこちらへ向かってくる姿があった。よくもあれだけの格好で寒くないものだと感心する。
 白い服に肌、わずかな光を集めて輝く髪、その姿はやはりこの場には異質なものだった。昨日の女がまたやって来たのだ。
 少しずつ近付いてくる姿から、昨日より更におかしな歩き方をしていることが分かる。ここと町とを区切る柵に右手をかけ、右足だけで跳ねるようにしている。髪に覆われて表情は見えないが、恐ろしい形相であの場所を目指しているように思われた。そこまでしてこちらへ来たい理由があるというのか。
 ぎこちない一歩一歩から恐ろしいほどの執念を感じる。左の足は怪我でもしたのか、土に埋まったままこちらへ滑ってきているように見えた。
    あいつだ。今日、町の奴らが騒いでた相手だ。
 黒い口がそう呟いた。町へ行っていた仲間だ。
    最近町へ帰ってきたらしいが、墓から新しい屍を掘り出して肉を喰らったんだと。
 そこでまた女を見る。女は柵の植えられた位置を過ぎたようだった。だらんと垂れ下がった左手は針のようだ。その向こうにちらと赤い十字が見えた。
 昨日の棺だ。女の不安定な動きにあわせて、闇の中から赤がゆらりと姿を現す。柵を頼りに片足で歩き、左手に棺を引きずった女は、とうとう柵の切れ目まで来た。柵に隠れて縞だった女の影がようやく一つにまとまる。
    でもおかしいな。奴は片足を繋がれてたはずだが。
 女の体は支えを失くしてよろける。地面に手を付いてなんとか倒れるのを堪えると、少し遅れて髪が白い顔を覆った。濡れた土の上に細い糸が散らばる。脹脛があらわになるが、どちらの足にも鎖や縄は見られなかった。
 それでも女は膝を付いてこちらへと這い寄る。虫のように体を収縮させては棺を自分に引き寄せていた。白い服は、水気を含んだ土に侵され闇へと溶けていく。女の息よりしっかりと音を成しているのは、棺に入った白さなのだろう。それは最早、周りに肉を纏った一つの生きものであったことなど微塵も感じさせない。からからに乾いて砕けかけた固形物、ただの石なのだ。
 左足は未だ土の中だ。白い足首が途中でぷつりと途切れたように見えなくなっている。……いや、
    血の匂いだ。
 女の左足などどこにも無いのだ。私達の見える場所にも見えない場所にも、あの女の足など存在しない。
    引きちぎってきたのか、どうやって、知るものか。
    何の為にだ、あの十字を引きずってここへ来るためだろう。
    だから足を切り落とし十字を引きずってまで何をしに。

 地を舐めるように這いながら、女は昨晩と同じ道を通っていた。その跡は土が削れて歪んだ一本の線となる。少し遅れてその左脇を流れるのは棺の足跡だ。
 女の痕の付けられた土が、柵の切れ目から昨日の穴までを繋いだ。
 霧の向こうに女が見える。その頭の向こうには黒々と光を飲み込むような穴。赤い十字の住まう場所だ。
 女の白い腕が棺を近くまで引き寄せ、穴の中へ落とす。……濡れた土よりも中の骨の方が大きな音を立てた。女が穴の中へ腕を伸ばして蓋を横へのける。女の髪で穴の中が輝いて見えた。
 やがて女は顔を上げる。髪をかき上げて真っ白な頬を霧にさらし、何かを探すように上に向けた顎を左右させた。
 そしてこちらで目を止める。顔の肉をぴくりとも動かさずに私達の住まう闇をじっと見つめる。まるで、今まで一度もこちらを見なかったのも策だった、自分には全てが見えていたのだというような静かな表情だった。女はこちらのしたことも全て分かっているのだ。
 冷たい空気が頬を叩いていく。外気に晒された体がぴりぴりと痛んだ。闇から女を見つめ返す。糸のような髪がわずかな風に揺らぎ、集められた光が上下する。瞼さえ動かさずに女はこちらを観察していた。
 見つめ続けた闇が色に変わり、静寂だけの時間が音に変わる。まるで目の前のものが絵に変わってしまったようで、今なら女の睫毛の数さえ数えられそうだった。女の喉がゆっくりと動き、あの体は息をしているのだと分かる。
 少し上げられた顎からこちらまで、ぴんと一直線に張られた糸が見えるようだった。
 ふ、と女の顔が和らぐ。次の瞬間、女の体は穴の中へ消えていた。天を向いて落ちていく髪、骨が女の重みを迎え入れる音、ゆるく固められていた土の壁が衝撃で少し崩れる。
 それから後は何の音もしなかった。闇に沈んだ大きな穴とはいえ、命が絶えるほどの落差は無い。それでも女はもう屍なのだ。自ら棺に入ることを選んだ、足を切り落としてさえ骨と共にあることを望んだ。
 胸に何か鋭いものが触れた。いつの間に起きていたのか、それは温めてやっていた子供達の嘴だった。
    ごはん。
 無邪気な顔でそう鳴く。嬉しそうに声も弾んでいた。かわいそうに、腹を空かせた子供達はこれ以上待てないのだ。
 幸い今回は蓋をこじ開ける必要も無い。箱は既に穴の中へ沈んでいるが、土に隠されているわけでもない。女だった体が敷いている、肉片一つ残らない骨ほどは手間取らずにすむだろう。
 頷いて女の眠る穴を嘴で示す。子供達は我先にと飛んで行ってしまった。
 女の髪の沈む暗闇へ子供達が群がり、一際濃い闇となる。明日の朝にはあの女も、あの白さに見合った輝かんばかりの固体となるのだろう。私達の中で、焦がれて止まないあの骨……数日前まで男の体をしていた人間と再会を果たすのだ。
 ゆっくりと休むがいい。両腕を失くした体に囁く。願わくば、お前を愛する男でも現れてお前の後を追わんことを――お前のように。
 子供達の腹は膨れたようだった。羽を広げて漆黒に空を染め、枝を蹴る。ギャアと一声鳴き、久々の食事を啄みに穴を目指した。
アト カタ 。          オヤス ミ 。