ユ メ ク  ヒ ザ キ

 この家には窓が有りません。外へ続く扉も無く、ただ壁ばかりが奥まで続き、また所々で折れ曲がっているのです。
 それでもどうした事か昼と夜の区別は付いたもので、昼の間には家の中をふらりと彷徨ってみるのです。灯りがしろじろと照らし出す廊下はその全てが部屋と繋がっており、私はその度に行き止まりのみで創造されたこの住処を面白く、不思議で、でもどこか寂しいものに感じるのでした。
 昼の気配が遠のくと私は自らの部屋へ急ぎます。この家は私が思うよりもずっと広いらしく、探索中にはよく迷いそうにもなるのですが、私の部屋へ帰る途だけは一度も間違えた事が有りませんでした。歩いてゆくうちに見覚えの有る大きな扉に会うのです。
 夕闇が迫ったらもう大変。部屋の扉を閉めて戸棚の小瓶に口づけ、ベッドを軋ませて布団にくるまります。そのまま待っていると何処からか足音が近付きます。それを聞くと私の小さき体はいっそう縮まり、聴覚のみを研ぎ澄ませるのです。
 やがて音が過ぎ去ると、私はわずかに体を起こし、パパは毎日何処から帰ってくるのかしらと不思議に思います。実は私の知らない何処かに外への扉が有るのか、それとも何も無い空間から花びらの散るようにして現れるのでしょうか。
 実の所、私はそれを確かめてみたくて仕方が無かったのですが、パパは私にこの部屋から出ないよう言うので、夕暮れにはこのベッドで丸まるより他に術が無いのです。パパは私の唯一人の家族なのですから。悲しむ顔など見たくはありません。
 私の記憶に描く事が出来るのはこの部屋と白すぎる廊下、一つの家具も無い部屋たち、そしてパパだけなのです。それ以外にどんな素敵なものが有るのか予測も付かないので、私は心に鍵をかけ、それらのものを抱き締めます。ママという人は見た事が無いので、きっとパパが私を産んだのでしょう。
 私が今までに見た景色は、今でも埃一つ被ってはいないのです。





 夜の匂いが濃くなると私は布団を整え、出来る限り美しく眠ろうと試みます。この部屋には火種も燭台も無いので確かではありませんが、それでも出来る限りまっすぐに、なめらかに布団を整え、その中に私を収めます。緊張しながらどれ程か待つと、またパパの足音が近付いてきます。
 がちゃり と重い音で開いた扉からは光も風も差し込まず、また同じ音で閉まります。私の部屋に入った足音が此方へゆっくりと近付いてくるのを、膝に力を入れて待ちます。うっすら目を開けてみてもやはりそこは暗い闇で、誰も、何も見えはしません。
 何を考えるのも止め、息の音を聞きます。聞き覚えのあるようにも思える、しかし全く知らない人かもしれないのです。闇の中に勝手にパパの顔を浮かべるのは私の頭なのです。
 じっと待つと布の擦れる音がし、温度が近付くのが分かります。私は更に膝の力を強めます。襟元が涼しくなり、この首に、温度の高い指が絡みつく時、自分の指も顔も喉も凍らせて私はお人形となります。
 それがどれ程続くのでしょうか、本当にお人形になってしまうかと思われる頃、指先の余韻を残して温度は私から離れてゆきます。静かな足音が扉を通って闇へ消えてしまった後、私はやっと息を迎えて私に戻るのです。
 目を凝らしても闇の中、何も見えません。何も見えはしません。私には今の人が誰なのか分からないのです。この家はパパと私が住まう処、だからといってどうして見知らぬ人でないと言い切れるのでしょう。もしかすると、今のことは全て夢かもしれません。毎晩同じ夢を見続けているだけかもしれないのです。
 そして、そのような疑いを棄て切れぬまま、毎晩私はお人形となるのです。





 いつもの朝の青い匂いを吸い込んで、私は起き上がります。部屋の中は真っ白なのにやはり闇だらけ。どうして私は朝と昼と夜を知っているのでしょう。ベッドを降りて戸棚に手を伸ばし、小瓶を取ります。硝子を通して中にあるのは小さな蕾、その向こうにはまた硝子、そしてその向こうに闇。
 パパがくれたこの小瓶は、唯一私の記憶が始まってから此処に現れた物です。中で時を待っているのは確かにお花の蕾なのですが、来る日も来る日も咲くのを待っているのはどうにも不思議で、少し可哀相に思われます。枯れたりはしないのでしょうか、でも私が此処で幾年も腐りそうになりながらも生き長らえているのと似ている気がして、いつか花びらの開く日を待っていたくなるのです。
 この家の中で唯一、外の匂いをまとった物。この花の内側を見る日は来るのでしょうか。その時見る私は居るのでしょうか。硝子には憂いを含んだ瞳が、躊躇いがちに映っています。その少女の唇に口づけ、元通り戸棚に戻して私は扉へ向かいます。もうパパはこの家に居ないのでしょう。どこからか外へと出て行って、また夕暮れになると足音を響かせるのでしょう。
 扉の向こうは気が遠くなる程の白が続いています。何もかもいつも通り、私が毎日暮らしている空間のままです。もう分かっている事を確かめに、私はいつも通りこの広い家を歩き回っては外へ繋がる扉を探すのです。壁だらけの廊下は行き止まりだらけの廊下、触れても温度を感じない、狭い路です。
 まるで音も匂いも味も、何も無い処へ意識だけを飛ばしてしまったような錯覚に陥るので、時々思い付いたように声を出してみます。昔はパパのことを呼んでいたのですが、パパは夕暮れまでは音にも現れないと知ってからは私自身を呼びます。そしてそれに応えるのです。此処よ、此処に居るわ、心配しないでね。
 そして、この家の全てが果てなのだと何百度目かの確認をし、夕暮れに気付いた私は部屋へと急ぐのです。





 昼と夜とを交互に、彷徨う時とお人形の時とを交互に、幾度繰り返したことでしょう。
 数える術も持ってはいませんが、私の胸は徐々に膨らみ始めています。それを見る人も、見せる人も、私以外には見つけられぬまま、あのお花のように時を止めるのでしょうか。やがて熟れきるであろう私の体は、蜜を孕んだまま枯れ果ててゆくのでしょうか。
 この家には、外への扉は本当に無いのでしょうか。外という世界は本当にあるのでしょうか。外の中にあるから、此処を家と言うのではないのでしょうか。
 今、持ち込まぬようにと言い聞かせられた火や燭台を私が持っているのは、パパへの小さな反抗だったのでしょう。自らの部屋を灯で紅く染めて、戸棚の脇に立ちます。
 手元に有るのは蕾の小瓶、色付いただけの哀しい終わり姿です。まだ足音は聞こえません。今のこの部屋はとても紅く、いつもの冷たさが嘘のようです。夕暮れという刻はこのような空気ばかりを産み出していると聞くけれど、それならば美しい青の朝も、眩しい乳白色の昼も、限りなく深い紫紺の夜も要りません。
 今、灯に照らされたこの部屋は、私の指先によく似ているのです。ふとした拍子に私を壁の中へ溶かしてしまえるかもしれません。壁になった私は、外の風を浴びることが出来るでしょう。辛抱強く待てば、夢に溶ける程の美しい夕陽に逢えるかもしれません。
 うっとりと紅い火を見つめていると、突然足音が響きました。身を硬くして音を聴きます。音はいつもより焦ったような様子で此方へと向かってきます。ベッドと火を交互に見つめました。
 早く、早く眠らなくちゃ。お人形に化けなくちゃいけないわ。蝋燭の火を吹き消して戸棚の上の燭台に立て、布団にしがみ付きました。闇になった部屋の中で目を瞑ると同時に、荒々しく扉が開きます。膝に力を入れて息を殺します。



 その息の音は、いつもよりわずかに速く、はっきりと聞こえました。扉が素早く閉まります。再び瞼の奥に闇が滲むので、その中に浮かぶパパの姿を必死で振り払います。きっと今私の傍に居るのは、見も知らぬ御方なのです。奇妙な夢を毎晩のように見続けているだけなのです。
 息の音が此方へ向き直り、少し乱れました。やがて昨日と同じように、一昨日と同じように、毎晩繰り返しているように、温度の高い手が私の首を探りました。右の手は左寄りに、左の手は右寄りに吸い付きます。いつもと同じように。なんと画一的な夢なのでしょう。
 膝に力を入れます。手を布団に縛り付けます。しかし喉を凍らせる前に、その汗ばんだ指は私の首をきつく縛り上げました。いつもの限界を超え、どこまでも強く。親指がめり込むのが分かります。爪が食い込むのが分かります。
 血が首の中を流れるのが感じられます。耳の中で砂に似た音が聞こえます。顔がひどく熱く、今にも弾けてしまいそうに感じられます。美しく閉じたはずの瞼が歪み、息が震え、狭まった喉の奥から声にならない声が漏れます。自分が今どんなに醜いお人形なのか気にかけることも出来ない程、私は諦めたはずの生を渇望していました。
 ふ、と指が首から離れました。起き上がって背中を丸め、手の届かない場所まで必死で逃げます。それから必死で咳き込みました。目の中を光がちらちらと泳いでいます。顔を上げると、滲んだ扉の向こうが見えました。どうして扉が開いているのか疑問に思った時、やっと自分の外の音も聞こえてきました。
 誰かが誰かを殴りつける音。ぶつかる音、大声、床の鳴る音、何かが落ちる音。暗い中、完全には消えていなかったのか、先程消したはずの蝋燭の火だけがちらちらと小さく揺れていました。思わず頭を抱えて布団の中に潜り込みます。状況は理解出来ないままだったのですが、恐ろしい事態だという思いだけは心を染め上げていました。
 やがて、何か、気味の悪い音が数度あって、全くの静けさが舞い戻ってきました。



 それからいくつか数えましたが、布団の外は静かなままでした。ゆっくりと布団を除け、顔を上げます。視界にはやはり滲んだ火がかすかに揺れるのみで、先程の二人の姿はどこにもありません。あれは夢だったのでしょうか。このちっぽけな頭は、相も変わらず幻を見たのでしょうか。
 燭台を此方へ持ってこようと、ベッドから足を降ろしました。その時、ぼんやりと真実が見えました。私はベッドから足を降ろしたまま、立ち上がる事が出来ずに床を眺めていました。
 床に転がっていたのはパパの後ろ姿、それに隠されるように知らない姿。どちらのものか分かりませんが、流れ出たものが床を蠢いています。いえ、きっとパパの血なのでしょう。後ろからだって鋭い傷が見えるけれど、そこからは何も覗いていないのです。パパの右手は何かを握り締める形で、見知らぬ御方のお腹まで伸びています。きっとあそこに有るのでしょう。先程の不気味な音と、この光景の原因。
 布団を握り締めたままで腕を伸ばして燭台を取ります。そして、部屋全体を照らしました。部屋は暖かな色に満ちます。パパと見知らぬ御方も暖かな色に染まります。しかし彼らはもう枯れ果てた後なのでしょう。冷たすぎるこの部屋の壁と、同じ色をしているのです。
 そっと手を伸ばしてパパの顔を此方へ向けました。乱れている御髪を分けます。そして私はぼんやりと思うのです、これがパパという御方の残骸かと。そしてパパを枯らし、パパの最後の力によって自身も枯らされた、見知らぬ御方を見ました。
 どなたなのかは分かりませんが、今までパパと私だけだったこの家に突然現れ、私の部屋へ逃げ込み、私を枯らそうとなさった不思議な御方。そして結局私一人を残して、自身を含めた全てを奪い去った罪な御方。この家に迷い込んだのでしょうね、お外と隔絶された場所を望んでいたのでしょうね、一体何から逃げていたのでしょうね。
 でも今私が見るべきなのは、結果だらけの床ではありません。立ち上がって目を瞑り、蝋燭の火を吹き消します。今度は確実に消えるように。もうこの部屋を暖かく、心地良いものにしないように。そして戸棚から手探りで、馴染んだあの小瓶を取り、真っ直ぐに部屋の外へ出ました。

 パパ、今日私の部屋には燭台が有ったわ。蝋燭には火が燃えていた、私の首を締めたのはあの人だと分かった。では昨日まではどうだったのかしら。
 昨日までの夜は、きっと、夢なのでしょうね。私はまだ幼いから、妙な幻を見たりするのよね。そうよね。
 大丈夫よ。昨日まで、あの部屋には火種も燭台も無かったのだから。暗闇の中で、私のような幼子に何が分かるというのかしら。私は何も見なかった。見ようが無かった。私には何も分からないの。
 ね、パパ。それでないなら、あなたが私を守ってくれたことの説明がつかないの。そうよね。
 誰よりも愛しているわ。

 白い廊下を少し歩いた処で、小瓶を見つめて口づけ、蓋に手をかけました。もう解放してやりたいのです。どうせなら共に枯れてやりたいのです。息を止めて、一気に蓋を開けました。
 蕾を覗き込もうとすると、中から溢れてきた花の匂いに気付きました。甘い、甘い空気。小瓶の中に詰まっていたのは吐き気を催す程の甘い空気でした。耐えきれなくなって硝子ごしに中を見ると、それは今は蕾ではありませんでした。
 あの蕾からどうして咲いたのかと思う程の美しい花が、硝子いっぱいに広がっていたのです。甘い空気を生み出しているのはこの花でした。それは小瓶から溢れ出しては、私の吸う空気を甘ったるいものへ変えてゆきます。
 甘い甘い空気。夢を飲んだ私から溢れ出す夢たち。視界が晴れてゆきます。
 目を閉じて、また開けると、そこに見えるのは大きな扉でした。今までのような、果てへ繋がる壁代わりの扉ではなく、冷たい風も優しい陽も夕暮れの紅も知っている、外へと繋がる扉です。
 全てが晴れてゆきます。
 目を瞑って今までの白々とした壁を思い出しました。両手を伸ばして軽く触れます。夢と幻で造られた、緩やかで、哀しすぎる家。私のおうち。パパによって閉じ込められた、私のおうち。

 さようならパパ、誰よりも誰よりも愛していたわ。

 扉に手をかけましょう。私は歩き出すことが出来ます。お人形は小さな反抗を経て、ようやく私へと変わったのです。
 さあ、熟れ始めた私を自由に歩かせてやりましょう。





 もう目覚める時間ね。
 首にかけられたままの指をはがす時よ。
アト カタ 。          オヤス ミ 。