子は母を追いかけた。
 母はどこにいるのか。見当たらないが、さっきまでは確かにここにいた。
 ふと気が付く対岸。風が吹いて草の匂いを運んでくる。母はあちらへ向かったのか。

 子は必死でそちらへ向かう。その眼には、対岸より他に入る隙など無い。
 子は必死でそちらへ向かう。
 子はまだ知らない、岸と岸の間にあるのは何なのか。川の流れる音は随分と遠くから聞こえていること。草の生えている対岸のわずか下には岩がむき出しになっていること。
 対岸の前にあるのは底であるということ。

 その時にはもう、地などどこにも無かった。
 見えない力に引きずられ、落ちていく。明るい空が自分を見捨てて離れていく。空中で必死にもがいた幼い手足に、触れるものはない。
 闇に吸い込まれる――ぐしゃり。しばらくして、あまりに軽い音がした。

 谷の手前の崖下には母親が、その脇には子供が、静かに横たわるばかりだった。





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