だるい……けだるい。あの女のせいだ。何が症状緩和、笑わせる。
 空が曇っている。もう嫌だ、動きたくない、苦しい。少しだけ体を起こすとみんなが見える。みんな私と同じ、だらしなく道に寝転がって、死にかけた虫みたいだ。
 いや、道でもないか。あいつらがみんな壊して、ここいらは全く泥だらけ。私の手も服も顔も髪も、全部泥にまみれて一色になってしまった。
 平和なる街はどこへ行ったんだ、なぁ街長さん。彼も今はどこへ行ったやら。逃げ切れずに殺されたかもしれない。
 みんなあいつらのせいだ。いきなり取り返せなどと言って、こっちは訳が分からない。私らが何を盗ったっていう。地面に頬を押し付ける。霧に濡れてひやりと冷たい。
 こんな霧だって私らは知らない。ここは温暖な街なんだ、なのにこんな薄暗い空。吐き気がこみ上げてきて治まらない。あいつらさえ来なければ。歯を噛み締めたらガリ、と音がした。吐き出す。泥を食っていたらしい。
 どこかからさく、と音がする。渇いた土の音だ。
「苦しいの?」
 後ろだ。後ろから声がした。振り返る気力も無く、振り返らずとも誰だか分かる。
「苦しいのならこれをどうぞ。ミルクよ」
「さっきの女だな」
 ほんの少し体を動かし、睨みつける。
「あら、また会えたわね。その後お加減はいかが」
「会えたわね? お前、何がミルクをどうぞだ。あれからちっとも」
 苦しくなって咳き込むと、喉の奥からも泥が出てきた。舌にざらついた感触があって、自分の体の中から腐った水のような匂いがする。私も今や立派に汚物の仲間入りだ。
「普通のミルクだもの。でも栄養くらいはつくはずよ」
「何が栄養だ、お前が……」
 腕をつく。力を込めて、なんとか起き上がった。体の重みを支える手が、水を含んでぐちゃぐちゃになった土にめり込んだ。
「お前らがこうしたくせに!」
 それは今からもう十日ほど前になるか――

 朝、家から出てみると街が取り囲まれていた。誰だ? 分からない。対立するような村は無かった。
 戦うすべなど持たない私らは家に隠れた。みんなただ隠れて怯えていた、でも奴らは門を破って入ってきた。何か叫びながら「何か」を返せと。扉が叩かれた、何もできずに隠れていた、扉は壊された、みんな奪われた。何もかも無くなった。
 みんな私らの元からは消えてしまった。家も畑も草地も家畜も奪われた。しかし奴らは私らを殺さなかった。
 それは屈辱だ。私らは飢えていくしかないのだ、今、この私のように。私の目の前には何十人も倒れているのだ。みんな知っている、この街の者だった。霧を食い、泥を食い、飢えて倒れていくのだ。いつか死ぬのだ。私もそうなるのだ。きっと。
 奴らの目的なんて分からない。私らは奴らを知らないんだから当然だ。奴らがここに来る理由なんて、ましてや奪う理由なんて、あるはずがないんだ。
「ミルクが……何になるんだ」



「お前らは……誰だ」
「誰だと言われても。西方のいち民族でしかないわ」
「西方のいち民族が、どうしてここを襲う!」
 叫んだ後でまた咳き込む。勝手にミルクが流し込まれる。
「無理しないで。どうしてなんて言われても困るわ、私だって知らない」
「反対はしなかったのか。そんな無茶、誰か反対する奴は」
「そんなことする気は無かったわ。子供の頃から教え込まれてきたんだもの、この街を倒すぞって」
 舌打ちさえうまくできない。
「……誰に」
「誰って、みんなよ。みーんな。長老から父さんから、みんな言ってたわ。この村から取り返さねばならないって」
「何をだ」
 何をという、一番大切な部分は決して言わない。それが分からないというのに。奴らがしきりに叫んでいる、取り返せと。何を、それは言わない。ただ取り返せ取り返せ取り返せ……。
 それが理由なのか。この村を襲い、全てを壊した理由なのか。
「何を取り返したいんだ」
「まだ言えないわ」
 ぽちゃん、と軽い液体の音がする。ミルクを取り損ねたのか。
「まだってことはいつかは言うのか」
「ええ。あと二日よ」
「明後日に何があるって?」
「まだ言わないってば。明後日には準備が整うでしょ。そうしたら、一緒に行きましょ」
 黙って、にこにこと笑う顔を睨んだ。どうして今私にミルクを飲ませているのか、その周りにどれだけの屍が転がっているか、こいつには本当に分かっているのか。この街を壊すだけ壊して、今度はどこへ行くつもりだ。
 西方のいち民族の村、か? みんなを連れて行くのか。私も連れて行かれるのか。
「さ、ミルクを飲んで。明後日までは生きていてもらわなきゃ」
 喉にへばりついた土の間を、ミルクが通っていく。その取って付けたような甘さが私は嫌いなのだが。

 女は去っていった。私は一人になる。独りになる。怒鳴っているときの苛つきは薄れ、けだるさが舞い戻ってくる。
 みんな動かない、霧の中に沈んでいる。みんな動かないのか、本当に動かないのか。霧の中で寒くはないのか、なぜ震えない、なぜ動かない。土にまみれて嫌ではないのか。
 もう私以外に、誰も生きてはいないのか……。
 誰か私を呼んでくれ。私は寂しい、苦しい、誰か私の名を呼んでくれ。





「あなたは名乗らないのね」
 首だけ振り向くと、やっぱり昨日の女だった。右の手にはあの甘ったるいミルクの缶。
「名乗る?」
「そうよ。そう聞いてたの。だから意外だわ」
 忌々しい。女を睨む。
「どうしてお前なんかに名を言う必要がある。己の目的さえ明かさないお前に」
「あなたは本当に、人に対して刺があるわね」
「分かってるのか、お前は敵なんだぞ」
「でもあなた、私の言うことを突っぱねて何になるっていうの。こんなこと言いたくないけれど、私は支配した側なのよ……仲良くしましょ」
 ミルクが流し込まれる。咳き込む。
「私はツァールよ。レクトツァール」
 訊いてもいないのに名乗っているのは自分じゃないか。口から溢れ出た白い線が頬を流れていく。ぬぐう力も無い。
「あなたは?」
 忌々しい、この女が忌々しい、濃い褐色の眼、私を見下ろす眼、忌々しい。
「名前を忘れた?」
「……チェリアズ」
 あら、と女が驚いたように言う。それも忌々しい。この体に力があったなら、こんな女など蹴り飛ばしてやるのに。
「じゃあチェリーかしら、それともリーズ」
 何も答えないでいると、また口がこじ開けられてミルクを流し込まれた。
「おい、お前は」
「ツァール」
「黙れ。お前はどうしてミルクを配る、そんなことをして楽しいのか」
「楽しくなんかないわよ。死体か、あなたみたいな不機嫌な話し相手しかいないもの」
「いいのか。支配された側と馴れ合って、いち民族とやらの長老から怒られるんじゃないのかよ」
 笑い声が聞こえた。こんな場所に似つかわしくない、明るい笑い声だった。久々に聞いた気がするが、今はただ耳に不快なだけだ。
「まさか。だって長老に言い付けられていることなのよ」
 なんだそれは。自ら襲い奪っておいて、助ける?
「矛盾だ……お前らはおかしい」
「おかしくなんかないわ。ずっと前から言われてるもの。ミルクだけは与えなさいって、じゃないとあなたたちと同罪だって」
 は、と眉を寄せたが、きっと弱々しすぎて傍目には何も変わらなかったに違いない。訳が分からない、こいつらの民族は一体何をしたいんだ。私の街とどういう関係があった。取り返すもの? 交換? 罪とは何のことだ、分からない。何もかも分からない。

 霧の向こうにレクトツァールが消えていく。揺れている肩に、段々と薄くなる衣の色をじっと睨んだ。やがてそれは完全に霧に溶け、私の目は見つめるものさえも失った。
 大地の唸り声以外には何も聞こえなくなる。霧に犯されて、拭うこともできないまま私の頬は湿っていく。何故か少し寂しさを感じた。
 仲間が、抜け殻となった仲間たちが霧に埋もれているからだろうか。誰も見えないからだろうか。私はそんなに不安なのか。
 霧しか見えないではないか……?





 明後日がやってきた。辺りが少しだけ騒がしい。遠くで響く音と共に、私の這いつくばる地面も不愉快な振動を吐き出しているように感じる。人の街でどんな馬鹿騒ぎをしている。
 抗議もできない。声を出すこともままならなくなり、屍に抱かれて私は弱っていく。少し霧が強くなる。
「ミ、ル、ク」
 一つ一つ切り離すように声が聞こえた。レクトツァールだ。どうにか瞼を開けて、眼球のみでその姿を探す。視界は大分狭まった。
 右肩を押されて仰向けにされ、ミルクが落ちてくる。冷たかった。甘い匂い。もう喉は自由に動かない。
「さ、今日は理由を話す日だったわね」
「……やく、話せ」
「大丈夫よ、一緒に行きましょう」
 体が持ち上げられた。腕がレクトツァールの肩に回される。一点だけ支えられた肩に、体中が引き攣れるような違和感を感じる。しかし痛みはほとんど感じなかった。
「んー、やっぱりちょっと重いかなぁ。でも大丈夫ね、あなた見た目よりずっと軽いんだもの。さあ行きましょうか」
 馬鹿のように呟いて、私を支えたままよろよろと歩きだす。泥にまみれた私の体は、彼女の細い体が支えるにはおかしいほど簡単に道を進んでいく。
 私はもう自分で歩くこともできないのか。満足に声も出せないのに、歩くどころの話ではないのだろうが。ちらと見えた足は、昔駆け回っていた頃の姿は見る影もなく、ただの棒切れのように見えた。いつの間にこうなったのか、寝転がっている間は気付かなかった。
 足の感覚は無い。時々ベチャベチャと音がする。水たまりに足が落ちた音だ。それでも冷たくない、不快でもない、それが哀しい。
 咳き込んだつもりだったが、そんな音など聞こえなかった。
「見えてきたわ」
 視線を上げ、顔を上げる。泥で固まった睫毛の隙間から何か見えた。見慣れぬ姿の街の中に残る見慣れた景色、巨大な建造物の縁部分、それは私らのゴミ捨て場だった。
「みんなを……あそこに連れていったのか」
 喉の奥からかすれた声が出る。泥の声だ。私も連れていかれるのか。
「私らは、ゴミか……!」
 吐き出すような咳が出た。口から垂れた涎だか泥だか分からぬものが、足元まで長く糸を引く。やがて口を閉じる力も無くなった。息ができない。私はゴミか。
「馬鹿なこと言わないで、あそこはゴミを捨てるような場所じゃないのよ」
「でもあそこはゴミ捨て場だ」
 私はもうゴミなのだ。泥の体に泥の声を備えた生き物。あれが何であろうと、私はきっと。
「もう着くわ、あんまり憤らないで」
 何か言おうとして、口の奥の空洞を息がひゅうと通り過ぎた。
 私は本当に生きることのできる者か、どうして私一人ここにいるのだ。みんな戻ってきてくれ。私は本当に独りなのだ、どうして私だけ生きているのか。置いていかないでくれ、私を、私一人を。
「着いたわ。階段上れる?」
 うつむいた目の前にくすんだ石が見える、もっと手前にはべとべとになって固まった私の髪が重ったらしく揺れていた。元の銀色はどこへ行った。
「ああ、もう始まってる」
 私は悲しいのだ。
「ほら、見て。綺麗でしょ?」
 レクトツァールの手が肩を叩く。眼を開けた。ここは薄汚く臭く、人も寄り付かないゴミ捨て場だ……



 薄く開けた目を、光が刺すように貫いた。思わずぎゅっと目を閉じて、上下の睫毛が絡んでしまう。なんとか外してもう一度目を開けた。
 ゴミはどこにも見当たらない。暗い中にぼんやりとライトが浮かんでいた。それが集まっている場所、一番明るい底面に人間がいて何か話している。
「ここは……」
 ここはゴミ捨て場で……ゴミ捨て場? これが?
「ホールって呼ばれていたらしいわよ。なのにあなたたちにとっちゃ、ゴミ捨て場でしかなかったのよね」
 ここはゴミ捨て場のはずで、しかし目に映る光景は私の知っているそれとは全く違っていた。
「こんなに整った設備があるのにね。本当に悲しいことだわ」
 ゴミで埋め尽くされていた巨大な穴には何百もの人々が座り、じっと底面のやりとりに耳を澄ませている。
「蝶姫っていう劇なんだって。私たちはあれしか知らないわ。昔はもっと色んな所から色んなものを集めていたはずなんだけど、どこかへ消えてしまったの。私たちには形の無いものを創る術が無いから」
 ホール? 劇? そんなものなど知らない。しかしそれは誰かが目を背けた結果に違いないのだ。
「この街に来たことのある長老がいたらしいの。ずぅっと昔の話。色々と旅していたんだけれど、ここを本当に気に入っていてね。いつも言っていたらしいわ、ホールが見たいって。どうして街の人はホールを市場にするのかって」
 ここはかつて劇場だった。そしていつのことかは知らないが、市場になった。そしてゴミ捨て場となり、今また劇場に戻ったのだ。
「今なんてゴミ捨て場。私たちはみんな、ここに夢を抱いていたの。ここは聖地だった、形の無い、形に残すことなど到底できない芸術の集まる場所。……絶望したわ、ここは私たちの夢でもあったんだから」
 ひどく勝手な考えだった。しかしそれを責める気力などどこにも無かった。
「私たちは聖地を奪われた、だから取り返しに来たのよ。あなたたちはここの価値なんて知らないんだものね」
 殺された者たちの顔が次々と浮かんでは消えていく。そして最後にはレクトツァールの顔が浮かび、真っ黒に染まって消えた。
「私たちはここに住まわせて頂くわ。もともと遊牧だったしね。私たちの方がこの街を豊かにできる」
 もう嫌悪も無かった。好きにするがいい。どうせ止める手段などありはしないし、止めようとする最後の人間もすぐにいなくなる。
「あなたも具合を治さなきゃ。これが終わったら、長老に薬草を頼んでみるわね」
 わずかに首を振った。それが自分にできる最後の動作であろうと思った。
「私は……」
 眼を閉じると、そこにはみんながいた。みんなは私を見捨てなかったのだ。すぐ側にいた、私を待っていた。私は歩く、みんなの元へ、私の居場所へ。
 耳に聞こえていた台詞も段々遠く、静寂とも違う霧のような無の中へ去っていく。

「愛しき人よ、蝶姫よ。街へ出たのか蝶姫よ……」
 この劇を見たかった。
  ここがホールと呼ばれていた頃の劇。

     最後まで見てから、


   「 息さえ知らぬ貴方だが、僕は御跡を行きましょう…… 」





「まずは補修しなきゃなあ。このままじゃ危険だよ。ほら、ここなんかぐらぐらになってる」
「そうだね。なんだか薄汚れているし、草もはびこっている。匂いもまだまだ取れないしなぁ。こんなんじゃちゃんとした劇なんてできやしないね」
「長老、補修するという案で宜しいですか」
「まあ待て、まずは腰を落ち着けてからだ。補修を始めるのはその後からでもいいだろう」
「でもさ、こんだけ大きなものを補修するのって、結構大変じゃない。何年かはかかるよね」
「まあ、じっくり腰を据えてやっていこうじゃないか。時間はいくらでもあるんだ。その間には新たな長老も決まるだろう」
「私達は、前の住民のような失敗はしない。ここを守ってみせる」
「ねえ、蝶姫以外にも何か劇を作りたいよ」
「そうだな。考えてくれるか」

『私たちは、前の住民のような失敗はしない』



 そして、また振り出しへ戻る。





     アトガタリ