市場は今日も栄えています。
 僕達は昨日この街に着いたばかりですが、この市場には驚かされました。石造りの通りが盛り上がったような大きな建物は人で埋め尽くされています。今までに多くの街を回ってきましたが、これほど賑やかな市場は他に無いでしょう。あまりに混んでいて中に入れなかったくらいです。
 ドーラも驚いていました。もっとも、彼女の驚きの対象はその商品の多様さと安さでしたが。
 ドーラは僕の姉です。年はほとんど違わないし、しっかりした性格でもありません。僕は彼女を姉だとは思っていません。彼女と一緒に色々な国を旅しているのです。
 目的は特に有りません。僕達はただ、その日のパンとミルクが手に入ればいいのです。
 話が聞けるのも有難いことです。時々里帰りもしますから。その時に色んな国の面白い話を聞かせれば、子供たちはどんなに喜ぶでしょう。木陰に座った僕を急かす子供達は、本当に可愛いのです。
 話というものは大抵、宿屋か酒場に転がっています。だからドーラには酒場で休んでもらって、僕が買い出しに来た所です。幸い、パンは小さな店にて安価で手に入りました。しかしミルクは市場でないと売っていないというのです。
 市場を見るのですが、人の群ればかりであまり入っていきたいとは思えません。今日この街に来たばかりの僕に、うまくその場所が分かるとも思えません。途方にくれ、市場の周りをぐるぐると歩いていました。
「あれ?」
 その時僕が見付けたのは、ミルクではなくお婆さんでした。木陰で休んでおられますが、顔色からするとどうも具合が悪いようです。
「お婆さん、大丈夫ですか」
 お婆さんは目を開きました。しわの奥に、海の色の目があります。
「坊ちゃん、お暇かしら」
「はい。具合が悪いのなら、お送りしますから家を教えて下さい」
「まあ、有難う」
 お婆さんを背負いました。比較にしてはいけないのでしょうが、ドーラよりもずっと軽い方でした。悪いわねぇ、と後ろから聞こえた呟き声に、笑顔で大丈夫だと返します。
 肩にかかったお婆さんの白髪は、陽に輝いてとても綺麗でした。

 家は市場から近い所にありました。この街ではよく見かける、白い石造りの壁に、鮮やかな暖色の屋根です。中にいたのは小さな子供が二人、あまり似てはいませんが、お婆さんのお孫さんでしょうか。
「ただいま、リリアス、レヴィアス」
 リリアスと呼ばれた方が男の子、レヴィアスと呼ばれた方が女の子のようです。
「ありがとうね坊ちゃん、昔から足が弱くてねぇ」
「いいえ。えっと……」
「コールという者よ。あなたはどこか遠い場所からの旅人さんなのね、言葉はとても上手だけれど、少し聞き慣れない音が混じっているわ」
「ミッチェと申します。仰るとおり出身の村はずっと遠くで、今は色々な場所を旅して巡っている最中です」
 コールというのは姓なのでしょう。家の脇に彫られていた文字が、そんな発音をするものだったと思い出しました。
「ミッチェ。何かお礼がしたいわ。何がいいかしら」
 リリアスが駆けてきました。追うようにレヴィアスも、小さな体を伸ばして走ってきます。
「よろしければ、ミルクを少し分けて頂けますか」
「そんなもので良かったらいくらでもどうぞ。どうせなら食事も一緒にいかがかしら、腕を振るうわよ。あなたは一人旅なのかしら」
「いえ、もう一人います」
 レヴィアスが足にしがみついてきます。抱き上げると、笑いながらお婆さんに手を伸ばしました。僕の髪を引っ張ったりぶんぶんと腕を振り回したりと、やることには事欠かないようです。
「じゃあうちに連れてきなさい。この子達も喜ぶわ」
「本当ですか、有難うございます」
 レヴィアスを下ろし、ドーラを呼びに向かいました。街はやはり賑わっていて、家の場所を見失わないようにと目印になるものを覚え、酒場の看板を探して歩き出しました。



「ね、ね、あんた達さ。この街の面白い話って知らないかな」
 あたしの声に、マスターとだべってた数人がこっちを向いた。大柄なのも小柄なのも混じってるけど、どれもまだ、やっと少年を抜け出したくらいの風貌だ。まだまだ世間を知らない甘えきった目をしている。
「話ぃ?」
 知ってる? いや知らない……こんなやり取りが繰り返される。
「なんでそんなの知りたいんだ」
「あたし、弟と放浪してるんだ。あ、あたしの名前はドーラね。村に帰ったとき、みんなに話してやったら喜ぶでしょ」
 へぇ、と興味無さげな返事だけして、またみんなジョッキに手を戻す。その中の一番若そうな奴が思い出したように言った。
「あれは? 蝶姫」
「蝶姫ね。面白そう、話してくれる?」
 曖昧なうなずきが聞こえる。他の奴らが席を立って、酒代をちゃりちゃりとカウンターに置く。どこの街に行っても、お金の音っていうのは耳に心地よく響くもんだ。ここは銀色の貨幣が主で、三種類程度のものを使い分けてるみたいだった。
「じゃあ俺ら、市場に行ってくっから」
「分かった。また明日な」
 数人がだるそうに手を上げる。扉の閉まる音がして、そいつが視線をあたしに合わせた。
「悪いね、残らせて。じゃあお願い」
「蝶姫ってのは、この街に伝わってる古い話なんだ。劇にもなってるんだって」
「へえ、なんか良さそう」
 口を閉じ、そいつが話し出すのを待った。椅子にもたれて腕を組む。
「昔このあたりは森ばっかでさぁ、それを畏怖して作ったものだと思うんだけど。森をずーっと行くとまた違う森の入り口があって、その森を果てまで進むと、いたんだって。その蝶姫って精霊が」
 思い描くけど、簡単には想像できない。後でミッチェに言って絵を描いてもらおう。
「精霊の側にはラングザームって精霊がいて、蝶姫を守ってた。そこに突然フェーテルって奴が現れるんだ」
「それも精霊?」
「いや、街の奴だ。蝶姫を見に来たんだ」
 そこまで言うと、ジョッキを簡単に空けてしまった。いい飲みっぷりだ。若いうちからこんなんで、真っ当な大人になれるんだろうか……なんて、放浪してるあたしに言われたくないかもしれない。
「蝶姫に惚れこんで街に連れ出そうと、何回もそこに行く。あ、ラングザームは日のある間しかいないからな、夜に誘いに来た。フェーテルの女のリザってのもそれに加わって、結局」
 言葉を止めてジョッキ底の泡を恨めしそうに見ると、もう一度喉の奥に流し込む。
「ラングザームは必死で止めたけど、蝶姫は街に出るんだ。そんでその帰り道、猟師に矢で射られる」
「え、なんで、どうしてよ」
「珍しいものって好きだろ。だからじゃねぇの」
 席を立って、底に白い泡が残るだけのジョッキに水を注いでやる。あんまり飲み過ぎはいけない。
「じゃあ蝶姫はそのまま、どっかの金持ちのお邸のお飾り?」
「最後まで聞けよ。あのな、森が蝶姫を守ったから、猟師は逃げ出したんだとさ」
 そこあたりは、さも退屈そうに言いのけた。一番脚色の大きい場面だからだろうか。こっちも肩をすくめて椅子に座りなおす。
「でも蝶姫が死ぬと森も死んで、後から来たラングザームも絶望に死んだ。フェーテルはどうかっていうと、相も変わらず蝶姫を誘いに来て、そのうち頭がいかれて死んだんだとさ。終わり」
「へぇ……」
 こいつから聞いてる限りじゃ悲劇だか喜劇だか分かんない。子供達には細部をもうちょっと変えて話してやらないと。名前だけをきっちり覚えると、本筋を頭の中で整理して席を立った。
「ありがと。じゃあね」
「礼は?」
 振り向く。礼だなんて、これだから昼間から酒場に入り浸ってるような甘やかされっ子はたちが悪い。当ても無い旅の一つでもしてみろってもんだ。腰に手を当てて大きく息をついた。
「あいにく、放浪の身には何も有りません。それより教えてよ、その劇いつ演ってるの」
「もう演ってないよ」
「どうして」
 水の入ったジョッキさえ簡単に空けてしまった。こいつらの体はどんな風に出来ているんだろう。
「誰もそんな劇、必要としないじゃん。普通に毎日働いた方が金になるしさ。劇の目新しさが無くなってからは観客も入らなくなって、でも一回演じるのに食う金は減らねえし、観劇料がつり上がるだろ。したらますます誰も見に行かなくなるの悪循環だ。俺がガキの頃は、そんな劇があってたなんて知らない奴ばっかだったしな。さっきだって俺しか知らなかったし」
「そう……。あんたは母さんに話してもらったの?」
「爺ちゃんだよ。もう死んだけどな」
 今度はそいつ自身が席を立って水を注いだ。透明なジョッキを自分の席に置いて、だるそうに座り頬杖をつく。
「でも演じた場所ってのはまだあるんでしょ、壊すのだってお金かかるもんね」
「今から行くけど付いてくるか」
 水を一気に飲み干すと、マスターにお金を払う。銀貨の中でも一番価値の低いものだった。音も特に良くない、かき集めたような小銭だ。
「んー、いいや。そこらでミッチェが待ってるはずだから」
「ミッチェ?」
「弟だよ」
 物腰丁寧だけど、あたしを姉とも思わない生意気な奴だ。こいつらみたいに甘えてるわけじゃないから、腹は立っても苛立つことが無いだけ良いのかもしれない。
「そ、か。ドーラだったな。俺はジェシカス・コーリアス」
 だから何だっていうんだ。鼻を鳴らして次の言葉を待つ。
「またこの街に来るまで覚えとけよ。名前知ってたらまた会えそうじゃん、そん時に案内してやっから」
 どう返事しようか迷った。あたし達は同じ街を何度も訪れたことがないんだ。特にここは残ってる話が少ないし、これから生まれる可能性も低い。
「じゃあな」
「……じゃあな」
 とりあえず、それだけ返した。入り口へ歩き出したそいつはすぐにあたしの視界から消えたけど、あたしは振り返らなかった。乱暴に扉が閉められる音がして、マスターがそちらへ笑いと共に悪態を投げつけた。



 青のような銀のような、とても綺麗な髪の人とすれ違いました。年のころは僕より少し上、ドーラと同じくらいでしょうか。
 そのまま歩き、この街で三番目に訪れた酒場でドーラを見つけました。ドーラは僕を振り返ると親指を立て、口の右側だけをぐいっと引き上げて笑ってみせました。彼女の方は、うまく話を見付けたようです。
「あんた何してたの。どうせまた何か買えないものでもあったんでしょ、どんくさいんだから」
 苦笑してマスターに軽く頭を下げ、店を出ました。通りにはまだ人が多く、それはほとんどが市場のある街外れへ向かう人、もしくは市場の印のある袋を持ってそちらから来る人です。きっと真正面から市場へ行った所で、ミルクを得ることはできなかったでしょう。お婆さんに本当に有難く思いました。
 ドーラに事の経緯を話すと、態度をころっと変えて僕の肩を強く叩きました。
「さっすがあたしの弟ね、あたしに似てしっかりしてるわ」
 いつものことに呆れる気も起きないまま、来た道を辿ってお婆さんの家へ帰りつきました。



「蝶姫って、いつごろまで演じられてたの」
 ドーラがいきなり、意味の分からないことを言い出しました。彼女の方へ振り向いて、あまりに突拍子も無い話をするなと眉根を寄せました。しかし僕の後ろから聞こえてきた声は意外なものでした。
「あら、それを知っているのかしら」
「さっき酒場で教えてもらったの。でも今は誰も知らないって。生まれた話が消えるなんて変なの」
 お婆さんも笑って対応しています。蝶姫とは一体何なのでしょう、演じるということは劇名でしょうか。
「酒場でねぇ……。そうね、今は知っている人さえ珍しくなってしまったわ」
「お婆ちゃんは知ってるのよね」
「勿論よ。昔はみんな親から子守唄のように聞いて、台詞も全部諳んじられるくらいだったのよ。ホールも満員になったわ」
「ホール?」
 お婆さんの口から出てきたのは聞き馴れない言葉でした。そんなものがあったなら、どこかでそういう話を聞いたり、そのものを見たりしてもおかしくないはずなのです。
「ええ、私が演じたことは無いけれど。友達はよくあの舞台の上にいたわ。綺麗だった……」
 視線はこちらにあるものの、それは遠い過去を見る目でした。海色の眼の向こうにどんな記憶を見ているのでしょう。向こうの方からリリアスが駆けてきて、僕の膝によじ登って座りました。
「ヴィアンの母さまでしょっ」
「お爺さまもだよ」
 リリアスの声と、重ねるようにレヴィアスの声が飛んできました。ヴィアンという人のお母さまと彼らのお爺さま、新たな名前と関係に、目を白黒させて頭を働かせます。
「そう、ヴィアニスの両親ね」
 それでもやはりお婆さんは笑って対応しています。
「あの、ヴィアン……ヴィアニス? それはどなたなんでしょう」
「ああ、ごめんなさいね」
 駆けてきたレヴィアスは、お婆さんの膝に座りました。お婆さんはレヴィアスを抱えるように手を回し、組んだ両手を彼女の膝に置きました。
「この子達の父親よ。ヴィアニス・ツェ・フォルテ。つまりこの子達の祖父母のことなのよ、さっき話していたのは」
「あれ、この子らってお婆ちゃんの孫じゃないの」
「違うの。預かっているだけよ、ヴィアンもベヴィークトも忙しいからね。あ、ベヴィークトはこの子達の母親ね」
「じゃ、お婆ちゃんに孫はいないの。子供も?」
 椅子にもたれて足を揺らすドーラ。母さんにあれほどやめろと言われていたのに。せめて人の家にお邪魔している時くらいは、と頭を抱えました。しかしドーラはそれに気付かず、何馬鹿なことをしている、という目で僕を見るのです。
「どちらもいるわよ。もう働ける年だっていうのに、お友達とつるんで遊び回ってるの。困った子だわ」
 そう言いながらもお婆さんは笑っていました。やはり、孫だから可愛いのでしょう。
「ジェスでしょ」
「ジェスだー」
 リリアスとレヴィアスが両方から言いました。きっとそれがお婆さんのお孫さんの名前なのでしょう。
「そういえばお婆ちゃん、そのホールってどこなの」
「ホールは街の外れに今もあるわ。補修が行われていた頃から毎日見に行っているのよ。でも足が弱いからね、今日みたいなことになっちゃうんだけど」
「でも……」
 ドーラの顔を見ました。ドーラも、珍しく僕と一致した表情でこちらを見ていました。
「……ねぇ。見なかったよねぇ」
 お婆さんの言葉が頭に跳ね返りました。今日みたいなことになっちゃう。今日、初めて会ったとき、お婆さんはどこで休んでおられたのでしょうか。
「ミッチェはもう分かったみたいね」
「え、何なのホールって。どこよミッチェ」
 お婆さんは静かに眼をつむりました。目の上に積もっていたしわが下に引き伸ばされ、どれが瞼なのか分からなくなります。
「補修を終えてせっかく生き返った劇場も、維持していくには、劇を創り続ける者とそれを観る者が要るのよ。私たちに足りなかったのは劇を創る側、蝶姫以外に私は話を知らないし、自分で考えることもできないわ……この街の誰もが、それをできなかった。観る側もいつしかいなくなり、そして……」
 そしてホールは市場になったというわけなのでしょう。街の外れにある石造りの大きな場所、今日お婆さんを見かけた場所。
 そしてあんなに賑わっていると、そういうわけなのでしょう。その理由は、補修された当時と時を経た今とで全く違えど。

「だからミッチェ、ドーラ、二人にお願いするわ。この街とは別のところで「蝶姫」を繋いでほしいのよ」
 最後にお婆ちゃんは、皺と斑点だらけの手であたしたち二人の手を取ってそう言った。あたしたち二人は話を集めることしかできない、この街の人々は話を創ることができない。それはよく似ていて、あたしは忘れかけていた痛みを探り当てられた気がした。
「悲しい話だけれど、とても好きなの、これが」
 滅びが始まったら、それに身を委ねてなるに任せるしかなかったホール。それはこの街であり、そこに住まう人々であり、お婆ちゃんであり酒場で会ったあいつだ。そしてあたしたちにだって何の違いもない。
 だからあたしはミッチェに、ミッチェはあたしに誓った。里帰りしたらきっとこれを話そう、これをきっと継いでいこう。蝶姫もラングザームもフェーテルもリザも、それを演じたお婆ちゃんの友達も、消してしまうには惜しすぎる。
「蝶姫のなり損ないの、キャスィー・コーリアスからのお願いよ」
 またいつかこの街に来ようと思った。それはあたしたちでも、あたしたちが蝶姫を語っていく誰かでもいい。一日だけでもあのホールで蝶姫を蘇らせてやりたいんだ。今は市場となったホールが本当の賑わいを見せるさまを思い浮かべてみる。
 その時も酒場には奴がいるだろうか。街はその時、補修のときにはあったはずの本物の喜びを思い出すんだろうか。
 肩に乗ったものの重みが、今はただ嬉しかった。





     アトガタリ