ウィルから便りが届いた。シャシンと呼ばれる絵が一枚入っていた。



 ひと月に三度の、広場での祭り。集まるのは子供、なかなか物資の手に入らない末端に住む人々、それらを対象にした商人や旅芸師だ。
 ヒースと会うのは、もう十度目をこえていた。蝶の光と人の集まりを探すレミア。
 その中で俺はひどく苛立っていた。頭の中がかっと煮え立っているかのようだ。詩歌に会って全て吐き出したかった。
 昔、詩歌が街にいた頃なら、鏡に映った俺自身の姿を詩歌だと思うことができた。
 今は無理だ。レミアはどこからどう見ても詩歌には見えない。最後の策が、おじさんの声を聞いて詩歌を連想することなのだ。あまりに悲しくって笑えやしない。
 俺がそっぽを向いてるうちに、レミアはヒースを見つけたらしい。走りだす。
 ヒースは相変わらずあの帽子だった。こっちを見つけてマスクを外す。レミアは手を振って歩いていく。
「レミア、久しぶり」
「久しぶり。今日の調子はどう?」
「いつも以上に盛況だよ。何か話があるのなら、もう終わるけれど」
 少し驚いた。ヒースは俺が思っている以上に、レミアの表情に敏感だった。レミアが小さく謝るが、内側では感謝しているのが伝わってきた。
 広場を見回すが、おじさんはどこかに紛れて見えなくなってしまっていた。

 森の中に適当に木を探して座る。広場からそう離れていないのにひんやりと冷たく、暗い。
 レミアは何も話さない。俺にはそんな気持ちは分からない。早く全てを誰かにぶちまけて楽になりたいと思う。
「どうしたの」
 ヒースにはやっぱり、レミアの心が分かっているかのようだった。
「今日はとても悲しそうだ。僕でよかったら話してくれないか」
「ただの情けない話よ。ごめんね、ヒースに聞かせられるようなものじゃないわ」
 二人の、いつもの不要な遠慮だ。なんでそうやって嘘ばっかりつくんだ。本当に聞いてほしくないんなら、どうしてヒースを呼んだ。
「でもそれは君の中に有る限りずっと、君を悲しく、苦しく、情けない気持ちにさせるよ。君には笑っていてほしい。情けない気持ちは僕にくれないかな」
 レミアは反発するようにヒースを見る。
「じゃあヒース、あなただって悲しく、苦しく、情けなくなっちゃうんじゃないの」
「僕は少しくらい情けなくたって平気だ。知らないの、滑稽な方が旅芸師には向いているんだよ」
 ヒースはそう言うが、気付いていないのか。今のまま、きらきらの帽子をかぶっているだけで、奴は十分滑稽だ。
 こげ茶の髪にも、さらさらと鱗粉が降り積む。反射的に鼻と口を覆った手に、きらきらと粉が積もる。
「悲しくたって苦しくたって、レミアを見ていれば幸せになるよ」
 レミアの心が微妙に変わるのが分かった。
 ヒースは本当にどういう人間なんだろうか。こんな歯の浮くような台詞だって、不思議だ、こいつは本当に正直に言うんだから。見習いたいくらいだ。もっとも見習ったところで、レミアの中から抜け出さない限り、実践する相手はいないのだが。
「うん。話す……」
 うつむいたまま涙が盛り上がる。ヒースから隠しているんだろう。それを俺だけが知るのは、いたたまれないものだった。

「私には婚約者がいたの。幼なじみで、親同士が勝手に決めたようなもので」
「うん」
「それでね、昨日ね、手紙が来たの」
「……うん」
 レミアは気付いているのだろうか、ヒースの声に淋しさの混ざっているのに。
 きっと、レミアがウィルと結婚する、それでお前が泣いてるんだと思ってやがる。婚約者がいた、というのはこれから夫になるという意味でとらえているのではないか。
「封筒の中には写真が入っててね、その人の父方の故郷の幼なじみの、女の子と結婚しましたって……」
 ヒースが黙った。やっとレミアの表情の真に意味するところを知り、何も言えなくなってしまったのだろう。
 俺はウィルに対して腹を立てていた。婚約解消してからの時間がどうなんて言わない、でも何か釈然としないのだ。
 父方の故郷の別地に移り住むのも原因かもしれない。まるでレミアから逃げてるみたいじゃないか。連絡だって直に会いにくればいい……レミアには逆効果かもしれないが。
「婚約中なのに、他の子と結婚したっていうの?」
 え、とレミアが濁った声を出す。俺は頭をかかえる。この不器用な女は、涙をためた赤い目のままで顔を上げてしまったのだ。
 慌ててうつむく。ヒースも顔をそらす。
「ううん、婚約は解消していたの。ほら、私って時々変な性格になるらしいじゃない。それが原因で」
 俺のことだ。でもこっちだって責められるいわれなんぞ無い。好きでここにいるんじゃないんだから。
「親の決めたことなのよ。好きってわけじゃなかったの。なかったのに」
 なんとか下瞼に収まっていた涙は、瞬きにあわせてこぼれた。
「それなのに、なんだか悲しくてね、悔しくて。そんな自分も嫌でね、でも自分を嫌ってる自分に対しても、自分のくせに無責任だって……本当に嫌になる」
 レミアの言ったそれは、俺には解しがたいものだった。こんなに入り組んだ感情で面倒じゃないのだろうか。
 ヒースは優しく笑ったままだが、理解できているのか?
「レミアは難しいことを言うね」
 更に強く頭を抱えた。お前がそれじゃだめだろうが。
「案外、考えるから嫌になるんじゃないかな。ほら、目を閉じて」
 ヒースは鱗粉だらけの左手を入念に払い、レミアの目を覆った。二人の間を沈黙が流れ、広場の喧騒が湿気を通って流れてくる。
 ヒースの人差し指がわずかに上に動いて、レミアの赤みを帯びた前髪に触れた。
「どう?」
「悲しいままだよぉ」
 手が離れる。レミアは目を開けてこすった。思った通り、人差し指にはわずかに鱗粉が付いていた。ヒースは困り顔で笑っている。
「ごめんね、僕には無理だったよ。……レミアはどうして悲しいの? やっぱり、その人が好きだったんじゃないかな」
「私、そんな」
「あと決定的に婚約者じゃなくなったショックとか、そういうものをいっぺんに背負い込んじゃってるんだよ、きっと」
 レミアはうつむく。もう涙は浮かんでいないが、頭の中から声が聞こえる。ウィルよりも、と。しっかりとした声で力の限りに叫んでいる。
「だからね、図々しいとは思うが――
 ガサ、と音がした。振り返ると、相変わらずの布を頭に巻き付けたおじさん――何ヶ月か一緒に暮らしていて確信した、この人は実に物分かりのいい変人だ――がいた。
「父さん!」
「こんにちは、ご無沙汰しております。数ヶ月前になりますが、本当にお世話に」
 即座に居住まいを正して挨拶したヒースを、おじさんの手が遮る。
「そんな堅苦しい挨拶は無しだ」
「父さん、いつからそこにいたのよ。盗み聞きしてたの?」
 レミアが立ち上がる。もう少しでおじさんの顔が見るというところで、うまくかわされた。
「お前のことを考えて、だ」
 お前という言葉を発する時、おじさんの布の奥の奥の目が俺まで見たような気がした。
「ヒース、娘はこうやって苦しい想いを抱えているんだがね」
「何言ってるの、やめてよ父さん!」
「君には何でも話すようだ。よかったら傍についていてやってくれないか」
 レミアは顔を上げておじさんを、次にはヒースを見る。ヒースは今までになく真面目な顔をしていた。レミアも緊張しているのが痛いくらいによく伝わる。
「僕で宜しいのなら、いくらでもお嬢さんの傍にいたいです」
 レミアはまだ緊張したままヒースを見ている。ぎゅっと拳を握りしめた。掌に食い込む爪が痛い。
「そしてあなたにも僕の傍にいてほしい。いつか、その人よりも好きになってほしいと思う」
 俺は、いつか告白する時にはこういう言葉をかけようと必死で覚えていた。
「私、ウィルよりも……」
 言葉にしかけて、そこで止まる。息ができなくなって頬がかっと燃えるように熱くなった。とうとうレミアは続きを言えないままでうつむき、目をつむって顔を覆ってしまった。
「まあ、ゆっくりでいいじゃないか」
 ぽん、と肩が押される。おじさんだった。
「どちらも惹かれ合ってるのは確かなんだろう? 父さんは二人の関係に賛成だから、これからゆっくり歩み寄っていけばいい」
 レミアとヒースは互いの顔を見て、柔らかく笑った。俺は、ウィルの時には感じなかった気持ちを、不思議な満足感を感じていた。





 その頃には何となく分かるようになっていた。レミアはきっと二つ人格を持つ状態にあり、俺がその二つ目なんだ。
 昔、隣の家の乃波から仕入れた知識だった。だが、それとこれが全く同じものとは思えなかった。だって俺はもともと違う世界で、一人の人間として存在していたんだから。
 詩歌の顔が浮かんだ。きっと心配しているだろう。あれからもう半年が経ってしまった。
 俺の身体だけは向こうにあって、紫苑は死んだなんて言われてるんだろうか。もしそうなら、焼かないでくれと祈るばかりだ。
 ――いかにも女の子趣味な飾りのついたレミアの棚の、上から二段目。洋服の下を探り、手に触ったものをそのまま引き出した。
 封筒だ。便箋は見ない。インクがにじんでもう読めないのだ。
 中から写真を取り出す。ウィルとその妻が寄り添っているが、表情だけは幸せを抑えたものだ。
「随分と嫌味な遠慮の仕方だよなぁ」
 封筒にしまって元通りに戻し、ベッドに腰を下ろした。大きく欠伸をする。
「レミアぁ。早く戻ってこいよ」
 この女声にももう慣れた。俺の言葉づかいで聞くのが気持ち悪いだけだ。
「俺のままで式に出るのだけはごめんだからな」
 横になる。布団に吸い込まれていく。

 目を覚ました。ばっと起き上がって時計を見、母親が待っている時間だと焦る。
「やだ、私、いつの間に」
 髪が乱れていないことだけを確かめ、部屋の戸も開けたままに、急いで階段を降りていく。
「今日はヒースとの」、それだけ声が響いた後は何も浮かんでこなかった。心の中で叫ぶ余裕さえ無いようなので、仕方なく俺が続けてやる。「結婚式だっていうのに?」。
 この村のように暖かい風の吹きすさぶ、草に囲まれた小さな教会で。暖かい風の遊ぶ、俺の村のような場所で。
 不思議だった。全く嫌じゃなかった。